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├─≠ョ─ヵラス スタミナ
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├─≠ョ─ヵラス 倒れた相手の顔面を踏みつける必殺技を持ち、「踏みつけ大将軍」の異名を持つ
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├─≠ョ─ヵラス タップ
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├─≠ョ─ヵラス 「グレイシー最強」の看板を背負い数々の闘いを繰り広げてきた格闘家
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├─≠ョ─ヵラスと岡本充功

├─≠ョ─ヵラス あっせん
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├─≠ョ─ヵラ 永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会に参加している。
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├─≠ョ─ヵラスと奥田建

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├─≠ョ─ヵラス 2009年(平成21年)8月の第45回衆議院議員総選挙で馳を破り、当選。馳も比例復活した。
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├─≠ョ─ヵラスと細野豪志

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├─≠ョ─ヵラス 自民党の山本拓から「モナリザはいくらですか」と執拗に野次を飛ばされた。
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├─≠ョ─ヵラス 建設省
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 政治家としての想いは「艱難汝を玉にする」である。
投稿者 格闘技の王子様 21:04 | コメント(0)| トラックバック(0)

アルフレッド・ディーキン

アルフレッド・ディーキン, Alfred William Deakin (1856年8月3日 メルボルン生 1919年10月7日), オーストラリアの政治家、 第2代首相。

目次 [非表示]
1 政治活動
2 参考文献
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
政治活動 [編集]

イギリス移民の家に育ちメルボルン大学で法律を学ぶ、ジャーナリストを経て保守派として政治活動を行う。1901年にオーストラリア連邦が成立し、また移民制限法などが制定されていくなか、エドモンド・バートン初代首相がイギリス植民地相ジョセフ・チェンバレンの提案を受け、日本人優遇措置を構想していた。チェンバレンがバートンに提案したのにはロシア南下対策の一環としての日英同盟・日英関係が背景にあった。ディーキンは「日本人は優秀であるがゆえに危険であり、排除されねばならない」とする日本脅威論の代表的な論客として、バートンの対日政策を撤回させた[1]。
投稿者 格闘技の王子様 03:09 | コメント(0)| トラックバック(0)

エドモンド・バートン

サー・エドモンド・バートン(Sir Edmund Barton、1849年1月18日 1920年1月7日)は、オーストラリアの政治家、裁判官、王室顧問弁護士(en:QC)、である。初代のオーストラリアの首相であり、オーストラリア最高裁判所創設時の裁判官だった。 愛称は「大酒飲みトビー」("Toby Tosspot")。
オーストラリア史でのバートンの最高の貢献は、1890年代を通してのバートンの連邦運動の立ち回りである。1901年の連邦選挙で選出され初代首相に就任したバートンは1903年に首相の座を辞し、オーストラリア最高裁判所判事となった。
目次 [非表示]
1 生い立ち
1.1 政情
2 連邦運動
2.1 1891年オーストラリア憲法制定会議
2.2 2度の司法長官
2.3 オーストラリア連邦憲法制定会議と参政権
3 初代首相
4 裁判所での経歴
5 死と家族
6 名誉勲章
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
生い立ち [編集]



バートン17歳
バートンは株式仲買人ウィリアム・バートンとメアリー・ルイーズ・バートンの9番目の子としてシドニー市のグレーブ(Glebe)の郊外で生まれた。バートンはフォート・ストリート高校(en:Fort Street High School)とシドニー・グラマースクール(en:Sydney Grammar School)で教育を受けた。同校では2度の生徒会長を務め、また生涯の長い友にして後の同僚(最高裁判事)となるリチャード・オコーナー(en:Richard O'Connor)と出会った。バートンはシドニー大学に通い、古典に関して、首席の成績および大学勲章(en:University Medal)と共に卒業した。クリケットでもバッティングで相当の技量をみせた(しかし、守備は駄目だった)。バートンは1871年に法廷弁護士になった。1870年にニューカッスルのクリケット旅行でバートンはジェーン・メイソン・ロスという女性と出会い1877年に結婚した。[1]
1879年にバートンは、ハリス男爵(en:Lord Harris)が指揮を取るイングランドのチームとニューサウスウェールズ州のチームがクリケットの試合をする際、審判を務めた。この試合は、別の審判の論議を呼ぶ判定により群集が競技場に雪崩れ込み、クリケットの国際試合における世界初の暴動(シドニー暴動 (1879年))へと発展した。世評によれば、その状況を静める若きバートンの応対が、彼がオーストラリア初の首相に上り詰める最初のステップとして、何年か後に州の下院議員席を勝ち取る一助となった。[2]
政情 [編集]


バートン23歳
1876年バートンはシドニー大学選挙区(en:University of Sydney)でニュー・サウス・ウェールズ州下院(en:New South Wales Legislative Assembly)に立候補した。しかしバートンは43票に対し49票でウィリアム・チャールズ・ウィンディヤー(en:William Charles Windeyer)に打ち負かされた。[3] バートンは1877年にも同じ議席で失敗したが1879年8月に当選。1880年に任期が終わった後は1880年から1882年までウエリントン選挙区(en:Electoral district of Wellington)と1882年11月から1887年1月までイースト・シドニー選挙区(en:Electoral district of East Sydney)の下院議員を務めた。この時期バートンは自由貿易へのバートンの指摘は「ほぼ不要」であると考えた。[1]1882年にバートンは立法議会の議長になり、1884年にはシドニー大学連盟(en:University of Sydney Union)の学長に選出された。バートンはサー・ヘンリー・パークス(en:Henry Parkes)にニュー・サウス・ウェールズ州上院(en:New South Wales Legislative Council)へと推薦された。[4] 1889年1月、保護貿易党(en:Protectionist Party)のジョージ・ディブス(en:George Dibbs)により州の司法長官に任命された。バートンは(自由貿易に対するディブスの早まった保護政策を嫌ってはいたが)これを受けた。この政府は同年3月までしか継続せず、すぐにヘンリー・パークス(en:Henry Parkes)政権に取って代わられた。 [5]
連邦運動 [編集]



バートン34歳
1891年オーストラリア憲法制定会議 [編集]
エドモンド・バートンはオーストラリア連邦の創設への早くからの支持者で、それはヘンリー・パークスのテンタフィールドの演説(en:Tenterfield Oration)の後、重大な政治議題になり1891年3月にオーストラリア憲法制定会議へ委任された。 この会議でバートンは連邦のオーストラリアで"貿易と交流…は完全に自由になるだろう"という連邦化への明確な支持を明らかにした。 バートンは同様に下院だけでなく上院は代表して枢密院司法委員会(en:Judicial Committee of the Privy Council)への上告の権利を撤廃するべきであることを主張した。バートンはオーストラリア憲法(en:Constitution of Australia)草案作成にも参加し、それは1900年のオーストラリア憲法制定時と極めて似たものだった。[1]
にもかかわらず、保護貿易論者は連邦化に熱心な支持者ではなく、1891年6月にバートンは上院から辞任し、イースト・シドニーで出馬して連邦化に敵対する内閣を意味した限り彼らはバートンから投票を得られないだろうと宣言した。バートンは投票で勝り、後にパークスに投票したがバートンの少数与党政府で地位を得ることを辞退した。後に労働党は政府への支持を取りやめ政府は1891年10月に勢力を失っていき、パークスはニュー・サウス・ウェールズで連邦化運動の指導者の地位を引き継ぐようにバートンを説得した。[1]
2度の司法長官 [編集]
ディブスは保護貿易党政府を結成し、バートンは弁護士として私的な業務を遂行するのに都合が良い司法長官になることに同意した。バートンの協定は来たるべき議会会議で連邦制決議案の支持をディブスが同意することに基づかれてのものだ。連邦制決議を起草するバートンの試みは1892年ブロークンヒルの鉱夫ストライキと複雑な選挙改革議案のバートンのキャリッジに対処しなければならない時、ニュー・サウス・ウェールズ州知事(en:Premiers of New South Wales)としての活動の休止によって遅れた。1892年11月22日、バートンは下院で連邦決議を披露したが議会委員会でそれらの決議の尊重を得ることは出来なかった。その間、バートンは1892年12月にコロワとオルベリーの集会で国民に連邦化を広げるキャンペーンを始めた。にもかかわらず、バートンは1893年10月の委員会で最終的に連邦決議をうまく取りまとめたが議会によって討議される一覧の中にそれらを入れる事が出来なかった。12月、バートンと裁判所を代表する大臣リカード・オコーナーは政府に抵抗する私的な弁護士としての役目を務めることでプラウドフット鉄道委員でそれらの疑義をさしはさまれた。バートンが法廷弁護士の職を辞している間、政府に抵抗する行動の中で弁護士としてのプロの能力で決議に大臣権の動議を失い、即座に司法長官の職を辞した。[1]
1894年7月、バートンはランドウィック(イースト・シドニーの多議員選挙区)の選挙区で再選するため立候補し落選。バートンは1895年の選挙では国会議員達が賃金を支払わなかった期間中も大家族を養う必要があったので立候補しなかった。しかしながら、バートンは1893年1月から1897年2月までの間の期間中連邦化のキャンペーンを続け、バートンはアシュフィールドのシドニー郊外を含むニュー・サウス・ウェールズの300近くの集会所で挨拶した[6]。 バートンはそこで「歴史上で初めて、我々は大陸のための国民と国民のための大陸を持っている。」と宣言した。1897年までにはバートンは「全オーストラリアで認められた連邦化運動の指導者」として尊敬された。[1]
オーストラリア連邦憲法制定会議と参政権 [編集]
1897年にエドモンド・バートンはニュー・サウス・ウェールズから連邦化を提案するために憲法を発展させる憲法会議(en:Constitutional Convention)へ選出された代議員の得票数を上回った。にもかかわらず、サミュエル・グリフィス(en:Samuel Griffith)は憲法の草案の大部分を書いたがバートンはそれを協議会を通して遂行する政治的指導者だった。[1][4]
1897年5月、バートンは連邦議案を主導するジョージ・リードの推薦で州議会上院に2度任命された。これでリードの司法長官ジョン・ヘンリー・ウォント(en:John Henry Want)は議案に反対する自由裁量を与えられた。1897年9月、協議会は植民地時代から論議された286の改正案が提案されたシドニーで開かれた。1898年3月に憲法草案を成立させ、バートンは6月の国民投票で賛成票のためのキャンペーンを導くためニュー・サウス・ウェールズに戻った。けれども多数の支持を獲得したが、それは可決に必要とする最低票数8万のうちの7万1595票しか達成しなかった。[1]
1898年7月にバートンは立法議会の選挙でリード対抗して出馬するために上院を辞職したが落選。9月にバートンはヘイスティングスとマクリーの補欠選挙で勝ちすぐに親連邦化と反連邦化の保護貿易者達との混成でなった反対派のリーダーとして選出された。1899年1月、リードは他の州から重要な譲歩を得て全州で選挙運動を行ったバートンと共に1899年6月の2度目の国民投票のためキャンペーンを行いその中でバートンと合流した。8万2741に対し10万7420票が通過した。[1][5]
1899年8月、労働党がリード政府を辛辣に追いやることが出来たことが明らかになった時、バートンは労働党のやり方を容認できず反対派のリーダーを辞した。そしてバートンの後をウィリアム・ライン(en:William Lyne)が継いだ。バートンは再び司法長官になる要請を拒否した。バートンは女王陛下の政府(en:Her Majesty's Government)に連邦法案の説明をするため アルフレッド・ディーキンとチャールズ・キングストンen:Charles Kingstonと共にロンドンへ出来るよう1900年2月、議会から辞職した。イギリス政府は、憲法草案に取り入れられるよう枢密院への上訴の撤廃に反対し頑なな態度を取った。結局バートンは(内々に、en:Inter se)憲法の争点はオーストラリア最高裁判所(en:High Court of Australia)で成立させる事に同意したが他の争点は女王枢密院(en:PC )へ訴えることができた。[1]
初代首相 [編集]



1898年、未来のオーストラリア初代首相エドモンド・バートン49歳と2代目首相アルフレッド・ディーキン


初代と2代目のオーストラリア首相、エドモンド・バートンとアルフレッド・ディーキン(1901年内閣)
ごくわずかな人々しか最古の州で連邦主義者のリーダーをするバートンが新連邦の初代首相になることを疑わなかった。しかし新たに到着したオーストラリアの総督ホプトウン卿(en:Lord Hopetoun) はそうではなく政府機関を組織しニュー・サウス・ウェールズ州知事ウィリアム・ライン(en:William Lyne)を招いた。連邦議会がまだ設立されていないので下院与党のリーダーを任命する通例の議会は行うことが出来ず、適用する事は無かった。
ホプトウン卿の失敗(en:Hopetoun Blunder)で知られるホプトウン卿の決定は地位を守る事が出来た。ラインは年長者であり連邦化に反対するラインはディーキンのような有名な連邦主義者を容認できず、年下でもあるディーキンに尽くすことを拒否した。張り詰めたやり取りの後、バートンは首相に任命された。そして内閣が組織された。[1][4]
バートンの内閣(en:Barton Ministry)の主な仕事は最初の連邦議会選挙を管理し組織して成功することで1901年3月に開催された。首相で外務大臣バートンと大蔵大臣ジョージ・ターナー(en:George Turner)、司法長官アルフレッド・ディーキン、防衛大臣ジョン・フォレスト(en:John Forrest)、国務大臣ウィリアム・ライン、通商関税大臣チャールズ・キングストン、郵政局長ジェイムズ・ドレイク(en:James Drake)行政最高評議会(en:Federal Executive Council)の副総裁リチャード・オコーナー、無任所大臣エリオット・ルイス(en:Elliott Lewis)で成っていた。バートンは新議会でハンター(en:Division of Hunter)の議席に反対するもののいないなか選出され、バートンの保護貿易党は労働党の支持により政府を組織するのに十分な議席を勝ち取った。バートン内閣はエリオット・ルイスを除く全員が選出され、ルイスは選挙に立候補せずフィリップ・フィッシュ(en:Philip Fysh)によって代わられた。[1]
バートン政府の最初の法律制定の一つは法の下に白豪主義を書きつけた移民制限法だった。政府支持の協定の一部として労働党の要求はアジアからの移民制限の立法であったが実際バートンは自分の選挙運動の中に白豪主義の導入を約束した。バートンは「男性の平等主義はイギリス人と中国人を平等に扱うことを意図したことはかつて無かった」と述べた。[1] 1つの注目すべき改革は、1902年の連邦議会選挙のために女性参政権を導入したことだ。 [7]
1902年の大半をバートンはエドワード7世の戴冠式のためにイングランドで過ごした。この旅行は同様に新たなオーストラリア連邦とイギリスとの協定(イギリス海軍が海外からの海軍脅威から保護する下でオーストラリアが資金を提供する協定)によってオーストラリア植民地時代とイギリスとの海軍協定を返還する交渉にも使われた。[1]ディーキンはこの取り決めを嫌い交渉を取りやめて1908年にしっかりとオーストラリア自身の海軍を拡張するために動いた。[8]
バートンは温和な保守主義者だった。そしてバートンの党内の進歩的な自由主義者たちはバートンの政治活動へのざっくばらんな態度を嫌っていた。大きくて、ハンサムで陽気な男バートンは長い夕食と良いワインを好み週刊誌ブレティン(en:The Bulletin)によって"大酒飲みトビー"(Toby Tosspot)[9]とあだ名をつけられた。 1903年9月、バートンはオーストラリア最高裁判所の設立判事の一人となり議会を去った。バートンは9月24日、ディーキンに首相の後任を託した。
裁判所での経歴 [編集]



1903年バートン54歳・2度目のオーストラリア最高裁判事時代


バートン65歳


バララット植物園内のプライム・ミニスターズ・アヴェニュー(en:Prime Minister's Avenue)に置かれたエドモンド・バートンの胸像(造形家ウォレス・アンダーソン作)
法廷でのバートンは立派で、"誠実で公平な"判事として尊敬され、政界で培った穏健派保守の姿勢と同じものを採用した。バートンは同僚のグリフィスとオコーナーを連れ立って、州の自治を保つように試み、州が連邦幹部から税を徴収する事や同様に連邦が州の鉄道の産業論争の仲裁を妨げていた"政策補助部門の暗に示された免責(implied immunity of instrumentalities)"の規則を進展させた。彼らは同様に連邦政府の通商と産業の問題への権限を狭く解釈した。[1]1906年以後のバートンはディーキンによって法廷に任命されたアイザック・アイザックス(en:Isaac Isaacs)とヘンリー・バーンズ・ヒギンズ(en:H. B. Higgins)の2人の進歩的自由主義者とますます衝突した。
死と家族 [編集]

バートンは心不全のため、ニューサウスウェールズ州・メドローバス(en:Medlow Bath)のハイドロ・マジェスティック・ホテル(en:Hydro Majestic Hotel)で死亡した。バートンはヴォークリューズのシドニー郊外のサウス・ヘッド・ジェネラル墓地で埋葬された。(ウェバリー墓地・en:Waverley Cemetery参照)バートンは妻と6人の子供を残し亡くなった。
エドモンド・アルフレッド(1879年3月29日-1949年11月13日)
ウィルフリッド・アレクサンダー(1880年-)
ジェーン・アリス(1882年-)
アーノルド・ハーバート(1884年1月3日-)
オズワルド(1888年1月8日-1956年2月6日)
レイラ・ステファニー(1892年-)
名誉勲章 [編集]

バートンは1887年、1891年そして1899年と騎士の爵位を辞退したが、1902年に聖マイケル・聖ジョージ勲章 (GCMG)を作成することには同意した[5]。バートンは1900年にケンブリッジ大学から名誉のみの法学博士号を受けている[1]。
投稿者 格闘技の王子様 03:09 | コメント(0)| トラックバック(0)

ヘンリー・キャンベル=バナマン

ヘンリー・キャンベル=バナマン (Sir Henry Campbell-Bannerman, GCB, 1836年9月7日- 1908年4月22日)は、イギリスの政治家、首相。自由党に属した。
概要 [編集]

グラスゴーで生まれた。グラスゴー大学、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジで学ぶ。1868年、スターリング・バラ選出の自由党議員として選出。以後40年間この議席を保ち続けた。1905年12月5日~1908年4月3日、首相。病気を理由に辞任、間もなく死去した。
投稿者 格闘技の王子様 00:09 | コメント(0)| トラックバック(0)

アーサー・バルフォア

初代バルフォア伯爵アーサー・ジェームズ・バルフォア(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour、1848年7月25日 - 1930年3月19日)は、イギリスの保守党政治家。ガーター勲章受勲者、メリット勲章受勲者、枢密顧問官。1902年7月11日から1905年12月5日までイギリスの首相を務めた。
ロイド・ジョージ内閣の外務大臣であった1917年に発した、「パレスチナにおけるユダヤ人国家の設立を支持する」というバルフォア宣言で知られる。
目次 [非表示]
1 出生と初期の経歴
2 ソールズベリー内閣
3 首相
4 退陣後
出生と初期の経歴 [編集]

アーサー・バルフォアは1848年7月25日、スコットランドのイースト・ロージアン州ホイッティンガムに生まれた。父のジェームズ・メイトランド・バルフォアは下院議員であり、母のブランチ・メアリー・ハリエット・ガスコイン=セシルは第2代ソールズベリー侯爵ジェームズ・ガスコイン=セシルの娘で、第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルの姉であった。名付け親は、ナポレオンを倒したウェリントン公アーサー・ウェルズリーである。1861年から1866年までイートン・カレッジで学び、次いで1866年からはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで1869年まで哲学を学んだ。
1874年にバルフォアはハートフォードの選挙区で保守党から下院議員に選出され、1885年まで務めた。1878年には叔父第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルの政務秘書官となり、露土戦争による領土問題を解決するためのベルリン会議に同行した。これが彼の外交官としての最初の経験となった。また同時に哲学にも時間を割き、科学の教条主義に対して個人的思想の自由を論じた『哲学的懐疑の抵抗』 “Defence of Philosophic Doubt”(1879年)は彼の哲学者としての評価を定めた。
ソールズベリー内閣 [編集]

1885年に首相となったソールズベリー侯ロバート・ガスコイン=セシルはバルフォアを地方行政委員会委員長(President of the Local Government Board)に任命し、1886年にはスコットランド長官として入閣させた。さらに1887年には病で辞したアイルランド長官の後任にバルフォアを指名したが、この身内贔屓人事は政界に衝撃を与えた。「大丈夫だよ」といった意味の英語の成句 “Bob's your uncle!” はバルフォアが叔父に贔屓されていることの皮肉に由来すると考えられている。しかしながら彼は「血のバルフォア」 “Bloody Balfour” と呼ばれるほどの刑法の厳格な適用を行なって自身に対する軽薄な印象を払拭した。
議会内においてバルフォアは、アイルランド議会党が行なったアイルランド自治権拡大要求に反対し、ジョゼフ・チェンバレン率いる自由統一党(リベラル・ユニオニスト)とともに統一主義を強く支持した。1890年には Congested Districts Board を創設し、貧困層への支援の拡大を図った。また彼が演説の才能を発揮し、この時代における最も有力な論客として知られるようになったのもこの頃からであった。
1891年、バルフォアは死去したウィリアム・ヘンリー・スミスの後任として第一大蔵卿および下院院内総務となった(これは第一大蔵卿が首相と異なる最後の例であった)。翌1892年に保守党が下野するとバルフォアは反対党下院院内総務になったが、1895年に保守党は政権を奪回し、彼も議会内での指導権を回復した。
1898年にバルフォアは、病床にあったソールズベリー侯の代理として中国東北部の鉄道を巡るロシアとの交渉に当たった。
首相 [編集]

1902年7月11日にソールズベリー侯が首相を辞職すると、バルフォアは後任に指名された。バルフォアの首相としての治績は、後に「バルフォア法」と呼ばれる教育法の支援、アイルランドの小作人に対する土地買収を援助するための国庫からの融資の拡充、帝国国防委員会(Committee of Imperial Defence)の創設などが挙げられる。
1903年、植民地相チェンバレンは保護貿易政策への復帰を主張し、「関税改革」論争が起きた。チェンバレンはイギリスの産業保護と植民地との連携強化のため特恵関税制度の導入を求めたが、蔵相のチャールズ・リッチーらはこれに反対し、閣内・与党内に深刻な亀裂が生じた。バルフォアはチェンバレンと自由貿易主義の大臣3名を辞職させることによってバランスをとろうとしたものの、連立与党である統一党からの離党者を生んだ。
1905年12月にバルフォアは閣内不一致により首相を辞任し、自由党のヘンリー・キャンベル=バナマンに政権を譲った。バルフォアはキャンベル=バナマンが強力な内閣を組織することはないだろうと考えたが、その見込みは外れた。1906年1月に行なわれた「地すべり総選挙」において保守党・統一党は議席数を半数以下にまで減らす大敗を喫し、自身もマンチェスター東部区(Manchester East)における議席を失った。
退陣後 [編集]

1906年の選挙における大敗の後もバルフォアは保守党党首の職にあった。チェンバレンが病に倒れたせいもあって彼の党内における力は強化されていたが、下院において自由党が圧倒的多数を占めていたためできることは限られていた。このためバルフォアは保守党上院院内総務の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと協力し、上院議員を使って自由党の政策や法案に抵抗した。1909年までの間に多数の法案が上院で変更されたり否決され、デビッド・ロイド・ジョージをして「(上院が)憲法の番人ではなくバルフォアのプードルだ」 “not the watchdog of the Constitution, but Mr. Balfour's poodle.” と言わしめた。さらに1910年のいわゆる「人民予算」の上院否決は下院解散・総選挙を経て1911年の議会法の制定へと帰結し、上院の権限は大幅に縮小されさらに上院議員の新規叙任が制限されることになった。ついにバルフォアは党首を辞任し、アンドルー・ボナー・ローにその座を譲った。
しかしながらバルフォアは党内における重鎮であることには変わりなかった。1915年にハーバート・ヘンリー・アスキスが戦時内閣を組閣するとウィンストン・チャーチルの後任として海軍大臣となり、1916年にアスキス内閣が倒れた後に成立したロイド・ジョージ内閣でも彼はエドワード・グレイ (外相在任1905-16) の後任の外務大臣に任命された。外相としてのバルフォアはウォルター・ロスチャイルドに対してパレスチナにおけるユダヤ人国家建設への援助を約束する書簡を送った(バルフォア宣言)ことで最も知られている。
1919年にパリ講和会議の結果ヴェルサイユ条約が調印されるとバルフォアは外相を辞任したが、その後の平時内閣においても枢密院議長として閣僚に留まった。また1921年から1922年のワシントン会議にはイギリス代表として出席している。
1922年にロイド・ジョージ内閣が総辞職すると、バルフォアは保守党内の職も辞した。またこの年バルフォア伯爵に叙され上院に列した。1923年にローの後任として首相に任命されたスタンリー・ボールドウィンはバルフォアに対して入閣の意思を尋ねたが彼は断った。しかし1925年に彼は前年に死去したカーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵の後任として再び枢密院議長となった。
バルフォアは1930年3月19日に死去し、故郷のホイッティンガムに葬られている。生涯独身であったため、爵位は弟ジェラルド (1853-1945) に 継承された。ちなみに、ジェラルドの妻は、リットン調査団で有名なヴィクター・ブルワー=リットンの姉、ベッティ (1867-1942) である。
投稿者 格闘技の王子様 00:09 | コメント(0)| トラックバック(0)

ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワース

ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワース(Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham,1730年5月13日 - 1782年7月1日)は、イギリスのホイッグ政治家。首相を2度務めた(在職:1765年7月13日 - 1766年7月30日、1782年3月27日 - 1782年7月1日)。首相として印紙法廃止の一方、13植民地に対する統治権の再確認を行い、本国・植民地両者の折衷をはかった。
ロッキンガムはアイルランド・ヨークシャーに広大な領土を持つロッキンガム侯爵家の五男として生まれた。ケンブリッジ大学セント・ジョン校を卒業し、兄がいずれも夭折したためロッキンガム侯家を継いだ。1751年から貴族院議員になり、しだいに貴族院のホイッグの中で頭角をあらわしてきた。ニューカッスル公が1762年に失脚すると、ホイッグの指導者を引き継いだ。
自由主義的改革を推進し、植民地人の主張に一定の理解を示した政策・改革を行った。植民地およびボイコットされた本国商人からの反対が強かった印紙法に印紙法撤廃法、植民地に強硬な勢力に配慮して宣言法(議会の植民地に対する統治権を宣言した法案)を、それぞれ成立させた。しかしこの措置はジョージ3世 (イギリス王)からも植民地人からも支持されなかった。結果としてロッキンガムは1年で職を解かれた。しかしこのときの政治的混乱で、ホイッグは国王支持(大ピット)派と野党(ロッキンガム)派に分かれた。これによって、ウォルポール以来のホイッグの優越は新しい局面に入ったとされる。
ロッキンガムの第2次内閣は、アメリカ独立戦争の敗北が決定的になった1782年であった。ノース政権が倒れて王と次期政権についてシェルバーン伯と会談した結果、ロッキンガムの再度の首相就任が決まった。ロッキンガムはアメリカ独立の承認とともに経済・行政機構の改革のための法案をいくつか通過させたが、首相就任後4ヶ月で急死をとげた。
ロッキンガムの死後も、彼の領袖は離散せずフォックス派となってシェルバーン伯や小ピットらの勢力と対立した。これによって派閥はたんなる人脈のまとまりから、ひとつの政党となっていった。この派閥が、19世紀の自由党に発展していった。
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ジョージ・グレンヴィル

ジョージ・グレンヴィル(George Grenville,1712年10月14日 - 1770年11月13日)は、イギリスのホイッグ政治家、首相(在任:1763年4月16日 - 1765年7月13日)。在職中に爵位を受けなかった首相はウォルポール以来である。グレンヴィル政権の期間中に起きた主な事件は印紙法反対運動およびウィルクス事件である。
グレンヴィルは下院議員の家の次男として生まれ、イートン・カレッジからオックスフォード大学クライスト・チャーチ校に進み、法学院を卒業して1741年にバッキンガム市から下院に初当選をはたした。議院内では反ウォルポール派につき、ニューカッスル公や義兄の大ピットらと親交をもち、海軍主計長官(1757年)、下院議長(1761年)、北部担当国務大臣(1762年)、海軍大臣(1763年)と出世の階梯をのぼっていった。
1763年に首相に就任したが、王に対するビュート伯の影響力は依然強く、強いリーダーシップを発揮できなかった。就任直後におこったウィルクス事件に強い態度で臨んだことが、結果として王室と政府の威信を傷つけることになった。グレンヴィル政権はまた、七年戦争終結後の財政立て直しを目的に印紙法などを定め、13植民地への課税に踏み切った。これはグレンヴィルが推し進めたものでは必ずしもなく、むしろ下院内のコンセンサスに基づくものであり、植民地における印紙税への激しい反発は当時予想されていなかった。しかしこれを機に本国と植民地の隔たりは大きくなってゆき、やがてアメリカ独立戦争へとつながることになった。こうして内憂外患にくわえて王との関係も改善せず、1765年7月に王はグレンヴィルの職を解いた。
グレンヴィルは1749年にウィリアム・ウィンダムの娘エリザベスと結婚した。末子ウィリアム・ウィンダムはのちに首相となる。
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アメリカ合衆国大統領首席補佐官

アメリカ合衆国大統領首席補佐官(-がっしゅうこくだいとうりょうしゅせきほさかん、White House Chief of Staff)は、大統領の職務を補佐する大統領補佐官である。首席補佐官は、必要な時にはいつでも大統領に会うことができるなど、ウェストウィング(ホワイトハウス西棟のこと。ホワイトハウス行政府の通称)を実質的に取り仕切る職務であり、ホワイトハウス職員のトップに立つ人物である。首席補佐官の下には数名の次席補佐官が置かれる。
現在の首席補佐官は、ピート・ラウス(日系米国人)である。ラウスは、ラーム・エマニュエル前首席補佐官が2011年2月に行われるシカゴ市長選挙に出馬するために辞職したことに伴って、正式な後任決定までの臨時代理として首席補佐官を務めている[1]。
首席補佐官の職務内容と歴史 [編集]

首席補佐官の職務内容は非常に広範囲にわたるが、一般的に首席補佐官は他のホワイトハウス職員を監督・統括し、大統領のスケジュールを取り扱い、大統領と訪問者との面会を調整する。この大統領と訪問者の面会を調整するという職務ゆえに、首席補佐官は「大統領の砦」と呼ばれることがある。非公式には首席補佐官は大統領と最も親しい政策アドバイザーの中の1人であって、また個人的にも友人であることが多い。ただし、首席補佐官という職は閣僚(国務大臣)と兼任する日本の内閣官房長官とは異なり、閣僚外の役職であり[2]、大統領権限継承順位にも入っていない。ただ、前記のように大統領の補佐役として権力を握ることから、一般的には閑職とされてきた副大統領よりも実質的な権限を持つとも言われ[3]、ホワイトハウスの影のナンバー2と言われることもある。
必ずしも全ての大統領が公式に首席補佐官を置いたわけではない。ケネディ大統領は置かなかったし、カーター大統領も任期のほぼ終わりまでは置かなかった。トルーマン大統領、ジョンソン大統領、そしてジョージ・W・ブッシュ大統領以外の大統領はすべて、任期の途中で首席補佐官を代えた。なぜなら首席補佐官という職務は、高度のストレスを要求する職務であるからだと言われている。それを示すように、首席補佐官の平均職務期間は2年と少しに満たないくらいである。最も長く首席補佐官を務めたのは、ハリー・S・トルーマン政権下で6年間務めたジョン・スティールマンである。
多くの首席補佐官は就任前より政治家としてのキャリアを積んでおり、その多くが退職後に他のさらなる上級職の経歴を持つことになる。その例としては、ニクソン大統領の首席補佐官を務めた後に国務長官になるアレクサンダー・ヘイグ、ジェラルド・フォード大統領の首席補佐官を務めた後に国防長官を務めたディック・チェイニーやドナルド・ラムズフェルドなどが挙げられる。
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ディック・チェイニー

“ディック”リチャード・ブルース・チェイニー[1]( Richard Bruce "Dick" Cheney , 1941年1月30日 - )はアメリカの政治家、実業家。アメリカ合衆国副大統領(2001年 - 2009年)。ウェールズ系の米国人で、宗教はメソジスト。趣味は狩猟と魚釣り。
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1 来歴
1.1 首席補佐官
1.2 下院議員
1.3 国防長官
1.4 ハリバートン
1.5 ジョージ・W・ブッシュ政権
1.6 政治姿勢
2 持病
3 その他
4 関連文献
5 脚注
来歴 [編集]

ネブラスカ州・リンカーンに生れる。父母は農務省に勤務しており、熱烈なニューディーラーだった。ワイオミング州のキャスパーで育った。イェール大学に数学期在籍したが中退し、その後ワイオミング大学で政治学の学士及び修士号を取得。その後は同大学・大学院に進み1966年に卒業。更に、ウィスコンシン大学 ・大学院に移り、同大学大学院時代に、当時のウィスコンシン州知事、ウォーレン・ノールスのスタッフをつとめる。これが、チェイニーが政界との接点を持つきっかけとなる。
首席補佐官 [編集]
リチャード・ニクソン政権では、大統領次席法律顧問を務め、ニクソンがウォーターゲート事件により辞任した後は、ジェラルド・フォード政権で史上最年少・34歳の若さでアメリカ合衆国大統領首席補佐官となる。
下院議員 [編集]
フォード政権が野に下った後は、地元・ワイオーミング州から下院選への出馬を決意。1978年の選挙では難しいとされながら当選を果たし、1989年まで6期つとめる。81年には当選2回ながら、首席補佐官時代の調整・政策立案能力を買われ№4の下院・政策委員長に就任。イラン・コントラ事件の事態収拾に尽力した。人種隔離政策を推進していた南アフリカのピーター・ウィレム・ボータ政権には融和的で、86年の同国に対する制裁法案には反対票を投じている。89年には共和党下院院内幹事をつとめていたトレント・ロットの上院鞍替えに伴い院内幹事に就任。将来の院内総務、共和党の過半数奪回後の下院議長は確実と見られていた。
国防長官 [編集]
ロナルド・レーガンの後継となったジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは、国防長官に当初ジョン・タワー元上院議員を指名していた。しかしながら、その後タワーに女性・飲酒問題が浮上し議会で同人事案が否決。当時は民主党が上下両院で過半数を占めていたため、調整能力のあるチェイニーが代わって浮上。89年3月に正式に国防長官に就任する。1990年8月にイラクのクウェート侵攻(クウェートをイラクの19番目の県として併合)が行われると、イラク軍のクウェートからの撃退の為、隣国・サウジアラビアとの関係強化を図り、中央軍・第3軍の駐留に合意。翌年1月の湾岸戦争を、ノーマン・シュワルツコフ、コーリン・パウエルらと主導した。
ハリバートン [編集]
アメリカのハリバートン社の経営にも1995年-2000年までCEOとして参加していた。ハリバートンは世界最大の石油掘削機の販売会社であり、イラク戦争後のイラクの復興支援事業や、アメリカ軍関連の各種サービスも提供していることから、湾岸戦争とイラク戦争で巨額な利益を得た。なおチェイニーは、この会社の最大の個人株主でもある。
ジョージ・W・ブッシュ政権 [編集]


2007年2月21日、皇居にて今上天皇と


2007年2月21日、総理大臣官邸にて安倍晋三首相と
2000年の大統領選挙前にジョージ・W・ブッシュ(当時テキサス州知事)から副大統領候補を推薦してくれるように依頼され、そのまま自分を推薦して副大統領となった[2]。同年の大統領選の討論会では論争に強くないブッシュがアル・ゴアも前に劣勢を強いられたが、チェイニーは反対にケンタッキー州で行われた10月の討論会でジョー・リーバーマン上院議員を論破。また、同選挙戦の際にユーゴスラビアでは革命が勃発し、スロボダン・ミロシェビッチ政権が崩壊に至ったが、ブッシュ・チェイニーは両名とも米国は基本的に静観の構えを採るべきであり、影響力を有するロシアの仲介を重視すべきだとしていた。これは、9・11後、ブッシュ政権の外交政策が大きく介入主義へと転換したことを物語る。
2001年、第43代ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の副大統領となる。小泉純一郎・元首相との会談をこなしたり、フロリダ州立大学の卒業式に参加したりと多忙な日々を送る。フォード、ブッシュ(子)両政権で、国防長官であったドナルド・ラムズフェルドと30年以上もの師弟関係にある。
2005年10月から、副大統領・首席補佐官ルイス・リビーがイラク戦争に批判的だったジョセフ・ウィルソンの妻バレリー・プレイムがCIA工作員であると身元を漏洩したとしてアメリカの連邦大陪審が起訴し、更に副大統領も情報漏洩に関与されている疑いが持たれている。
2007年2月20日より訪日し、安倍首相や麻生外相と会談。外交、国防政策に関して意見を交わすが、イラク政策に関し苦言を呈した久間章生防衛大臣との会談は行わず、在日アメリカ軍横須賀海軍施設で自衛官(制服組)トップの齋藤隆統合幕僚長を始めとする自衛官幹部と会談した。自衛隊は「日程の都合」と説明した。また、横須賀港では空母キティホークにアメリカ軍の兵士を集め、「アメリカ国民は(イラクからの)撤退を支持しない」と演説した。また、ジャーナリストの青木直人や須田慎一郎の取材によると、同会談の際、チェイニーは拉致問題に対する落し所(つまりは、同問題の解明・解決と核開発の放棄を包括的に解決した後、北朝鮮との国交正常化を目指すとした日本政府の政策転換を要求したもの)を安倍に迫ったことが明らかになっている。
時折心臓発作で入院することもあるが、精力的に活動する。そのため在任中は、「史上最強の副大統領」とあだ名された。一方で2008年12月、CNNが行った世論調査によればチェイニーが副大統領としての能力に劣っているとの回答が41%を占めた他、「史上最悪の副大統領」だとする意見が23%にのぼった[3]。
2009年7月、極秘の対テロ作戦実行を、議会には隠すよう中央情報局に指示していた事が発覚[4]。
政治姿勢 [編集]
アメリカ新世紀プロジェクトのメンバーでもあり、ブッシュ政権内では「ネオコン政治家の要石の1人」と指摘されることがあるが、ネオコン第1世代のように左派からの転向ではなく、湾岸戦争時にはフセイン政権転覆に反対していた[5]ことなどから保守からの転向と評される[6]。アメリカ同時多発テロ以降、ブッシュ政権の強硬な武断政策は、チェイニーの意見が大きく働いているとされる。
イラク戦争については、開戦前にアルカーイダとフセイン政権との関連性を示す発言を行い、「証拠もある」としていたが、開戦から5年以上経た現在でも明確な証拠は提示されていない。
持病 [編集]

チェイニーは、37歳の頃から心臓病の持病を抱えており、副大統領在任中までに5回もの心臓発作を起こしており、1988年にはバイパス手術を受けた経緯がある。
2010年6月、ワシントンD.Cの病院で冠動脈疾患の治療を受けた。
2010年7月、バージニア州内の病院で心臓に補助ポンプを埋め込む手術を受けた。経過は良好で8月の第1週に退院予定。
その他 [編集]

若い頃、飲酒運転による逮捕歴がある。ブッシュ大統領も同じ容疑での逮捕歴があることから、正副大統領で飲酒運転による逮捕歴があることになる。
高校時代からの恋人だったリン・アン・ヴィンセントと結婚し、エリザベス、メアリーの2人の娘と6人の孫がいる。
妻のリン・チェイニーが以前から歌手のエミネムを非難していたことから、近年はエミネムがチェイニーの妻と共にディック・チェイニーを非難する曲を発表している。
次女メアリーが同性愛者であることを公表し、イラクの反戦運動にも参加した。なお、共和党は道徳価値として反同性愛を掲げているが、ブッシュは副大統領候補指名に際してこの件を特に問題とはしなかった。メアリーは2007年と2009年に人工授精で二子を出産した。女性のライフパートナー(伴侶)であるヘザー・ポーと育てている。
2006年2月11日には狩猟中に友人の弁護士を誤射し重傷を負わせる事故を起こした。この事故に関して、マスメディアに情報が漏れるまで公表しなかった。なおこの時に酩酊状態であったと報道されている。このニュースは、全米で瞬く間にジョークのネタとなり、ブッシュ大統領も「どんな厳しい前途があったとしても、私はレームダック(死に体)にはならないよ。チェイニー副大統領に足を撃たれない限りね」とジョークを飛ばした。
口癖は『fuck』やそれに類する表現であり、議会で激高して叫んだ姿がテレビ中継にものったことがある。
2009年1月20日に行われたバラク・オバマの第44代大統領就任式へは、車いすに乗り出席した。これは前日の1月19日に、新居への引っ越し作業を行っていた際に背中を痛めてしまったことが原因である。
関連文献 [編集]

『策謀家チェイニー 副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」』
バートン・ゲルマン/加藤祐子訳、朝日新聞出版〈朝日選書〉、2010年10月
 著者は、ワシントン・ポスト紙記者で外交、中東、ペンタゴン(国防総省)などを担当。本書の元の連載(ジョー・ベッカー記者と共同担当)でピュリツァー賞受賞。
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ラッセル・クロウ

ラッセル・アイラ・クロウ(Russell Ira Crowe、1964年4月7日 - )は、ニュージーランド出身の俳優。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
1.3 人物・私生活
2 主な出演作品
3 主な受賞
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

生い立ち [編集]
ニュージーランド・ウェリントン出身。ノルウェー、アイルランド、スコットランド、ウェールズの血を引く[1][2]。両親が映画の撮影現場のケータリング業を営んでおり[3]、4歳の時にオーストラリアに移住。6歳の時にドラマに出演するチャンスを掴み、何本かのオーストラリアのテレビに出演。
14歳の時にニュージーランドに戻り、オークランド・グラマー・スクールに進学するが、中退。ロックバンドに参加しシングルを出す。21歳の時に再びオーストラリアに移る。
キャリア [編集]
1990年に『ザ・クロッシング』で本格的に映画デビュー(映画初主演作品でもある)。1995年に『クイック&デッド』でハリウッドにも進出、以来、非常に多彩な役をこなせる俳優として注目されている。
2000年公開の『グラディエーター』でアカデミー主演男優賞を受賞。翌年公開の『ビューティフル・マインド』でゴールデングローブ賞 主演男優賞(ドラマ部門)を受賞。
オーストラリアのロックバンド「30 Odd Foot Of Grunts」のリードシンガー、ギターリストでもある。1992年より活動しているバンドは商業的に成功を収めたわけではないが、これまで三枚のアルバムを出している。ナショナル・ラグビー・リーグのサウス・シドニー・ラビッツのオーナーでもある。2001年8月に30 Odd Foot Of Gruntsはテキサス州知事リック・ペリーの娘を祝うチャリティー・コンサートを開催した。クロウとペリー知事はアルバム「バスタード・ライフ・オア・クラリティー」のレコーディングをきっかけに知り合ったという。また、同州オースティン市の市長は、8月11日を「30 Odd Foot Of Gruntsの日」にすると宣言しており、さらに、クロウをテキサス州の名誉市民にすることも宣言した[4]。2010年4月12日にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームを授与。
2000年代は、『グラディエーター』、『プロヴァンスの贈りもの』、『アメリカン・ギャングスター』、『ワールド・オブ・ライズ』、『ロビン・フッド』と、リドリー・スコット監督作品への出演が多い。
人物・私生活 [編集]
アメリカで成功した俳優の1人でありながら、私生活では短気と粗暴な振る舞いから問題が絶えないことで有名である。
映画『プルーフ・オブ・ライフ』で共演したメグ・ライアンと不倫関係になり、メグ・ライアンの元夫デニス・クエイドからは「ラッセルは俳優として尊敬できるが、人間としてはクズだ」と激しく非難されている。メグ・ライアンは2001年に離婚するが、お互いに関係を解消している。
2003年に女優ダニエラ・スペンサーと結婚、現在二人の子供(チャールズ、テニソン)がいる。
2005年6月6日、滞在中のニューヨーク・マンハッタンのホテル(マーサー・ホテル)で、従業員と口論の末、電話機を投げつけ、暴行容疑で逮捕された[5]。彼のスポークスマンの弁によれば、電話機は壁にぶつけたもので、従業員を傷つけていないとのことである。
2006年9月に亡くなったスティーブ・アーウィンの親友であった。
2010年5月、主演した『ロビン・フッド』に関して、BBCラジオ4の番組ジャーナリスト、マーク・ローソンが、ラッセル扮するロビンフッドを評して「休暇でよくオーストラリアに行くアイルランド人のよう」と発言。そして「あなたのロビンフッドの口調には、かすかにアイルランドの訛りがありますが、どういう考えがあってのことですか?」と質問したところ、「あんたの耳は死んでるんじゃないか?あれがアイルランド訛りに聞こえたっていうなら、あんたの耳は相当おかしなことになってるよ」と一喝、その後、ローソンが慌ててフォローするも怒りは収まらず、放送禁止用語を吐きながらスタジオを出ていってしまった[6]。
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スタンリー・クレイマー

スタンリー・クレイマー(Stanley Kramer,1913年9月29日 - 2001年2月19日)はアメリカ合衆国ニューヨーク出身の映画監督・映画プロデューサー。
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1 略歴
2 主な監督作品
3 主な受賞
4 外部リンク
略歴 [編集]

ニューヨーク大学在学中からインターンシップで20世紀フォックスで働くようになる。その後に製作助手となり、戦時中は軍用映画の製作に携わる。1948年に自分の制作会社を設立、プロデューサーとして『シラノ・ド・ベルジュラック』『真昼の決闘』『ケイン号の叛乱』などを手がけた。1955年に映画監督としてデビュー。『手錠のまゝの脱獄』『ニュールンベルグ裁判』『招かれざる客』でアカデミー賞にノミネートされ、1961年のアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。
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ジョエル・グレイ

ジョエル・グレイ(Joel Grey, 本名:Joel Katz, 1932年4月11日 - )は、アメリカの舞台を中心に活躍する俳優で、出身地はアメリカのオハイオ州。 1972年の映画、『キャバレー』での演技が高く評価され、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞をはじめ数々の賞を受賞した。現在も多方面に渡って活躍している。娘のジェニファー・グレイも女優として活躍。

来歴 [編集]

父はコメディアンであったミッキー・カッツ。ジョエル自身は10歳で舞台デビューし、高校時代からナイトクラブで歌や踊りを披露していた。卒業後は演技の勉強をして1951年にブロードウェイ・デビュー。1967年にはミュージカル『キャバレー』の舞台版でトニー賞のミュージカル部門・最優秀助演男優賞を受賞。1972年、その映画化(項目:キャバレー を参照 )の際には同じ役を演じてアカデミー助演男優賞を始めとする各賞を受賞した。
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ジョージ・クルーニー

ジョージ・クルーニー(George Clooney、1961年5月6日-)はアメリカ合衆国の俳優、映画監督、映画プロデューサー。身長180cm(5ft11in)。
目次 [非表示]
1 プロフィール
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
1.3 映画製作
1.4 その他
2 私生活
3 主な作品
3.1 テレビ
3.2 映画
3.3 製作
3.4 CM
4 主な受賞
5 脚注
6 外部リンク
プロフィール [編集]

生い立ち [編集]
ケンタッキー州レキシントン出身。父のニック・クルーニーは映画評論家兼ニュースキャスターで、義叔父は俳優でアカデミー主演男優賞受賞者のホセ・フェラー。叔母は歌手のローズマリー・クルーニーである。父方からアイルランドの血をひいている[1][2]。学校では「A(優)」か「B(良)」しかなかったと自身で語っている[3]。高校時代はバスケットと野球に打ち込み、野球選手になることを夢見て、1977年にメジャーリーグのシンシナティ・レッズのトライアウト(新人テスト)を受けるが、一次選考を通らずに不合格となり諦めた[4][5]。1979年から1981年までノーザンケンタッキー大学、わずかな期間だがシンシナティ大学に在籍したが、どちらも卒業していない[5][6]。従兄弟であるミゲル・ファーラーが製作した映画に端役として出演したことがきっかけで俳優になることを志し退学。
キャリア [編集]
1982年にロサンゼルスに渡り、叔母の知り合いからテレビドラマの端役をもらいデビュー。1984年に映画デビューを果たすも一向に大きな役をもらえず長い下積み生活が続く。売れなかった時期は、ドラマの撮影現場で親しくなった男性のアパートメントへ転がり込み、そこのクローゼットで暮らしたという。業界人の叔母を頼ってコネで仕事を始めたが、生活の援助は一切断った[4]。
32歳のときに、テレビドラマシリーズ『ER緊急救命室』のオーディションを受ける。これで芽が出なければケンタッキーへ戻ろうと決めており、ズボンのポケットにケンタッキー行きの長距離バスのチケットを忍ばせていた[4]。結果、約100人の候補者の中から小児科医ダグ・ロス役に抜擢される。1994年の放送開始とともに人気は上昇、一躍人気者になった。映画『スリー・キングス』にて、メスを握るシーンは当時『ER』のファンに向けられた1シーンである。『オー・ブラザー!』、『パーフェクト ストーム』、『オーシャンズ11』といった大ヒット作に立て続けに出演し、ハリウッドを代表する二枚目俳優として活躍している。
ニュースキャスターであった父親の影響を強く受けたためか、政治に関する造詣が深く、1950年代に巻き起こった「赤狩り」と、一貫して真実を報道しようと奮闘するエドワード・R・マローなどのジャーナリストを描いた『グッドナイト&グッドラック』を監督(出演も)した。また、中東の石油利権に関する問題を描いた『シリアナ』では助演のほかに製作総指揮も勤めた。第78回アカデミー賞において、『グッドナイト&グッドラック』で監督賞と脚本賞に、『シリアナ』で助演男優賞にそれぞれノミネートされ助演男優賞部門で初のオスカーを獲得した。
映画製作 [編集]
製作事業への進出には意欲的で、スティーブン・ソダーバーグと共同でプロダクション会社「セクション8(Section Eight)」を設立、『コンフェッション』で初監督を、『ロック・スター』『エデンより彼方に』『インソムニア』『オーシャンズ12』などの製作を務めた。
「セクション8」は2006年末をもって解散したが、同年、クルーニーはグラント・ヘスロブ(Grant Heslov)とのパートナーシップにて「Smokehouse Films」を立ち上げた[7]。
その他 [編集]
下積み時代には珍作『アタック・オブ・ザ・キラー・トマト』の続編『リターン・オブ・キラー・トマト』に出演している。
People誌にて、1997年と2006年の『最もセクシーな男性』に選出された。
2008年1月18日に国連の平和大使に任命された[8]。社会派映画出演や社会貢献に熱心である。これは父親の影響が大きいと『筑紫哲也 NEWS23』との対談のなかで述べている。
第80回アカデミー賞授与式で主演男優賞を逃したとき、「僕は、ヒラリー・クリントンのようなものだ」と大統領予備選挙で劣勢に立つ同候補に準えて諧謔を述べた[9]。
ダルフール紛争をめぐる平和運動に積極的に取り組んでおり、2010年10月にバラク・オバマ大統領と会談し、2011年1月に行われる南スーダンの分離・独立を問う住民選挙について、「大災害まで90日だ」と内戦勃発の可能性に言及した[10]。
私生活 [編集]

大のスポーツ好きで、若い頃にシンシナティ・レッズの入団テストに挑戦したほか、ニューヨーク・ヤンキースのファンであることを公言している。
イタリア有数の避暑地であるコモ湖に別荘を所有している。『オーシャンズ12』公開時に共演者が語ったところによると、この別荘には自身の銅像や肖像画が飾ってある。
1989年に女優のタリア・バルサムと結婚するも1993年に離婚。以降独身を貫いており、数多くの女優と浮名を流している。マックスと名付けた豚をペットとして寵愛していたが、2006年に18年連れ添った末に死んだ[11]。
2007年9月21日にニュージャージー州にて、当時交際していたサラ・ラーソンとバイクに乗っていた際に交通事故に遭う。クルーニーはあばら骨を1本を、ラーソンは足を折った[12]。同年10月9日、治療を受けた病院にてクルーニーのカルテを無断で見た医師など約40人が停職になった[13]。
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トム・クルーズ

トム・クルーズ(Tom Cruise, 本名: トーマス・クルーズ・メイポーザー4世(Thomas Cruise Mapother IV)、1962年7月3日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州シラキュース出身の俳優・映画プロデューサー。
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1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
1.3 私生活
2 エピソード
3 海外での論争
3.1 サイエントロジー
3.1.1 IAS 勇敢の自由勲章の祝福動画
3.2 オプラ・ウィンフリー・ショー事件
3.3 広報係
4 主な出演作品
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]

生い立ち [編集]
曾祖父のトーマス・クルーズ・メイポーザーはウェールズからの移民である[1][2][3]。その他アイルランド・イングランド・ドイツなどの血を引く両親の間に、ニューヨーク州シラキュース市で生まれた。[4]。12歳のときに両親が離婚したため、経済的に苦しい生活を送った。学生時代はスポーツ(主にレスリング)に熱中するが挫折し、その後演劇に関心を持つようになった。
キャリア [編集]


1989年
青春映画の端役を演じた後、『卒業白書』の瑞々しい演技で注目され、1986年『トップガン』の世界的大ヒットでトップスターの仲間入りを果たした。以降、次々ヒット作に出演し、アクション大作からヒューマンドラマ、社会派作品から作家性の強いアート系作品と、出演作は幅広い。
『7月4日に生まれて』 (1989) と、『ザ・エージェント』 (1996) でアカデミー賞主演男優賞に、『マグノリア』 (1999) では助演男優賞にノミネートされ、名実ともに一流俳優として、不動の地位を手に入れた。1992年、長年のビジネスパートナー、ポーラ・ワグナーとともにパラマウント映画内に「クルーズ/ワグナー・プロダクションズ」を設立し、1996年の映画『ミッション:インポッシブル』で初めて映画プロデューサー業にも進出。
2004年に映画のプロモーションのため来日し、西武ドームで行われた日本シリーズ・西武ライオンズ対中日ドラゴンズ戦の始球式を務めた。またアテネオリンピックの聖火ランナーを務めた。
2006年8月、婚約者をめぐる様々な「奇行」に対して、パラマウント映画は一方的に14年間に及ぶ契約を打ち切る発表をした[5]。同月トム・クルーズの持つ映画製作会社「クルーズ・ワグナー・プロダクションズ」(『ミッション:インポッシブルシリーズ』の権利を持っている)に、NFLのワシントン・レッドスキンズのオーナーであるダニエル・スナイダーら投資グループが資金を拠出することになった。同年11月、ユナイテッド・アーティスツを再興する形でトム・クルーズとポーラ・ワグナーが映画制作を行う事をメトロ・ゴールドウィン・メイヤーが発表した[6]。またこれは、トム・クルーズのように、漠然と出演費が増え続ける俳優に対するハリウッドの転換期とも言われている。
その後、パラマウント映画を傘下にもつバイアコムの会長、サムナー・レッドストーンは雑誌、ピープル誌を通し「彼は素晴らしい友人だった。また友人に戻れることを望んでいる」と語った。また「私は彼を解雇になどしていない。メディアが大げさに書きたてたんだ」などとウォール・ストリート・ジャーナル誌に語ったが、トム・クルーズ本人は、その後も沈黙を貫き通していた。
しかし、現在トム・クルーズは、パラマウントと“M:I-4”への出演交渉に入っている。レッドストーンは、「トム・クルーズは素晴らしい俳優で良い友人です。パラマウントが彼を起用することに反対はしません」と語る。また、決定は「(パラマウント経営者の)ブラッド・グレイに任せてある」と付け加えた。レッドストーンとクルーズは、3月にビバリーヒルズで食事をしているところを目撃されていた。
私生活 [編集]
メリッサ・ギルバート、レベッカ・デモーネイなどとの交際を経て1987年にミミ・ロジャースと結婚するが、1990年に離婚。同年12月にニコール・キッドマンと再婚。キッドマンとは、おしどり夫婦として有名だったが、2001年に離婚。離婚成立前からペネロペ・クルスとの恋愛が公になり、結婚目前と言われたが2004年に破局している。
2006年11月25日、『バットマン ビギンズ』などに出演した女優ケイティ・ホームズとイタリアで挙式[7]。2006年4月18日、婚約者ホームズがロサンゼルスで女児(スリ・クルーズ)を出産[8]。前妻キッドマンとの間には養子が2人(イザベラ、コナー)存在するが、実子を持つのは初めてである。
幼い頃から学習障害(LD、具体的には、失読症(Dyslexia:ディスレクシア)つまり書かれた文字を読む上での障害)を持ち、自身、障害者にかかわる映画(『レインマン』)や、この障害の理解を推奨するための映画(『デイズ・オブ・サンダー』)も製作主演している。また、新興宗教であるサイエントロジーの活動(勉強の技術の実践)によりこの学習障害を克服したと語っている。この経験から学習障害児への支援活動にも取り組んでいる。 2003年8月には、『ラストサムライ』の宣伝のために来日した際、首相官邸の小泉純一郎首相を表敬訪問、日本の若者たちにと『学び方がわかる本』(ニュー・エラ・パブリケーションズ・ジャパン(株)発行、ISBN 4931223222)を首相に手渡した。 2009年1月トムは、スペインの雑誌「XLセマナル」の中で、「誰も解決策をくれなかったけれど、大人になって、サイエントロジーの教育本を読んだことで完ぺきに読解ができるようになった」と語った。
また、トムは注意欠陥・多動性障害 (ADHD) の治療薬のリタリンの使用に米国社会が依存していることを厳しく非難している。トム自身も1970年に投薬治療を勧められたが、母親がこれを断った。トムはこれを飲んでいたら今の自分はないだろうと語っている(1970年当時はまだ正式にADHDという概念はなかった)。
ニューヨーク・ヤンキースファンである。ちなみにトムが父親役を演じた『宇宙戦争』では、親はヤンキースのファン、息子はライバルチームのボストン・レッドソックスのファンという設定だった。
エピソード [編集]

他の俳優に比べ特に来日回数が多いため、日本では10月6日が「トム・クルーズ・デイ」と制定されている[9]。
派手なアクションのある映画でも原則としてスタントマンを使わず、自らスタントを行うことにこだわりを持っている。そのため車やバイクの運転技術はセミプロ級の腕前に達している。2010年にBBCの自動車番組『トップ・ギア』にゲスト出演した際は、有名人が車の運転でタイムを競う人気企画「Star in a Reasonably Priced Car」で番組通算のトップタイム(第15シーズン終了時点)を記録した。
海外での論争 [編集]

サイエントロジー [編集]
トム・クルーズはサイエントロジー教会の熱心な支持者である。 1番目の妻、ミミ・ロジャースを通じて1990年にサイエントロジーに関わるようになった[10]トム・クルーズは公に、サイエントロジー、特にL・ロン・ハバードの勉強の技術が彼がディスレクシアを克服する手助けとなったと発言してきた。[11] 人々をサイエントロジーへ導くさまざまなプログラムを支援することに加え、サイエントロジーが完全に宗教として認知されるための活動をしてきた。サイエントロジーはフランスではカルトと、ドイツではビジネスとして認識されているのだが、トム・クルーズは各国の政治家たちに対してロビー活動を行った。2005年にパリ市議会はトム・クルーズがニコラ・サルコジとジャン=クロード・ゴーダンら当局者に働きかけたことを明らかにし、彼をサイエントロジーのスポークスマンであり闘士だと描写し、トムと関わることを禁止した。[12][13] トム・クルーズはL・ロン・ハバードの著作に基づくデトックスセラピーをアメリカ同時多発テロの救助隊に提供するため、「ダウンタウン・メディカル」という名の施設に出資し、寄付金を募った。このことは医療の専門家[14]のみならず消防士たちからも非難を受けた。[15]このような活動やその他の運動を称えて、2004年の暮れ、デイヴィッド・ミスキャヴィッジはサイエントロジーの勇敢の自由勲章を与えた。
トム・クルーズが、女優のブルック・シールズが抗うつ薬のパキシルを、2003年初めての娘を生んだ後の産後うつから立ち直るために服用したことを、公に批判したときに論争が沸き起こった。トム・クルーズは証拠なしに「化学不均衡などは存在しない」と主張し、「精神医学は似非科学の一種だ」と断言した。このことによりトゥデイ (テレビ番組)の2005年6月24日放送分でマット・ラウアと激しい議論をすることとなった。[16]医学の専門家たちは「トム・クルーズのコメントは精神疾患患者に汚名を着せている」と発言し、[17][18]ブルック・シールズは「トム・クルーズのコメントの数々は母親たちにとって大変な迷惑である」と述べた。[19]2006年8月末にトム・クルーズは自らブルック・シールズに謝罪し、彼女もこれを受け入れた。[20]トム・クルーズのスポークスマンは彼と彼女は関係を修復したものの、トム・クルーズの抗うつ薬に対する立場は変わっていないことを確かにした。[20]ブルック・シールズはトム・クルーズとケイティ・ホームズの結婚式のゲストとなった。
トム・クルーズはエンターテインメント・ウィークリー誌上でインタビューを受け、精神医学を「ナチズムの科学だ」と発言し、「メタドンの本来の名前はアドルフ・ヒトラーにちなんでアドルフィンと呼ばれていた」という有名な都市伝説を引用した。[21]デア・シュピーゲル誌上で彼は「サイエントロジーにはナルコノンと言う唯一成功している薬物リハビリプログラムがあり、それは世界中で統計学上ただ一つ成功しているものだ」と発言した。ナルコノンは、その成功率は70パーセントを超えると主張しているが、[22][23]その数字の正確性は広く議論されている。[24]サイエントロジーは主流の精神医学に反対していることでよく知られている
2008年1月にデイリー・メールはアンドリュー・モートンによる伝記、『トム・クルーズ: 非公式伝記』が発行されることを明らかにして、その本によるとトム・クルーズは名義上、教会の2番目の指揮官に就いたという。この本は元教会のスタッフメンバーのマーク・ヘッドリィーとともに書かれてきたものである。[25] トム・クルーズの弁護士バート・フィールズは「その本は嘘まみれだ」と発言した。[26]
トム・クルーズはパリの名誉市民の候補にあがったことがあったが、サイエントロジーを悪質なカルトと見ているフランスの事情もあり、結局はパリの市議会は彼をサイエントロジー信者であるという理由で名誉市民にしなかった。 また。米国のアニメ「サウス・パーク」で、サイエントロジー信者としての自身がパロディにされてしまった事に激怒し、再放送、他国での放送をやめるように執拗に制作会社に働きかけたことが知られている。アニメの制作会社の親会社が「ミッション:インポッシブル」シリーズの制作会社であった為に、「もしも再放送したら、"M:I:III" のプロモーション活動には一切協力しない」と言った事が有名。
また、『ワルキューレ』製作の際、ドイツでは反ナチ運動の英雄として称えられており、敬虔なカトリック信者として知られているクラウス・フォン・シュタウフェンベルクをサイエントロジーの信者であり、広告塔と見られているトム・クルーズが演じることに対する強い反発が起こり(ドイツでもサイエントロジーは悪質なカルトと見なされている)、シュタウフェンベルクの息子ベルトルトも「クルーズ氏が演じると聞いた時には宣伝のための冗談と思っていた。彼が演じたら台無しになる。父とは関わらないでほしい。」と批判した[27]。 一時は、ドイツ国防省が事件の舞台であるシュタウフェンベルク街等の国防軍関連施設での撮影を許可しなかった[28](2ヶ月後、『制作者側が「ナチス(Nazi)支配から解放され、完全なる民主主義国家となった統一ドイツの姿」を作品内に盛り込むことに同意した』として、撮影を許可している)[29]。
IAS 勇敢の自由勲章の祝福動画 [編集]
2008年1月15日、トム・クルーズを特集したサイエントロジー教会製のビデオが漏洩し、Youtubeにアップロードされた。彼の映画、『ミッション:インポッシブル』のBGMが流れる中、トム・クルーズはサイエントロジー信者であることが彼にとって何を意味するかを論じた。[30][31] タイムズによると、「彼はサイエントロジーの美徳の数々を激賞しているように見え」、[32] デイリー・テレグラフは「インタビューの間、彼は異常者のように、サイエントロジーへの愛を夢中でしゃべっていた」と報じた。[33]
サイエントロジー教会は「Youtubeその他に流出したその動画は略奪・編集されたもので、本来は信者のための3時間のビデオだった」と主張した。[31][34] Youtubeはその動画を法的な脅迫のために削除した。[35]2008年2月4日現在、Gawker.com はいまだにその動画を掲載しており、他のサイトは全体のビデオを乗せている。[35][36] サイエントロジー教会の弁護団は動画の削除を要求する文章をGawker.com に送りつけたが、そのウェブサイトのニック・デントンは、トム・クルーズのビデオは報道価値があり、削除しないと述べた。[37]
オプラ・ウィンフリー・ショー事件 [編集]
トム・クルーズはケイティ・ホームズに対する感情をメディアを通じて何回か表現してきたが、もっとも顕著なのは人気のあるオプラ・ウィンフリー・ショーで2005年5月23日に起こった「ソファー事件」である。彼はテレビのセットを飛び回り、ソファーに飛び乗り、ひざまづいては新しい恋人に愛の告白をした。[38] "jumping the couch"(ソファーでジャンプする)というフレーズは"jumping the shark"というフレーズに改変され、「誰かが公の場で自分の名声を傷つけるのに十分に極端な形で見境を失う」という意味で使用された。これは短い間人気を博し、アメリカ・スラング歴史辞典に2005年のスラング・オブ・ザ・イヤーに選ばれたほか、[39]非営利団体のグローバル・ランゲージ・モニターにトップ・フレーズのひとつに選ばれた。[40]
「ソファー事件」は2005年のE!(アメリカ合衆国のエンターテイメント専門のテレビ局)において、最も驚かされる場面のナンバー1に選ばれ、[41]『最終絶叫計画4』のエピローグを含む無数のパロディの対象となった。
広報係 [編集]
トム・クルーズのサイエントロジーに対する開けた態度は、14年間彼に勤めていた広報係のパット・キングスレイの2004年3月の離脱によるものだとされている。トムは広報を妹でサイエントロジー信者の、リー・アン・ディヴェッテに置き換えた。リーは2005年11月までトム元で働いた。[42]その後トムは妹を降格させ、広報会社のロジャーズ・アンド・コワンからベテランのポール・ブロックを採用する。ディヴェッテはそれについて「リーが広報活動よりも慈善活動を希望したため」と説明した。 [43]このリストラはサイエントロジーに対する彼の見解と、逆効果になってしまったケイティ・ホームズとの関係の強調を抑えるための動きだとみなされている。[
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├─≠ョ─ヵラスと川口健次

├─≠ョ─ヵラス シューティング
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 指導者としても評価が高く、マモルやリオン武などの選手を育てたことでも知られる。
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火若津将軍

火若津 将軍(かわかつ しょうぐん、男性、1974年6月18日 - )は、日本の総合格闘家。大阪府大阪市出身。PUREBRED京都所属。2004年9月12日の試合から、川勝 将軍(かわかつ しょうぐん)からリングネームを変更した[1]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 総合格闘技
2.2 グラップリング
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

格闘技歴は柔道、日本拳法、空手、キックボクシング、ボクシングなどがある。
1997年8月、第4回全日本アマチュア修斗選手権のライトヘビー級で優勝。
1998年4月10日、プロ修斗デビュー。
2001年12月15日、ハワイで開催されたケージ興行「Shogun」でロビー・ローラーと対戦し、パウンドでTKO負けを喫した[2]。
2003年10月12日、2年11か月ぶりとなった修斗で中蔵隆志と対戦し、0-3の判定負けを喫した[3]。
2004年9月12日、修斗で杉江"アマゾン"大輔と対戦し、0-3の判定負けを喫した。この試合から、リングネームを火若津 将軍に変更した[1]。
戦績 [編集]

総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
13 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
5 勝 0 1 4 0 1 0
7 敗 2 1 4 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 梶田高裕 1R 4:43 TKO(パウンド) 修斗 SHOOTO GIG CENTRAL Vol.11 2006年11月26日
× 杉江"アマゾン"大輔 5分3R終了 判定0-3 修斗 SHOOTO GIG CENTRAL Vol.6 2004年9月12日
× 中蔵隆志 5分2R終了 判定0-3 修斗 SHOOTO GIG WEST IV 2003年10月12日
× ロビー・ローラー 1R 4:49 TKO(パウンド) Shogun 2001年12月15日
○ チャド・サウンダース 5分2R終了 判定3-0 修斗 R.E.A.D. 2000年11月12日
○ 池本誠知 5分2R終了 判定3-0 修斗 R.E.A.D. 2000年8月4日
○ 大原友則 1R 2:26 腕ひしぎ十字固め 修斗 R.E.A.D. 2000年4月2日
× 和田拓也 5分2R終了 判定0-2 III 修斗 the Renaxis 1999 1999年7月16日
○ 大河内貴之 5分2R終了 判定3-0 修斗 下北沢修斗劇場 第3弾 Shooter's Passion 1999年5月27日
△ 村濱天晴 5分2R終了 判定1-0 修斗 Las Grandes Viajes 6 1998年11月27日
× 小島弘之 5分2R終了 判定0-3 修斗 Las Grandes Viajes 5 1998年8月29日
○ 谷村勲 5分2R終了 判定3-0 修斗 SHOOTO GIG '98 1998年4月10日
× 菊田早苗 1R 2:04 V1アームロック トーナメント・オブ・J '96【1回戦】 1996年3月30日
グラップリング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 半谷泰佑 ポイント0-11 プロ柔術&グラップリング 大阪夏の陣 '06 2006年6月4日
脚注 [編集]

^ a b [修斗] 9.12 名古屋:川勝将軍、火若津将軍に改名。田中寛之欠場 BoutReview 2004年9月12日
^ [SHOGUN] 12.15ハワイ大会結果。KIDはテクニカルドロー BoutReview 2001年12月19日
^ [プロ修斗] 10.12 大阪:全試合判定も、Bクラス戦線に新鋭の波 BoutReview 2003年10月12日
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カロ・パリジャン

カロ・パリジャン(Karo Parisyan、男性、1982年8月28日 - )は、アルメニア出身の総合格闘家。現在はアメリカ合衆国カリフォルニア州ノースハリウッド在住。ジャクソンズ・サブミッション・ファイティング所属。元WECウェルター級王者。キャロ・パリシャンとも。
UFCには定期的に参戦し、クリス・ライトルやマット・セラらを破っている。試合では一本背負いや大外刈り、内股、払い腰などの柔道の投げ技を多用し、一際異彩を放っている。気の強さを前面に押し出したファイトスタイルを有する。
マンヴェル・ガンブリャンは従兄弟。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

6歳の時に、家族と共にアルメニアからアメリカへ移住。
9歳からカリフォルニア州のゴーコージムで同じアルメニア系であるゴーコー・シヴィシアンに柔道を習い始める。
2003年9月26日、UFC初参戦となったUFC 44でデイブ・ストラッサーと対戦し、アームロックで一本勝ち。
2004年5月21日、WEC 10のウェルター級タイトルマッチでショーニー・カーターに判定勝ちし、第3代WECウェルター級王者となる。その後、UFCに参戦するため同級王座を返上。
2006年8月17日、UFC Fight Night 6で当時無敗のディエゴ・サンチェスと対戦。判定で敗れたものの、一進一退の攻防を繰り広げ会場を沸かせた。なお、この試合ではサンチェスの膝蹴りでパリジャンの前歯が吹き飛ぶ場面があった。
2007年11月17日、UFC 78で長南亮と対戦し、3-0の判定勝ち。
2008年9月6日、UFC 88で吉田善行と対戦予定であったが、自身の背中負傷により欠場となった。欠場発表は前日の計量終了後に正式発表された。
2009年1月31日、UFC 94でキム・ドンヒョンに2-1の判定勝ちを収めるも、後に禁止されている鎮痛剤を使用していたことが発覚し[1]、ノーコンテストに裁定変更となり9か月の出場停止と32,000ドルの罰金を科せられた[2]。11月21日、UFC 106でダスティン・ヘイズレットと対戦予定であったが、欠場となった[3]。
2010年7月10日、Impact FC旗揚げ戦でベン・モルティマーと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。
2010年11月20日、UFC復帰戦となったUFC 123でデニス・ホールマンと対戦し、右フックでダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負けを喫した[4]。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
26 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
19 勝 0 10 9 0 0 1
6 敗 3 0 3 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× デニス・ホールマン 1R 1:47 TKO(右フック→パウンド) UFC 123: Rampage vs. Machida 2010年11月20日
○ ベン・モルティマー 2R 4:18 チョークスリーパー Impact FC 1 - The Uprising: Brisbane 2010年7月10日
- キム・ドンヒョン ノーコンテスト(禁止薬物の使用) UFC 94: St-Pierre vs. Penn 2 2009年1月31日
× チアゴ・アウベス 2R 0:34 TKO(膝蹴り) UFC Fight Night 13 2008年4月2日
○ 長南亮 5分3R終了 判定3-0 UFC 78: Validaton 2007年11月17日
○ ジョシュ・バークマン 5分3R終了 判定3-0 UFC 71: Liddell vs. Jackson 2007年5月26日
○ ドリュー・フィケット 5分3R終了 判定3-0 UFC Fight Night 7 2006年12月13日
× ディエゴ・サンチェス 5分3R終了 判定0-3 UFC Fight Night 6 2006年8月17日
○ ニック・トンプソン 1R 4:44 ギブアップ(パウンド) UFC 59: Reality Check 2006年4月15日
○ マット・セラ 5分3R終了 判定3-0 UFC 53: Heavy Hitters 2005年6月4日
○ クリス・ライトル 5分3R終了 判定3-0 UFC 51: Super Saturday 2005年2月5日
○ ニック・ディアス 5分3R終了 判定2-1 UFC 49: Unfinished Business 2004年8月21日
○ ショーニー・カーター 5分3R終了 判定3-0 WEC 10
【WECウェルター級タイトルマッチ】 2004年5月21日
× ジョルジュ・サンピエール 5分3R終了 判定0-3 UFC 46: Supernatural 2004年1月31日
○ デイブ・ストラッサー 1R 3:52 アームロック UFC 44: Undisputed 2003年9月26日
○ フェルナンド・ヴァスコンセーロス 5分3R終了 判定3-0 King of the Cage 22 2003年3月23日
○ アントニオ・マッキー 5分3R終了 判定3-0 Universal Above Ground Fighting 3: Ultimate Cage Fighting 3 2003年2月15日
○ ダレル・スミス 1R 0:59 腕ひしぎ十字固め Reality Submission Fighting 3 2001年3月30日
× ショーン・シャーク 1R 16:20 TKO(タオル投入) Reality Submission Fighting 2 2001年1月5日
× ショーン・シャーク 18分1R終了 判定 Reality Submission Fighting 1 2000年10月10日
○ グイド・ジェニングス 1R 6:33 チョーク Kage Kombat 16 1999年6月7日
○ ジャスティン・バンファス ギブアップ Empire Submission Fighting: Empire One 1999年5月15日
○ スコット・デイヴィス 1R 2:16 腕ひしぎ十字固め Kage Kombat 14 1999年4月5日
○ ジェイソン・リッジャース 1R 1:58 腕ひしぎ十字固め Kage Kombat 14 1999年4月5日
○ ザック・マッキニー 1R 0:23 腕ひしぎ十字固め Kage Kombat 12 1999年2月1日
○ ブライアン・ウォーレン 1R 0:44 アンクルホールド Kage Kombat 12 1999年2月1日
獲得タイトル [編集]

第3代WECウェルター級王座(2004年)
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カリブ・スターンズ

カリブ・スターンズ(Kalib Starnes、男性、1975年1月6日 - )は、カナダの総合格闘家。アメリカン・トップチーム/レボリューション・ファイトチーム所属。カリブ・スターネスとも表記される。
目次 [非表示]
1 来歴
2 人物
3 戦績
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

1994年、カリフォルニア州にあるグレイシー柔術アカデミーに入門。ヒクソン・グレイシーに柔術を学ぶ。
1998年8月2日、プロデビュー。
2006年、リアリティ番組「The Ultimate Fighter」シーズン3にケン・シャムロック率いるチーム・シャムロックのミドル級選手として参加。ミドル級トーナメントでは2回戦でケンドール・グローブに敗れるが、同シーズンのフィナーレではダニー・アバディに一本勝ちし、UFC白星デビューを果たした。
2006年10月14日、UFC 64で岡見勇信と対戦。3RにTKOで敗れ、プロ総合格闘技で初の敗北を喫した。
2007年5月26日、UFC 71でクリス・リーベンと対戦し、判定勝ち。ファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。10月20日、UFC 77でアラン・ベルチャーと対戦し、カットによるTKO負け。
2008年4月19日、UFC 83でネイサン・クォーリーと対戦。ほぼ全てのラウンドでクォーリーから逃げる消極的な試合を行ったため、ジャッジの一人からは30-24というスコアを付けられた。また、大会2日後にUFCから契約解除の通告を受けた[1]。
人物 [編集]

ブラックマンバらとトレーニングを積んでいる。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
17 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
11 勝 2 8 1 0 1 0
5 敗 2 2 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ニック・ヒンチリッフ 1R 3:49 腕ひしぎ十字固め Armageddon Fighting Championships 3: Evolution 2010年7月17日
× ファラニコ・ヴァイタレ 1R 2:22 袖車絞め X-1 - Champions 2 2010年3月20日
○ マーカス・ヒックス 1R 1:22 チョークスリーパー Armageddon Fighting Championships 2 - Aftershock 2010年3月6日
× ヘクター・ロンバード 1R 1:55 ギブアップ(パウンド) Cage Fighting Championships 11
【CFCミドル級タイトルマッチ】 2009年11月20日
○ クリス・シスネロス 2R 4:47 腕ひしぎ十字固め Destiny MMA - Pier Fighter 1 2008年11月15日
× ネイサン・クォーリー 5分3R終了 判定0-3 UFC 83: Serra vs. St-Pierre 2 2008年4月19日
× アラン・ベルチャー 2R 1:39 TKO(カット) UFC 77: Hostile Territory 2007年10月20日
○ クリス・リーベン 5分3R終了 判定3-0 UFC 71: Liddell vs. Jackson 2007年5月26日
× 岡見勇信 3R 1:40 TKO(パウンド) UFC 64: Unstoppable 2006年10月14日
○ ダニー・アバディ 1R 2:56 チョークスリーパー The Ultimate Fighter 3 Finale 2006年6月24日
○ ジェイソン・マクドナルド 1R 4:37 TKO National Fighting Challenge 5 2005年11月25日
○ マイク・ヤックリク 1R 2:21 タップアウト(マウントパンチ) WFF 9: Wild West 2005年9月17日
○ ジェイソン・ザジレンチャック 1R 0:42 チョークスリーパー National Fighting Challenge 3 2005年5月13日
○ ゲリー・エリオット 1R 0:35 肩固め WFF 8: Dominance 2005年3月26日
○ ラメイン・アスタシーレ 1R 1:49 TKO National Fighting Challenge 2 2005年2月18日
○ ウェイン・アトキンソン 1R 2:22 チョークスリーパー Adrenaline Fighting Championships 1 2003年7月24日
△ レオナルド・カーター 1R ドロー Ultimate Warrior Challenge 1998年8月2日
脚注 [編集]

^ UFC cuts Starnes after disgraceful performance Yahoo! Sports 2008年4月21日
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石井慧

石井 慧(いしい さとし、男性、1986年12月19日 - )は、日本の総合格闘家、元柔道家(五段)、北京オリンピック柔道男子100kg超級の金メダリスト。大阪府茨木市出身。紫綬褒章受章。血液型はO型。出身道場は修道館(大阪府)。ケイダッシュ系列の個人事務所アイダッシュ所属。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 柔道家
1.2 総合格闘家への転向
2 戦型
3 エピソード
4 戦績
4.1 プロ総合格闘技
4.2 アマチュア・エキシビション
5 獲得タイトル
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴 [編集]

柔道家 [編集]
茨木市立大池小学校5年生の頃、父親の指導で柔道を始め、本格的に取り組むべく清風中学に入学。高校1年生の時に、より柔道の強い環境を求め国士舘高校へ志願編入。その後、国士舘大学体育学部武道学科に入学。
2004年に講道館杯全日本柔道体重別選手権大会100kg級で優勝した。高校生の優勝は1998年の鈴木桂治、翌99年の高松正裕に次ぐ史上3人目で、翌年には連覇を果たした。2006年、全日本柔道選手権大会に初出場ながら鈴木桂治を破り、19歳4か月の史上最年少で優勝した(それまでの最年少優勝記録は山下泰裕の19歳10か月)。同年アジア競技大会(ドーハ)では100kg級で準優勝。
2007年全日本では準決勝では井上康生に勝利したが、決勝で鈴木桂治に敗れた。同年嘉納治五郎杯東京国際柔道大会より100kg超級に転向し、優勝。以後無敗で引退。
2008年2月のオーストリア国際で優勝を果たした。4月29日、全日本選手権決勝で三度鈴木桂治と対戦し、優勢勝ちで2年ぶり2度目の優勝をすると共に、北京オリンピック柔道男子100kg超級日本代表選手に選出された。決勝戦の対戦姿勢(ポイントリードを守る)には、観客からのブーイングがあったほか、柔道家・世論の一部から批判があり、柔道の国際化とスタイルの変容・日本柔道界のあり方についての議論があった。
2008年8月15日、北京オリンピック柔道男子100kg超級に出場、準決勝までの4試合はすべて一本勝ち、決勝ではアブドゥロ・タングリエフ( ウズベキスタン)と対戦、指導2つの優勢勝ちで金メダルを獲得した。優勝直後のインタビューで「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」と発言し、新語・流行語大賞の候補60語にノミネートされた。
総合格闘家への転向 [編集]
2008年10月6日、プロ総合格闘技への転向がスポーツ報知の一面で報じられ、明らかになった。また、出場予定だった当日の世界選手権団体も調整不足を理由に辞退した。翌日の10月7日の会見では、「卒業のことで頭がいっぱい。焦らずゆっくり考えたい」と進退の明言を避けた。10月31日、全日本柔道連盟に対して強化指定選手辞退届を提出[1]。11月3日に記者会見で「11月3日をもって柔道家をやめ、プロ転向を決めました。総合格闘技のチャンピオンになれるようにがんばります」 と、正式にプロ転向を表明した。
このころから柔道選手時代のトレードマークであったスキンヘッド(写真)から、スポーツ刈りにヘアスタイルを変えている。
2008年11月17日に個人事務所「Twill33」(ミーサン)を設立し、取締役である(マネジメントはケイダッシュ)。
2008年12月16日に世界最大の総合格闘技団体UFCへの参戦意志を明言。同年12月27日にアメリカ合衆国で開催されたUFC 92を観戦し、同日深夜にUFCを主催するズッファ社と独占交渉契約を交わした(2009年1月末で独占交渉期限切れとなった)。渡米中には現役選手にしてUFC殿堂入りしているランディ・クートゥアらの指導を受けた。その後はアメリカン・トップチームで練習を積んだ。
2009年1月4日、戦極の乱2009のリングにUFCのTシャツ姿で上がり「これからアメリカで試合をすることになりましたが、いつか大きなお土産を持ってこのリングに立ちたい」と発言した[2]。
2009年6月1日、記者会見で戦極(現SRC)と同日に仮契約したことを発表。戦極と契約した理由については「日本で育ち、日本で生まれた柔道に生かされてきた。その結果、オリンピック金メダルを手にしました。まずは、日本の格闘技界を盛り上げ、恩返しすることが私の宿命だと思った。自分の祖母は半分、片足を棺桶に突っ込んで、いつ亡くなってもおかしくない状況なので、祖母に生で試合を見せてあげたい」「日本にある団体の中で、『戦極』では、自分が最も尊敬する、世界のヘビー級で一番強い選手・エメリヤーエンコ・ヒョードルと(当時)対戦予定のジョシュ・バーネット選手がいます。もし、ジョシュ・バーネット選手が勝てば、最強はジョシュ・バーネット選手になるので、そういう選手がいるのが『戦極』なので、そういう面でも『戦極』に惹かれました。」と語った[3]。「本契約はファンの前でしたい」とし、6月4日に新宿ステーションスクエアにて本契約の公開調印式が行われた[4]。
2009年3月から2か月半の間、ブラジルのパラー州ベレンにある、リョート・マチダの道場で武者修行を敢行した。
2009年9月、同年大晦日に行われるSRC(戦極)にて吉田秀彦との対戦が正式決定[5]。
2009年9月、国士舘大学を卒業(単位が足らず、同年3月での卒業はできなかった)[6]。
2009年11月25日、K-1とDREAMを主催するFEGとSRC(戦極)を主催するWVRが大晦日の格闘技大会を合同開催することを発表し、SRCの大晦日大会は中止となり、同大会で予定されていた石井慧vs吉田秀彦戦はFEG主催のDynamite!! 勇気のチカラ2009で行われたが、判定負けを喫した[7]。
2010年3月20日、練習先であるハワイの興行「X-1 Champions 2」でササエ・パオゴフィーとエキシビションマッチ[8]で対戦し、1R2分50秒アームロックで一本勝ち[9]。
2010年4月8日、4歳年下の女子大学生と入籍[10]。
2010年5月15日、ニュージーランド・オークランドで開催されたXplosionでタファ"タンパー"ミシパティと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち[11]。
2010年6月4日、ハワイ・ホノルルで行なわれたX-1: Nations Collideでマイルス・ティナネスと対戦。1R終了間際に左フックでダウンを奪い追撃のパウンドを繰り出すも、1R終了後の攻撃だったとして反則負けと裁定されるも[12]、その後ノーコンテストと裁定が変更された。
2010年9月25日、DREAM初参戦となったDREAM.16でミノワマンと対戦し、3-0の判定勝ちで格闘家としての日本初勝利を収めた[13]。大会3日前の9月22日に参戦が発表されるほどの緊急参戦となった[14]。
2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALに参戦。当初はアンズ"ノトリアス"ナンセンとDREAMルールで対戦予定だったが、試合2日前のドクターチェックでナンセンの古傷が治っていないことが発覚し、ドクターストップになったため、試合前日に相手が柴田勝頼に変更された[15]。試合ではアームロックで一本勝ちを収めた。
2010年12月31日、Dynamite!! 勇気のチカラ2010 にてK-1ファイターのジェロム・レ・バンナと総合格闘技ルールで対戦。K-1が本職で4年間総合格闘技ルールの試合をしていなかったバンナ相手に寝技で関節技を極めきれず、スタンドでパンチと膝蹴りを浴びるなど苦戦。3Rに抑え込んで判定勝ちを収めたものの、バンナからパウンドを浴びた際には石井が日本人でありながら日本の観客からバンナへの歓声と掛け声があがり、逆に判定で石井の勝利が告げられた際には観客から石井へのブーイングが飛んだ。試合後、石井は「バンナ選手の寝技が予想以上にうまかった。ブーイングは応援の裏返しだと思うし、それだけ期待していただいていることだと思う。次は一本、KOで勝ちたいと思っています」と語った[16]。
戦型 [編集]

100kg以下級であったが、2007年秋に100kg超級へ転向した。左利きで、超級のクラスでは上背はないものの、その筋肉量、スタミナはトップクラスである。練習の虫として知られ、特にウエイトトレーニングは寝る間を惜しむほど行い、ベンチプレス200kg以上を挙げることができる。得意技は大内刈で、世界トップクラスの切れ味を持つ。全日本決勝で鈴木桂治を2度破ったのも大内刈である。しかし、弱点は他に技が少ないことである。だが2007年あたりからは体落としを、2008年から大外刈や内股も出すようになってきた。寝技も得意。パワーとスタミナの強さから受けが非常に強い選手で、また試合の駆け引きがうまい。よって、旗判定が行われる国内試合に強い選手といえる。
非常に努力家であり、オーバーワークによる怪我を恐れてコーチが練習を止めると、泣いて「練習させてくれ」と懇願することもあったという。自身を「一本をとる技はない」「才能はない」と認めており、その分を人一倍の努力(練習による筋力増強と研究熱心さ)で補っている。全日本男子監督の斉藤仁も「世界一」と認める練習の虫である。
その練習量の多さから、史上最強を謳われる柔道家木村政彦の弟子岩釣兼生は「(木村の)鬼の柔道を継げるのはあいつしかいない。山下君クラスに成長していく可能性がある。絶対に勝ってやるという、そのための努力の量と質が人とは違う」(『ゴング格闘技』2008年12月号)と発言している。
柔道だけでなく、レスリングやブラジリアン柔術の道場にも1人で出かけて腕を磨く。積極的に他競技の技術も学んでいる。ブラジリアン柔術では茶帯(黒帯に次ぐ位)を取得している。
一本勝ちにこだわるよりも確実に勝利することを信条としており、寝技の習得にも熱心である。立ち技での投げによる一本勝ちを狙うことを称賛する日本柔道界においては、石井の姿勢に対して前述のように全日本選手権で優勝した際にブーイングを浴びたこともあったが、「美しい柔道って言いますが柔道は芸術ですか?そんなに美しいものを求めるのなら体操でもやればいい」と発言し、北京オリンピックでは決勝戦以外は全て一本勝ちで優勝し、金メダルを獲得した。
エピソード [編集]

中学・高校時代の指導員で、のちに清風学園柔道部監督になる魚澄豊治は、石井について「中学入学時の実力は、同期の部員の中でも下から数えたほうが早かった」と語っている。ちなみに、清風中学校にはスポーツ推薦ではなく、1日平均8時間の猛勉強をこなして、一般入試を受験し、合格している。
中学・高校時代には体育教師をしている父・義彦(柔道六段、日体大柔道部出身)に、毎日弁当(朝練があるので2個)を作ってもらっていた。現在も人間として尊敬している人物は父だと明言している。
母親も体育教師で、父とは体育大学の同級生だったという。母はハンドボールの世界選抜に選ばれた経験があり、妹も水球のGKで全国優勝している選手。スポーツ一家[17]。
好きなスポーツ選手として亀田三兄弟、朝青龍、秋山成勲ら「格闘技界三大ヒール」を挙げており、理由は「強くて、バッシングを受けている部分に共感するから」としている。秋山は清風学園の先輩である。朝青龍には2008年1月の場所中に実際に会いに行き、励ましてもらっている。2008年4月の全日本選手権では朝青龍が観戦に駆けつけた。その後も朝青龍が泥酔暴行事件によって引退が決まった直後に石井が滞在しているハワイのクラブで密会する様子がテレビで報道されるなど親交が深い。亀田興毅とは雑誌での対談もあって親交を深め[18]、その後は亀田兄弟の父親である亀田史郎の指導も受けている[19]。
また柔道家としては小川直也を尊敬していて、高校生時代には小川からのアドバイスが欲しいがために小川がよく顔を出す明治大学の道場を訪れたりしており、そのため現在も小川とは親交がある。石井の北京オリンピックに向けた壮行会も茅ヶ崎市にある「小川道場」で開かれたほか、北京オリンピック後には「橋本真也の『破壊なくして創造はなし』の精神を継いでほしい」との思いから、小川から「真・破壊王」の称号を与えられた[20]。
北京オリンピック試合の翌日、日本テレビ『ズームイン!!SUPER』のインタビューで「金メダルは小川道場に寄付します。自分は小川道場の門下生なんで。あるいは、モハメド・アリのように川に捨てます」と発言し、2008年9月28日には小川直也が主催する小川道場を訪れ、北京オリンピックで獲得した金メダルを寄贈した。寄贈後に石井が大外刈りを披露すると、小川は石井の大外刈りを小川の必殺技「STO」にちなんで「STI(スペース・トルネード・イシイ)」と命名した[21]。
プロ転向会見にて、目標とする総合格闘家としてエメリヤーエンコ・ヒョードル、ヒクソン・グレイシーとBJペンを挙げている。2008年9月22日にエメリヤーエンコ・ヒョードルと初顔合わせする予定だったが、会見の約2時間前に中止となった[22]。「自分はヒクソンへのリスペクトの塊ですから光栄です。チョー会いたいです」「ヒクソンと一緒に生活したいです取り入れているヨガとか教えてほしいし、精神面のアドバイスも もらえたらうれしいっス。確かヒクソンは日本に来ると山にこもるんですよね? 一緒に行けたら夢のようです」「ヒクソンに教えてもらえれば、自分はチョー(寝技の実力が)伸びます。ヒクソンの息子になりたい」(東京スポーツ 2008年12月2日販売号より)とヒクソンへの憧れを公言している。また、2009年にはハワイのBJペンのジムに出稽古に行った。
総合格闘技の存在を知る前はK-1のアンディ・フグやジェロム・レ・バンナらに憧れていた。
読書家で、戦国歴史物からイチローやイビチャ・オシムなど他のスポーツ選手についての著書や発言集に至るまで幅広く読み、心構えやトレーニング方法などを柔道に取り入れる。上杉謙信を尊敬し、一番の愛読書は海音寺潮五郎の「天と地と」。好きな言葉を聞かれた時にも「天と地と」をあげたことがある。
ZARDや羞恥心の楽曲を好む。また、フジテレビ『お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』に出演し、アニメソングを歌い世間を驚かせたいとの野望があるという(同局の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』にVTR出演した際に語ったもの)。
2008年4月の全日本体重別選手権に怪我で出られなくなり、北京オリンピック選考に不利になったことで、気づいたら屋上の上に立っていて死のうと思っていたという(本人談)。
北京オリンピック代表選考会のあった4月に、ライバルの棟田康幸、井上康生のもとへ異例のアポなし出稽古にいくが、断られる。これで「自信を取り戻した」という。
北京オリンピックにおいては金メダルばかりがクローズアップされるが、特筆すべきはその試合内容、特に5試合通して失点ゼロである点である。相手の技による失点だけではなく、反則ポイントも全く受けていない。これは反則が取られやすい国際ルールでは稀なことであり、石井の試合運びの上手さが体現されたと言える。
歯に衣着せない自由奔放な発言することで有名であり、「(福田康夫首相と握手をして)すごい純粋さが伝わってきた。腹黒くないからこそ、人気が出ないのかもしれない」[23]「(福田首相(当時)突然の辞任について質問されて)僕は握手しただけで相手のことがすべて分かる。薄々こういうふうになるんじゃないかなと思っていた」「(2008年9月10日に母校・清風学園の朝礼(報告会)にて、人生を生きていくにあたりアドバイスを披露して(2008年9月10日))1つは絶対に保証人にならないこと。2つ目は煙草を吸わないこと。健康や財を失いますから。3つ目はネクタイをきっちり上まで締めること。それに人から安心、尊敬、信頼される人になることです」など多種多様な事柄についてコメントしている。また、発言の中には人気格闘技漫画グラップラー刃牙のキャラクターの台詞を真似たものもしばしばある(例: 北京オリンピック解団式インタビューにて「オスとして魅力を感じて室伏選手に握手を求めました。でも、僕のほうが握力強かったですね」)
しかし、笑いをとるために行った行動や発言がスベってしまうことも非常に多い。公開会見でSRCと本契約を結んだ際には、登場する際に「徹子の部屋」のイントロ曲を流しながら黒柳徹子ふうの頭髪カツラをかぶって登場し、会場に微妙な空気が漂った。2010年11月8日のK-1 WORLD MAX 2010 FINALの試合では一本勝ちを収めたが、入場曲にAKB48のBeginnerを使用して観客をドン引きさせ、試合後のリング上でのマイクアピールでは「『持ってる、持ってる』とみんなからいわれていて、この試合が終わってわかりました。自分は話を盛るくせでした」と、野球の斎藤佑樹投手の名言のパロディをしたが、観客にはその意図がまったく伝わらず、会場には気まずい空気が漂った[24]。また、以前からK-1ルール挑戦への意欲を見せていたにもかかわらず、同大会ではなくK-1ルールではなく総合格闘技のDREAMルールで参戦したことや試合前に「K-1ルールに出ないかわりに打撃で勝負します」と公言したにもかかわらず、寝技のみで戦ったことなどに対して、同大会に出場した一部のK-1ファイターが不快感を示し、長島☆自演乙☆雄一郎などは「僕らはK-1に誇りを持って戦ってるのに何でK-1MAXのリングでDREAMの試合をやるのかなって。どうせK-1に出るんなら打撃だけのルールでやればいいやないか。だったら、階級は僕の方が下だけど僕が大晦日に石井選手とK-1ルールでやりますよ」と怒りを露にした。
北京オリンピック金メダル獲得翌日の会見で「世界で一番強い男というのは、フィジカル、メンタル両方強くなくてはいけません。ヒクソン・グレイシーだとかエメリヤーエンコ・ヒョードルだとか、強い選手はまだいます。自分は全然まだまだです」[25]と発言し、その後も「自分にとってオリンピックは踏み台なんで」「次に戦いたい相手はミルコ・クロコップ、エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラです」、「(目標は)この地球上で、60億分の1になることです(総合格闘技団体PRIDEのヘビー級グランプリのキャッチコピー)」と語るなど、当初から総合格闘技への憧れを隠そうとしなかったため、転向が注目されていた。
北京オリンピックで金メダルを獲得した後、多くのマスコミが取材を申し込んだが、石井の奔放な発言に懸念を抱いた全日本柔道連盟がテレビ出演をすべて断っており、雑誌取材も『近代柔道』を除いて全て却下された。北京オリンピック後に飛び出した発言の多くは、各種の祝勝会や報告会の場におけるものである。石井は「喋りでも実力があるところを見せたかった」「(他のメダリストのように)生放送出演したかった」と残念がっているという[26]。
2008年11月6日、両国国技館にて行われたダライ・ラマ14世の講演に花束贈呈者として呼ばれていたが、質問コーナーで自分の格闘技の進路について「自分で決めるばかりでなく、時には長いものにまかれることも必要なのでしょうか?」と質問をし、「状況をよく見て考え、最終的には自分で決めるものだと私は思います。」とアドバイスを受けた。
2008年11月13日、本人監修協力のもとで、語録本『石井訓(いしいくん)』(光文社)が発行された。
2010年1月3日の報道によると石井は2009年12月31日のプロデビュー戦に先立ち、自身のブログにおいて「負けたら自殺」と豪語していた。しかし、試合では奮戦するも敗退、公言どおり自殺するのではとファンが心配する中、問題となっていたブログが3日までに削除されていたことが判明した。報道によると試合前にすでに削除されており、視聴者は安堵や落胆で騒然となった[27]。
男性用ブラジャーを使用しているとのこと[28]。
全日本柔道連盟の規定により、プロ格闘家に転向した選手は、プロ格闘家を引退してから選手は3年、指導者は1年経たなければ日本柔道界に再登録することができないが、アメリカ柔道連盟はプロ格闘家にも柔道の試合への出場を許可しているため、石井は「アメリカの永住権と市民権を取って、2016年のリオデジャネイロオリンピックにアメリカ代表として出場して金メダルを取る」と公言している[29]。
総合格闘技転向後の石井の対戦相手はミノワマン (91kg)、柴田勝頼 (84kg) など体重が10kg以上も下の選手や、吉田秀彦(40歳)、K-1が本職で4年間総合格闘技ルールの試合をしていなかったジェロム・レ・バンナ(38歳)などのいわゆるピークを超えた選手となるなど有利なことがあるマッチメイクが多い。
戦績 [編集]

プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
6 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
4 勝 0 2 2 0 0 1
1 敗 0 0 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ジェロム・レ・バンナ 5分3R終了 判定3-0 Dynamite!! 勇気のチカラ2010 2010年12月31日
○ 柴田勝頼 1R 3:30 アームロック K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINAL 2010年11月8日
○ ミノワマン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.16 2010年9月25日
- マイルス・ティナネス ノーコンテスト X-1: Nations Collide 2010年6月4日
○ タファ"タンパー"ミシパティ 1R 2:42 腕ひしぎ十字固め Xplosion: New Zealand vs. Japan 2010年5月15日
× 吉田秀彦 5分3R終了 判定0-3 Dynamite!! 勇気のチカラ2009 2009年12月31日
アマチュア・エキシビション [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ササエ・パオゴフィー 1R 2:50 アームロック X-1 WORLD EVENTS 2010年3月20日
獲得タイトル [編集]

2004年:全国高等学校総合体育大会(100kg級) 優勝
2004年:全日本ジュニア体重別選手権大会(100kg級) 優勝
2004年:アジアジュニア柔道選手権(100kg級) 優勝
2004年:世界ジュニア柔道選手権大会(100kg級) 優勝
2004年:講道館杯全日本柔道体重別選手権大会(100kg級) 優勝(史上3人目の高校生王者)
2004年:韓国国際柔道大会(100kg級) 優勝
2005年:嘉納治五郎杯国際柔道大会(無差別級) 3位
2005年:フランス国際柔道大会(100kg級) 3位
2005年:ハンガリー国際柔道大会(100kg級) 準優勝
2005年:全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg級) 3位
2005年:全日本学生柔道優勝大会(国士舘大学) 準優勝
2005年:講道館杯全日本柔道体重別選手権大会(100kg級) 優勝(連覇)
2005年:韓国国際柔道大会(100kg級) 優勝(連覇)
2006年:嘉納治五郎杯国際柔道大会(100kg級) 準優勝
2006年:オーストリア国際柔道大会(100kg級) 優勝
2006年:全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg級) 3位
2006年:全日本柔道選手権大会 優勝 (初出場・史上最年少での優勝)
2006年:全日本学生柔道優勝大会(国士舘大学) 優勝
2006年:ワールドカップ柔道国別団体選手権出場
2006年:ドーハアジア競技大会(100kg級) 準優勝
2007年:全日本柔道選手権大会 準優勝
2007年:嘉納治五郎杯東京国際柔道大会(100kg超級)優勝
2008年:オーストリア国際柔道大会(100kg超級) 優勝
2008年:カザフスタン国際柔道(100kg超級) 優勝
2008年:全日本柔道選手権大会 優勝
2008年:北京オリンピック柔道競技(100kg超級) 金メダル(最重量級最年少王者)
投稿者 格闘技の王子様 21:54 | コメント(0)| トラックバック(0)

イゴール・ボブチャンチン

イゴール・ボブチャンチン(Igor Vovchanchyn、男性、1973年8月6日 - )[1]は、ウクライナ出身の総合格闘家。現在はハルキウ州ハルキウ市に在住。
独特の軌道を描いて放たれる強烈なパンチ、ロシアン・フックを武器に、敵を次々と薙ぎ倒していく姿から、「北の最終兵器」という異名を持つ。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 戦績
3.1 総合格闘技
3.2 キックボクシング
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

桜庭和志をして「気が狂いそうになるほど痛い」と言わしめたロシアン・フックで築いたKO勝ちから、彼は日本の総合格闘技イベントPRIDEの名物的存在となった。『PRIDE GP 2000』では数々の強豪を退け、準優勝に輝いている。
学生時代に陸上競技を経験した後、オレッグ・タクタロフの元でボクシングを学ぶ。さらにキックボクシングをベースにレスリングや関節技を習得し[2]、1990年代半ばから母国ウクライナ、ロシア共和国、ベラルーシなど旧ソビエト連邦の諸国での総合格闘技の大会に出場した。
日本へは、1998年のPRIDE.4のゲーリー・グッドリッジ戦でPRIDEデビュー。以後は、PRIDEを主戦場とした。PRIDEではヘビー級(体重無制限)のハードパンチャーの打撃系選手として活躍していたが、次第に本来のヘビー級の骨格を持つ選手に対し成績がふるわず、2005年頃より本格的にミドル級(93kg以下)に転向。総合格闘技デビュー当時は90kgであったこともあり減量に成功し、かつての大きな腹が腹筋の割れた腹に変わってスマートになり、ミドル級の強豪選手としてPRIDEミドル級GP2005に復活を賭けたが、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDでアリスター・オーフレイムを相手に2回戦負けになった。 1999年7月18日、K-1 DREAM '99でK-1に挑戦したが、アーネスト・ホースト相手にローキックでKO負けした。
母国でレストラン経営をしており、ビジネスで生活を営むことができる環境にあり[3]、2005年のPRIDEでの中村和裕戦を最後に4年間戦いから遠ざかった。2007年のアブダビコンバットでは99kg未満級に出場予定だったが、これも怪我により欠場となった。2008年には現役を引退する意向であることをインタビューで明らかにした。ハードパンチャー故の故障により、両肘にはボルトが埋め込まれ、数々の激闘で負った怪我を治すため、大規模な手術を繰り返していると言う。本人曰く、「もう右手で物を殴ることも出来ない」とのこと[2]。ボブチャンチンの日本での代理人を務める川崎浩市は完全に引退が決まったわけではないとこの報道を否定している[4]。
エピソード [編集]

母国で車を運転中、あまりの怪力のためにハンドルをもぎ取ってしまった。
専属の通訳兼マネージャー(通称:オバチャンチン)は変な日本語を話すことで名物キャラクターとなっている。
戦績 [編集]

総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
57 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
45 勝 24 14 7 0 1 1
10 敗 1 6 3 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 中村和裕 2R終了 判定0-3 PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦
【ミドル級GP リザーブマッチ】 2005年8月28日
× アリスター・オーフレイム 1R 1:20 フロントチョーク PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND
【ミドル級GP 2回戦】 2005年6月26日
○ 近藤有己 3R終了 判定3-0 PRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦
【ミドル級GP 1回戦】 2005年4月23日
○ 高橋義生 1R 1:10 KO(スタンドでのパンチ) PRIDE.29 SURVIVAL 2005年2月20日
○ セルゲイ・テレジモフ 1R ヒールホールド Water of Peresvit 2004年12月4日
○ 藤井軍鶏侍 1R 4:02 TKO(右フック→サッカーボールキック) PRIDE 武士道 -其の伍- 2004年10月14日
○ ダン・ボビッシュ 2R 1:45 TKO(グラウンドでのパンチ) PRIDE.27
【PRIDE GP サバイバルマッチ】 2004年2月1日
× ミルコ・クロコップ 1R 1:29 KO(左ハイキック) PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦
【ヘビー級ワンマッチ】 2003年8月10日
○ ボブ・シュライバー 2R 4:05 チョークスリーパー It's Showtime 2003年6月8日
× クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン 1R 7:17 TKO(グラウンドでのパンチ) PRIDE.22 2002年9月29日
× ヒース・ヒーリング 3R終了 判定0-3 PRIDE.19 2002年2月24日
○ ヴァレンタイン・オーフレイム 1R 4:35 ヒールホールド PRIDE.18 2001年12月23日
○ リカルダス・ロセヴィチュス 2R TKO(ローキック) Rings Lithuania: Bushido Rings 3 2001年11月10日
× マリオ・スペーヒー 1R 2:52 肩固め PRIDE.17 2001年11月3日
○ 佐竹雅昭 3R終了 判定3-0 PRIDE.15 2001年7月29日
○ ギルバート・アイブル 1R 1:52 チョークスリーパー PRIDE.14 2001年5月27日
× トレイ・テリグマン 3R終了 判定0-3 PRIDE.13 2001年3月25日
○ マーク・ケアー 延長R終了 判定3-0 PRIDE.12 2000年12月23日
○ 高田延彦 2R 3:17 ギブアップ(パウンド) PRIDE.11 2000年10月31日
○ エンセン井上 1R終了 TKO(ドクターストップ) PRIDE.10 2000年8月27日
○ 松井大二郎 1R 5:03 TKO(右眉カット) PRIDE.9 2000年6月4日
× マーク・コールマン 延長2R 3:09 ギブアップ(グラウンドでの膝蹴り) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦 2000年5月1日
○ 桜庭和志 1R終了 TKO(タオル投入) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦
【準決勝】 2000年5月1日
○ ゲーリー・グッドリッジ 1R 10:14 TKO(スタンドでのパンチ) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦
【準々決勝】 2000年5月1日
○ アレクサンダー大塚 1R終了 判定3-0 PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦
【1回戦】 2000年1月30日
○ フランシスコ・ブエノ 1R 1:23 KO(パンチ連打) PRIDE.8 1999年11月21日
- マーク・ケアー 無効試合 PRIDE.7 1999年9月12日
○ カーロス・バヘット 延長R終了 判定2-1 PRIDE.6 1999年7月4日
○ ヴェプコ・バルダナシヴィリ ラウンド不詳 チョーク InterPride 1999: Heavyweight Final 1999年5月8日
○ 小路晃 2R終了 判定5-0 PRIDE.5 1999年4月29日
○ エジソン・カルヴァーリョ 1R 3:16 TKO(右フック) World Vale Tudo Championship 7 1999年2月2日
○ アロイジオ・フレイタス・ネート 1R 7:26 ギブアップ World Vale Tudo Championship 6 1998年11月1日
○ ゲーリー・グッドリッジ 1R 5:58 KO PRIDE.4 1998年10月11日
○ ローマン ・チクーノフ 1R 2:15 KO MPS 1996 - 世界のカ人1996 1996年1月23日
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
キックボクシング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× アーネスト・ホースト 3R 0:51 KO(右ローキック) K-1 DREAM '99 1999年7月18日
脚注 [編集]

^ ウクライナ語名はイーホル・ヤロスラーヴォヴィチ・ヴォウチャーンチン(Ігор Ярославович Вовчанчин)、ロシア語名はイーゴリ・ヤロスラーヴォヴィチ・ヴォフチャーンチン(Игорь Ярославович Вовчанчин)。
^ a b Igor Vovchanchyn in exclusive interview Mix Fight M-1 2008年2月10日
^ 『kamipro』No.106、エンターブレイン、2006年。日本での代理人の川崎浩市コラムより。
^ 『kamipro』No.120、エンターブレイン、2008年。川崎浩市コラム。
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池本誠知

池本 誠知(いけもと せいち、男性、1975年8月24日 - )は、日本の総合格闘家、プロレスラー。大阪府松原市出身。総合格闘技スタジオSTYLE主宰。元DEEPウェルター級王者。
目次 [非表示]
1 来歴
2 人物
3 戦績
3.1 プロ総合格闘技
3.2 キックボクシング
3.3 グラップリング
3.4 アマチュア総合格闘技
4 獲得タイトル
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

シュートレスリング、柔道、レスリング、空手、ボクシング等の数々の格闘技経験を持つ。
1999年10月29日、修斗でプロデビュー。
2000年10月9日、修斗でダミアン・リシオと対戦し、マウントパンチでTKO勝ち。
2002年9月28日、地元大阪のクラブで格闘技イベント「REDZONE」を立ち上げ、2005年まで全10回開催した。
2003年7月13日、DEEP初参戦となったDEEP 11で佐々木恭介と対戦し、判定勝ち。
2003年12月26日、KAIENTAI-DOJO興行でプロレスデビュー。
2004年7月3日、DEEP 15で開催されたDEEPウェルター級トーナメントの1回戦で青木真也と対戦し、一本負け。
2005年2月26日、Euphoria MFCでエディ・アルバレスと対戦し、パウンドでTKO負け。
2005年3月6日に旗揚げされた総合格闘技、ヒップホップ、ダンスのコラボレーションイベント「REALRHYTHM(リアルリズム)」のスーパーバイザーを務めた。池本もメインイベントで中村大介と対戦予定であったが、Euphoria MFCでのTKO負けによりドクターストップとなり、長南亮とのエキシビションマッチを行った。
2005年9月3日、DEEP 20で長谷川秀彦と対戦し、判定勝ち。
2006年3月4日、REALRHYTHM 3で行われたDEEPウェルター級タイトルマッチで中尾受太郎と対戦し、判定負け。
2006年4月2日、PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道 -其の拾-でイーブス・エドワーズと対戦し、判定負け。同年8月26日、PRIDE 武士道 -其の十二-の武士道挑戦試合で中村大介と対戦し、一本負け。
2007年7月2日、総合格闘技スタジオ「STYLE」を大阪市城東区にオープン。
2008年7月27日、DEEP 36で王者長谷川秀彦とDEEPウェルター級タイトルマッチで対戦し、判定勝ち。第3代DEEPウェルター級王者となった。試合後のリング上でDREAM参戦をアピールした[1]。
2009年2月20日、DEEP 40で門馬秀貴とDREAMウェルター級GP出場権を賭け5年振りの再戦。両拳を合わせて打つ新技「ダブルパンチ」でTKOし、GP出場権を獲得した[2]。
2009年4月5日、DREAM.8のウェルター級グランプリ1回戦でマリウス・ザロムスキーと対戦し、0-3の判定負けを喫した。
2010年1月24日、DEEP 45 IMPACTのDEEPウェルター級タイトルマッチで白井祐矢と対戦し、0-5の判定負けで王座から陥落した[3]。
2010年6月6日、DEEP CAGE IMPACT 2010 in OSAKAのメインイベントで松下直揮と対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。
2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINALで山本優弥と初挑戦となるK-1ルールで対戦し、2Rに3度のダウンを奪われKO負けを喫した。
人物 [編集]

「ダブルパンチ」、「エアハンマー」、「ホワイトキャット」等の数々のオリジナル技を持つ。ダブルパンチはトレーナーが考案したものだが、動物園に通い動物の動きからヒントを得て開発することが多い。また、その際には動物の動きを真似する動物トレーニングも行う。
戦績 [編集]

プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
41 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
19 勝 7 4 8 0 5 0
17 敗 2 6 9 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 松下直揮 5分3R終了 判定2-0 DEEP CAGE IMPACT 2010 in OSAKA 2010年6月6日
× 白井祐矢 5分3R終了 判定0-5 DEEP 45 IMPACT
【DEEPウェルター級タイトルマッチ】 2010年1月24日
× タレック・サフィジーヌ 5分2R終了 判定0-3 DREAM.10 ウェルター級グランプリ2009 決勝戦
【ウェルター級グランプリ リザーブマッチ】 2009年7月20日
× マリウス・ザロムスキー 2R(10分/5分)終了 判定0-3 DREAM.8 ウェルター級グランプリ2009 開幕戦
【ウェルター級グランプリ 1回戦】 2009年4月5日
○ 門馬秀貴 1R 1:42 TKO(左ストレート→パウンド) DEEP 40 IMPACT
【DREAMウェルター級GP出場者決定戦】 2009年2月20日
○ 長谷川秀彦 5分3R終了 判定3-0 DEEP 36 IMPACT
【DEEPウェルター級タイトルマッチ】 2008年7月27日
○ ソ・ドゥウォン 1R 2:56 ヒールホールド DEEP PROTECT IMPACT in OSAKA 2007年12月22日
△ 國奥麒樹真 5分3R終了 判定1-0 DEEP 32 IMPACT 2007年10月9日
○ ハン・スーファン 5分3R終了 判定3-0 DEEP 30 IMPACT 2007年7月8日
× 中村大介 1R 3:12 腕ひしぎ十字固め PRIDE 武士道 -其の十二-
【武士道挑戦試合】 2006年8月26日
○ 松下直揮 1R 2:26 TKO(カット) REALRHYTHM 4th STAGE 2006年7月30日
× イーブス・エドワーズ 2R(10分/5分)終了 判定0-3 PRIDE 武士道 -其の拾- 2006年4月2日
× 中尾受太郎 5分3R終了 判定0-3 REALRHYTHM 3rd STAGE
【DEEPウェルター級タイトルマッチ】 2006年3月4日
○ オ・ウォンジン 2R 4:58 KO REALRHYTHM 2nd STAGE 2005年11月19日
○ 長谷川秀彦 5分3R終了 判定3-0 DEEP 20th IMPACT 2005年9月3日
× エディ・アルバレス 2R 4:25 TKO(パウンド) Euphoria MFC: USA vs. WORLD 2005年2月26日
○ 原学 1R 1:15 腕ひしぎ十字固め REDZONE.10 2005年2月13日
○ 久保輝彦 1R 4:58 腕ひしぎ十字固め club DEEP 大阪 2004年11月28日
○ 立原基大 1R 1:49 横三角絞め REDZONE.9 2004年10月3日
× 青木真也 2R 0:52 腕ひしぎ十字固め DEEP 15th IMPACT
【DEEPウェルター級トーナメント 1回戦】 2004年7月3日
× 久保輝彦 1R 1:34 KO REDZONE.8 2004年6月6日
○ 長岡弘樹 5分3R終了 判定3-0 DEEP 14th IMPACT in OSAKA 2004年4月18日
× 門馬秀貴 2R 3:53 肩固め DEEP 13th IMPACT in KORAKUEN HALL 2004年1月22日
○ 木村仁要 1R終了時 TKO(顔面カット) club DEEP 5th in デルフィンアリーナ 2003年12月7日
△ 男!徳岡 5分2R終了 判定1-0 修斗 2003年10月12日
○ 佐々木恭介 5分3R終了 判定3-0 DEEP 11th IMPACT in OSAKA 2003年7月13日
× 菊地昭 2R 1:28 腕ひしぎ十字固め 修斗 2003年6月27日
× ショーニー・カーター 5分3R終了 判定0-3 修斗 2003年3月18日
○ 岩瀬茂俊 5分2R終了 判定2-0 修斗 2002年10月27日
× デイブ・ストラッサー 1R 3:10 チョークスリーパー 修斗 2002年6月29日
× 和田拓也 5分3R終了 判定0-3 修斗 2002年2月11日
× 加藤鉄史 5分3R終了 判定0-3 修斗 2001年12月16日
× スティーブ・バーガー 3R 2:10 腕ひしぎ三角固め 修斗 2001年8月26日
○ ジェイ・バック 2R 3:03 TKO(パンチ) HOOKnSHOOT 2001年5月26日
○ 大河内貴之 1R 4:01 KO(膝蹴り) 修斗 2001年2月18日
○ ダミアン・リシオ 1R 2:09 TKO(マウントパンチ) 修斗 2000年10月9日
△ 鶴屋浩 5分2R終了 判定0-0 修斗 2000年8月27日
× 川勝将軍 5分2R終了 判定0-3 修斗 2000年8月4日
△ 和田拓也 5分2R終了 判定0-1 修斗 2000年5月22日
△ 楠勇次 5分2R終了 判定1-0 修斗 2000年4月2日
○ ザ・ばばんば 5分2R終了 判定3-0 修斗 1999年10月29日
キックボクシング [編集]
キックボクシング 戦績
1試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
0勝 0 0 0 0 0
1敗 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 山本優弥 2R 2:22 KO(3ノックダウン:パンチ連打) K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINAL 2010年11月8日
グラップリング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 梅田恒介 2R 1:13 アームロック CLUB DEEP TOKYO in 新宿FACE【グラップリングルール】 2008年3月29日
○ 佐々木信治 5分2R終了 判定3-0 club DEEP 福岡 天下一祭り【グラップリングルール】 2005年4月10日
○ 澤田拓也 1R 2:11 スリーパーホールド REDZONE.7【REDZONEキャッチルール】 2004年3月7日
○ 甲斐俊光 2R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.6【REDZONEキャッチルール】 2003年11月9日
△ 杉浦"C坊主"博純 延長R終了 判定 REDZONE.5【REDZONEキャッチルール】 2003年8月24日
× 花井岳文 1R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.4【REDZONEキャッチルール】 2003年5月11日
○ 辻嘉一 2R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.3【REDZONEキャッチルール】 2003年3月2日
○ 高江州朝也 2R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.2【REDZONEキャッチルール】 2002年11月30日
○ 砂田勝彦 2R フロントチョーク REDZONE【REDZONEキャッチルール】 2002年9月28日
アマチュア総合格闘技 [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 樫本真也 1R 2:36 アンクルロック 浪速フリーファイト 5 1999年3月14日
獲得タイトル [編集]

第3代DEEPウェルター級王座
投稿者 格闘技の王子様 21:53 | コメント(0)| トラックバック(0)

├─≠ョ─ヵラスとクリス・キャンディード

├─≠ョ─ヵラス 彼氏キャラ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス ラリー・シャープ主宰のモンスター・ファクトリーでトレーニング後、1986年に14歳でデビュー。
投稿者 格闘技の王子様 19:32 | コメント(0)| トラックバック(0)

クリス・アダムス

"ジェントルマン" クリス・アダムス("Gentleman" Chris Adams)のリングネームで知られるクリストファー・アダムス(Christopher Adams、1955年2月10日 - 2001年10月7日)は、イギリス・ウォリックシャー出身のプロレスラー。モスクワとロサンゼルスの両オリンピックで銀メダルを獲得した柔道家のニール・アダムスは実弟である。
1980年代から1990年代にかけて、アメリカ合衆国のテキサス地区を主戦場に活躍。その甘いマスクで女性ファンの人気を獲得する一方、ジノ・ヘルナンデスとのヒール・タッグチーム、ダイナミック・デュオ(The Dynamic Duo)でも悪名を売った。ストーン・コールド・スティーブ・オースチンの師匠としても知られている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

少年時代から格闘技に励み、柔道や空手の段位も取得。イギリスを代表するプロレスラーのビッグ・ダディやトニー・シンクレア(トニー・セント・クレアー)のトレーニングを受け、1978年に英国でデビュー。武道のバックグラウンドをキャラクターに活かし、当時は "ジュードー" クリス・アダムスまたは "ブラックベルト" クリス・アダムスと名乗っていた。
1980年にアメリカ・マット界に進出し、西海岸のLA地区に参戦。1981年にはボボ・ブラジルを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得した[1]。同年5月にLAとの提携ルートで新日本プロレスに初来日し、MSGシリーズの第4回大会に出場。リーグ戦ではキャリア不足と軽量が響き白星配給係となったが、そのフレッシュでイキのいいファイトスタイルで高評価を獲得。以降も新日本の常連外国人となり、藤波辰巳や初代タイガーマスクと好勝負を展開した。また、新日本のブッキングでメキシコのUWAにも遠征し、1981年10月18日にはペロ・アグアヨからWWFライトヘビー級王座を奪取している。
1983年より "ジェントルマン" クリス・アダムスを名乗り、フリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWに定着。英国からやって来たフォン・エリック兄弟の友人としてベビーフェイス人気を獲得し、ジミー・ガービンやファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)と抗争、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。しかし1984年9月、ケビン・フォン・エリックとの仲間割れアングルが組まれヒールに転向。翌1985年には同じ色悪系の"ゴージャス" ジノ・ヘルナンデスと "ダイナミック・デュオ" を結成し、NWAアメリカン・タッグ王座を巡ってケビン&ケリー・フォン・エリックと熾烈な抗争を繰り広げた[2]。
1986年2月にヘルナンデスが急死してからはベビーフェイスに戻り、リック・ルードとの抗争を開始。同年7月4日にはルードからWCWA(WCCW)世界ヘビー級王座を奪取している[3]。1987年にはミッドサウス地区のUWF(ビル・ワット主宰)にも参戦し、2月7日に行われたUWF世界タッグ王座決定トーナメントにテリー・テイラーとのコンビで出場。決勝で若手ヒール時代のスティング&リック・スタイナーを破り、チャンピオン・チームとなった[4]。
1988年の末からはダラスでプロレスリング・スクールを開校し、スティーブ・オースチンらを育成する。ダラスのWCCWがテネシー州メンフィスのCWA(ジェリー・ジャレット&ジェリー・ローラー主宰)と業務提携を結び1989年にUSWAが発足すると、同団体にて弟子のオースチンの抗争相手も務めた[5]。
1991年にWWFのトライアウトを受けるが契約は見送られ、WCCWの後継団体ともいえるダラスのGWFに定着。1993年12月と1994年7月の2度に渡り、同団体認定の北米ヘビー級王座に就く[6]。以降もメンフィスのUSWAやシカゴのAWFなどのインディー団体を転戦し、1997年にはWCWに登場。ロード・スティーブン・リーガルとも英国人コンビを組んだが本格的なタッグチーム結成には至らず、ミッドカードに出場するジョバーのポジションに甘んじ、1999年にWCWを解雇された。
その後はダラス周辺のインディー団体に単発参戦していたが、2000年4月、ドラッグとアルコールの過剰摂取で愛人と一緒に無意識状態になっているところを知人宅で発見される。愛人は数時間後に死亡、アダムスは故殺罪に問われたが、裁判を控えた2001年10月7日、酒の上での喧嘩がもとで友人に正当防衛として射殺された[7]。46歳没。
得意技 [編集]

スーパーキック
エンズイギリ
ドロップキック
スリーパーホールド
獲得タイトル [編集]

NWAハリウッド・レスリング(ロサンゼルス地区)
NWAアメリカス・ヘビー級王座:2回
NWAアメリカス・タッグ王座:2回(w / トム・プリチャード、リンゴ・リグビー)
WCCW(ダラス地区)
NWAアメリカン・ヘビー級王座:4回
NWAアメリカン・タッグ王座:2回(w / ジノ・ヘルナンデス)
NWAテキサス・ブラスナックル王座:1回
NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
NWA世界6人タッグ王座:2回(w / ジノ・ヘルナンデス&ジェイク・ロバーツ、スティーブ・シンプソン&ケビン・フォン・エリック)
WCCW TV王座:3回
WCWA TV王座:1回
WCWA世界ヘビー級王座:1回
その他
WWFライトヘビー級王座:1回
UWF世界タッグ王座:1回(w / テリー・テイラー)
GWF北米ヘビー級王座:2回
投稿者 格闘技の王子様 19:30 | コメント(0)| トラックバック(0)

クラッシャー・リソワスキー

クラッシャー・リソワスキー(Crusher Lisowski、1926年7月11日 - 2005年10月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ウィスコンシン州サウスミルウォーキー出身のポーランド系アメリカ人。本名はレジナルド・リソワスキー(Reginald Lisowski)。生年月日、出自、デビュー年に関しては不明な点が多く、出身地はペンシルベニア州ピッツバーグという説もある。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

若い頃は不良少年で、煉瓦積みの職人、ハイウェイ・パトロールの警察官などの職業を経た。1949年(1950年とも)、24歳でプロレス入り。レジー・リソワスキー(Reggie Lisowski)の名でリングに上がりスタンレー・リソワスキーとタッグで活躍した。
1963年2月15日、ネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破ってAWA世界ヘビー級王座(オハマ版)を奪取。
同年7月9日、ミネソタ州ミネアポリスでバーン・ガニアを破ってAWA世界ヘビー級王座(ミネアポリス版)を奪取。
1963年8月20日、同地でディック・ザ・ブルーザーと組んでAWA世界タッグ王座を奪取(以降、ブルーザーとのコンビで計4回、コンビを変え計4回の奪取に成功)。
1963年11月29日、ミネソタ州セントポールでバーン・ガニア再度AWA世界ヘビー級王座(オハマ版)を奪取。
1965年8月21日、同地でマッドドッグ・バションを破り統一されたAWA世界ヘビー級王座を奪取。
1967年12月、日本プロレスに初来日しジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。
1969年8月11日、日本プロレス、札幌中島スポーツセンターでジャイアント馬場&アントニオ猪木(BI砲)を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。
1972年11月、国際プロレスに来日。11月27日にブルーザーと組んでストロング小林&グレート草津と日本初の金網デスマッチによるタッグ戦を行う。
1976年1月、全日本プロレスに最後の来日。
1984年5月6日、バロン・フォン・ラシクと組んでクラッシャー・ブラックウェル&ケン・パテラを破りAWA世界タッグ王座を奪取。これが最後の載冠となる。
1986年、WWFにスポット参戦。ジャイアント・マシーン、スーパー・マシーン、ビッグ・マシーンらのWWF版マシーン軍団の一員として、覆面レスラーのクラッシャー・マシーン(Crusher Machine)を名乗る。素顔でもハルク・ホーガンとタッグを組み、ビッグ・ジョン・スタッド&キングコング・バンディと対戦した。
1989年頃、WWFで引退。
2005年10月22日、ミルウォーキーの病院で脳腫瘍のため死去。
得意技 [編集]

パンチ攻撃
フルネルソン
獲得タイトル [編集]

AWAブラスナックル王座:1回
AWA世界ヘビー級王座(ミネアポリス版):2回
AWA世界ヘビー級王座(オマハ版):1回
AWA世界タッグ王座:9回(w / ディック・ザ・ブルーザー×5、バーン・ガニア、レッド・バスチェン、ビル・ロビンソン、バロン・フォン・ラシク)
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / トミー・リッチ)
NWAカナディアン・オープンタッグ王座:1回(w / スタン・リソワスキー)
NWA世界タッグ王座(シカゴ版):3回(w / アート・ネルソン、スタン・リソワスキー×2)
NWA世界タッグ王座(ミネアポリス版):2回(w / スタン・リソワスキー)
WWA世界タッグ王座:6回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
ブリティッシュ・オープンタッグ王座:1回(w / スタン・リソワスキー)
投稿者 格闘技の王子様 19:30 | コメント(0)| トラックバック(0)

ジェリー・ブラックウェル

ジェリー・ブラックウェル("Crusher" Jerry Blackwell、1949年4月26日 - 1995年1月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州ストーンマウンテン出身。
選手時代は主にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームで知られ、アメリカではAWA、日本では全日本プロレスを主戦場に巨漢レスラーとして活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

ジノ・ブリット(後のWWWF世界タッグ王者ルイス・セルダン)のコーチを受け、1974年にプロレスラーとしてデビュー。カンザスシティのセントラル・ステーツ地区でマイク・ジョージらと対戦してキャリアを積み、1976年にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームでニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。巨漢の若手ヒールとしてバグジー・マグローなどとタッグを組んで頭角をあらわし、1978年の2度目のNYサーキットでは新WWF王者ボブ・バックランドとも対戦してネームバリューを高めた[1]。
1979年はアラバマ地区(テネシー州ノックスビルまでをサーキット・エリアとするサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)に進出。ジ・インベーダー(ボブ・オートン・ジュニア)とディック・スレーターをパートナーに、サウスイースタン・タッグ王座を2度に渡って獲得している[2]。その後、1980年よりAWAに登場。1981年にはイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)と悪役トリオを結成し、当時AWAで人気沸騰中だったハルク・ホーガンと抗争を展開。ホーガンの助っ人としてAWAに参戦したアンドレ・ザ・ジャイアントも巻き込み、スーパーヘビー級の肉弾戦を繰り広げた。
並行してNWA圏にも転戦し、1983年4月15日、ミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムでケリー・フォン・エリックからミズーリ・ヘビー級王座を奪取。1か月後にハーリー・レイスに敗れ短命王者となったが、1984年11月16日にレイスから奪回に成功。翌年8月に再びレイスに奪還されるまで、当時のNWAの実質的なナンバー2タイトルである同王座を死守した[3]。
その間、AWAでは悪徳マネージャーのシーク・アドナン・アル=ケイシーに感化され、アラブ人ギミックへの変身を果たした。シーク・アヤトーラ・ブラックウェル(Sheik Ayatollah Blackwell)を名乗り、ロレンス・オブ・アラビアことケン・パテラと偽アラブ人コンビ「ザ・シークス」を結成。1983年6月26日、ハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)を破りAWA世界タッグ王座を獲得した。同王座は翌1984年5月6日にザ・クラッシャー&バロン・フォン・ラシクに奪われるが、ジェリー・ローラー&ブラックジャック・マリガンなどの強豪チームを相手に1年間近く防衛を続けた[4]。王座転落後にパテラがWWFに移籍してからは、中東ギミックの先達アブドーラ・ザ・ブッチャーとも一時的にタッグを組んでいる。
1984年の下期、マネージャーのアドナンと仲間割れしてベビーフェイスに転向。リングネームも本名のジェリー・ブラックウェルに戻し、子供たちのヒーロー的存在となる。1985年にはWWFから移籍してきたサージェント・スローターとのコンビでロード・ウォリアーズやファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)とも抗争した。
WWF移籍の噂が何度となくあったが、その後も一貫してAWAに定着、体調を崩し1980年代後半からは試合出場を控えるようになったものの、最末期までAWAを支え続けた。1995年1月22日、肝炎のため45歳で死去[5]。
日本での活躍 [編集]
1970年代後半にWWWFに上がっていたが新日本プロレスに来ることはなく、日本には1977年の初来日以来、全日本プロレスの常連外国人として通算7回に渡って来日している。2回目の来日となる1979年の10月22日にはジャンボ鶴田のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に挑戦。1984年9月3日には、ジャイアント馬場の王座返上で空位となっていたインターナショナル・タッグ王座決定戦にブルーザー・ブロディのパートナーとして出場、鶴田&天龍源一郎に敗れるが、この試合は鶴龍コンビが初載冠を飾ったメモリアルマッチとなった。最後の来日はフィル・ヒッカーソンとのコンビで参加した世界最強タッグ決定リーグ戦の1988年大会。このときは川田利明のキック攻撃に激昂し、試合後に控え室へ殴り込む一幕も見られたという。
エース級の存在ではなかったものの、そのボリューム満点の体型から繰り出す肉弾攻撃は観客を大いに沸かせ、身長と体重の公称サイズが同じ(180cm、180kg)[5]というインパクトも手伝ってプロレスファンの認知度は高かった。また、アンコ型の巨漢ながらドロップキックをこなすなど、1980年代後半にバンバン・ビガロが登場するまではキラー・トーア・カマタと並んで「動けるデブ」の代表格だった[6]。
得意技 [編集]

ダイビング・ボディ・プレス
エルボー・ドロップ
ドロップキック
獲得タイトル [編集]

NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / バック・ロブレイ)
NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジ・インベーダー、ディック・スレーター)
NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
AWA世界タッグ王座:1回(w / ケン・パテラ)
CWAスーパーヘビー級王座:1回
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スタン・レーン

"スウィート" スタン・レーン("Sweet" Stan Lane、1953年8月5日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。本名はブレック・スタンフィールド・レーン(Breck Stansfield Lane)。ノースカロライナ州グリーンズボロ出身。
主にタッグ・プレイヤーとしての実績で知られ、スティーブ・カーンとのファビュラス・ワンズ、ボビー・イートンとのミッドナイト・エクスプレス、トム・プリチャードとのヘブンリー・ボディーズなど、様々なタッグチームで活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 初期
1.2 ファビュラス・ワンズ
1.3 ミッドナイト・エクスプレス
1.4 ヘブンリー・ボディーズ
1.5 引退後
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

初期 [編集]
1974年[1]、リック・フレアーの仲介により地元ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)にてデビュー[2]。フレアーにあやかり、デビュー当時はスタン・フレアー(Stan Flair)なるリングネームを名乗っていた[3]。
1979年より "ネイチャーボーイ" スタンリー・レーン("Nature Boy" Stanley Lane)の名義でNWAフロリダ地区に参戦。若手のヒールとして頭角を現し、ブライアン・セント・ジョンとのコンビでエディ・グラハム&レイ・スティーブンスなどのチームを破りフロリダ・タッグ王座を再三獲得した[4]。1980年9月にはジム・バーネットの運営するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに遠征し、ジョージア版のNWAジュニアヘビー級王座をケビン・サリバンから奪取している[5]。
1981年7月には、当時フロリダ地区との提携ルートを持っていた新日本プロレスに初来日。キック攻撃を主体としたイキのいいラフファイトを披露し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に札幌中島スポーツセンターと蔵前国技館において連続挑戦した[2]。
ファビュラス・ワンズ [編集]
帰国後はテネシー州メンフィスのCWAに主戦場を移し、1982年よりベビーフェイスに転向。リングネームをスタン・レーン(Stan Lane)に改め、フロリダでのライバルだったスティーブ・カーンとファビュラス・ワンズ(The Fabulous Ones)を結成する。当時のプロレス界では目新しかったMTVスタイルのミュージック・ビデオも製作され(音楽はZZトップが担当)、女性や子供を中心に大きな人気を獲得、後のロックンロール・エクスプレスなどのアイドル系タッグチームの先駆的存在となった。
1984年はAWAに参戦してロード・ウォリアーズと抗争。その間、CWAはトミー・リッチとエディ・ギルバートに新ファビュラス・ワンズを名乗らせるなど[6]、一時はCWAとの間に軋轢も生じたが、同年の下期よりメンフィスに復帰。翌1985年にかけて、ファースト・ファミリー(キングコング・バンディ&リック・ルード)やシープハーダーズ(ジョナサン・ボイド&リップ・モーガン)などを相手に南部タッグ王座を巡る激闘を展開した[7]。
1986年は古巣のフロリダに戻り、オリジナル版のシープハーダーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)とUSタッグ王座を争った[8]。同年8月には新日本プロレスから遠征してきた藤波辰巳と木村健悟のチームと防衛戦を行っており、この試合はテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』でも放送された。
ミッドナイト・エクスプレス [編集]
1987年にファビュラス・ワンズを解散し、自身のキャリアの出発点であるジム・クロケット・プロモーションズに復帰。再度のヒールターンを行い、同プロを離脱したデニス・コンドリーに代わるボビー・イートンの新パートナーとして、ミッドナイト・エクスプレス(The Midnight Express)に加入する。1988年9月にはフォー・ホースメンのタリー・ブランチャード&アーン・アンダーソンを破り、ミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を獲得した[9]。
クロケット・プロがテッド・ターナーに買収された1988年11月以降も新会社のWCWに継続参戦し、コンドリーとランディ・ローズのオリジナル・ミッドナイト・エクスプレスやスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット・スタイナー)と抗争を展開していたが、1990年10月のPPV "Halloween Havoc" を最後に、マネージャーのジム・コルネットと共にWCWを離脱した。
ヘブンリー・ボディーズ [編集]
WCW脱退後はメンフィスに戻り、CWAの後継団体であるUSWAにて、コルネットをマネージャーにスティーブ・カーンとのファビュラス・ワンズをヒール・バージョンで一時的に再結成。1991年初頭に、ジェリー・ローラー&ジェフ・ジャレットとUSWA世界タッグ王座を争っている[10]。
同年10月、コルネットがノックスビルにて設立したSMW(スモーキー・マウンテン・レスリング)に参画。ドクター・トム・プリチャードをパートナーに、ヘブンリー・ボディーズ(The Heavenly Bodies)なる新チームを結成する。1992年からはロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)やファンタスティックス(ボビー&ジャッキー・フルトン)など、ファビュラス・ワンズの影響下にあったチームと抗争を繰り広げた[11]。
引退後 [編集]
1993年、ジミー・デル・レイ(ジミー・バックランド)をヘブンリー・ボディーズの後任にして現役を離れ、同年よりSMWとの業務提携を開始したWWFにカラー・コメンテーターとして登場[3]。ビンス・マクマホン、ゴリラ・モンスーン、テッド・デビアスらと共に『WWFスーパースターズ』や『WWFレスリング・チャレンジ』などの番組のホストを1995年まで担当した。
1990年代末より再びリングに立つようになり、2004年にはROHにてイートンやコンドリーとミッドナイト・エクスプレスを再結成。2005年8月に開催されたオールドタイマーによるリユニオン・イベント "WrestleReunion" では、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ミック・フォーリーとの6人タッグマッチが行われた[12]。近年も各地のインディー団体に、レジェンドとしてゲスト参戦している。
得意技 [編集]

ハイキック
ロシアン・レッグ・スウィープ
ダブルアーム・スープレックス
フライング・ラリアット
獲得タイトル [編集]

ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
NWAジョージア・ジュニアヘビー級王座:1回[5]
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
NWAフロリダ・タッグ王座:3回(w / ブライアン・セント・ジョン)[4]
NWA USタッグ王座(フロリダ版):2回(w / スティーブ・カーン)[8]
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション / USWA
AWA南部タッグ王座:16回(w / スウィート・ブラウン・シュガー、ロン・バス、スティーブ・カーン×14)[7]
USWA世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・カーン)[10]
サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング
SCW世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・カーン)[13]
ジム・クロケット・プロモーションズ / WCW
NWA USタッグ王座:3回(w / ボビー・イートン)[14]
NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ボビー・イートン)[9]
スモーキー・マウンテン・レスリング
SMWタッグ王座:5回(w / トム・プリチャード)[11]
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スタン・ハンセン

スタン・ハンセン(Stan Hansen、1949年8月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州ノックスシティ出身のデンマーク系アメリカ人。本名はジョン・スタンリー・ハンセンII世(John Stanley Hansen II)。
日本で最も成功したと言われる外国人レスラーの1人。第32代AWA世界ヘビー級王者。第2代PWF会長。なお、現夫人は日本人である。リングイン時および試合後の「ウィー!!」という雄叫びが挨拶代わりのようになっている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 首折り事件の真相
4 ブルーザー・ブロディとの関係
5 ハンセンから視た全日本、新日本、アメリカプロレス界
6 アメリカマットでの活躍
7 エピソード
8 著書
9 参考書籍
10 入場テーマ曲
11 獲得タイトル
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
来歴 [編集]

ウェストテキサス州立大学(現ウェスト・テキサスA&M大学)卒業後、プロフットボール球団のボルティモア・コルツ(現インディアナポリス・コルツ)、サンディエゴ・チャージャーズを経て、中学校で教鞭を執った[1]。その頃、旧知のドリー・ファンク・シニアから父親を通じて声がかかり、プロレスにスカウトされた(当時ハンセンは教職の収入面に不満を持っており、スカウトに快諾した)。ファンク道場ではジャンボ鶴田やボブ・バックランドらとともにトレーニングを積んだ。1973年1月1日にプロのレスラーとしてデビュー。1976年4月26日、マディソン・スクエア・ガーデンで当時WWWF世界ヘビー級チャンピオンであったブルーノ・サンマルチノの首を骨折させた事件(実際は後述のとおり、ハンセンがボディスラムを失敗したことによる重度の頸椎捻挫であったが、ウエスタン・ラリアットによるものとして宣伝された)で有名になった。この一件後、ハンセンはサンマルチノとの遺恨劇でWWWFのリングを賑わせるが、以降はクラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなった。
日本初参戦は1975年9月。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった。ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、実際の評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。
サンマルチノ戦後の1977年新春より新日本プロレスと契約し、同年秋の2度目(来日は3度目)の参加からはシリーズエースとしてメイン級の働きをするようになった。1979年のMSGシリーズでは、アンドレ・ザ・ジャイアントを抑えてアントニオ猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した。「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日のトップ外国人レスラーとなった。1981年9月には田園コロシアムにおいて、アンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。またハルク・ホーガンとの強力タッグも話題を集めた。その圧倒的な強さは当時の実況アナウンサー古舘伊知郎により、「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」などと形容された。当時のアメリカではジョージア州を主戦場に活躍する一方、1981年には再びニューヨークのWWFに参戦。MSG定期戦において旧友ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる同年4月6日の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)[2]。
1981年初夏にテリー・ファンクの仲介によってテキサス州ダラスで馬場と会談を持ち、新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約、同年12月の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場した[3]。ただしハンセンの移籍は秘密裏に行われており、当時の関係者やファンを非常に驚かせた(全日本と新日本は有名選手の引き抜き合戦の最中にあり、ハンセンの参戦は最大の事件として記憶されている。12月初旬の段階で馬場夫妻とファンクス以外にはごく限られた関係者しか知らされておらず、盟友ブロディに対してもハンセン本人が直接状況説明をした。そのためブロディは、長くファンクスに対し不信感を持つこととなった)。この試合でブロディのテーマ曲「移民の歌」が流れる中、ブロディ、スヌーカと共に現れたハンセンを見て日本テレビの解説を担当した山田隆(東京スポーツ)は「ハンセンですよ!!」と絶叫した。
全日本プロレスへの公式移籍後は馬場[4]や鶴田、天龍源一郎と闘うが、鶴田との試合は旧知の間柄であることもあって、噛み合わない試合が多かった。また、ブロディと組んだミラクルパワーコンビは圧倒的な強さを誇った[5]。ミラクルパワーコンビと並行してロン・バスとのコンビ「ラリアット・ライダース」を結成し、インターナショナル・タッグ王座も獲得している[6]。ブロディとのコンビ解消後はテッド・デビアス、テリー・ゴディらとタッグを結成し、PWF世界タッグ王座、世界タッグ王座を数回獲得、最強タッグでも優勝を果たした。また天龍とのコンビでも世界タッグ王座を獲得したほか、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成した。
本国では1985年12月29日、ニュージャージー州イースト・ルザーフォードでリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取し、米国での地位も確かなものとした。またAWA王座在位中の1986年3月29日には、自身の保持するAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両王座と、インターナショナル・ヘビー級王座を保持する鶴田との間で、日本初となるトリプル・タイトルマッチが実現した。
1990年2月10日の新日本プロレス主催・東京ドーム大会では、目玉の一つとなった「新日vs全日」の一環として、当時IWGPヘビー級チャンピオンであったベイダーに挑戦。両者リングアウトとなるも、ド迫力の戦いは語り草となった。4月13日の日米レスリングサミットでは、メインイベントでハルク・ホーガンと戦い敗れる。以後6月まで、レンタルという形で再び新日本プロレスのリングに立ち、長州力とタッグを組んだほか、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士とも対戦している(武藤の場合は、グレート・ムタとしてWCWでタッグを組んだこともあった)。
天龍、鶴田が去った後も、プロレス四天王の壁として強さを見せ続けた。チャンピオン・カーニバルでは1992年と1993年で2連覇を達成した(2度とも決勝の相手は三沢光晴。なお、1992年は全勝優勝)。1990年代後半は衰えたと言われながらも、1998年(ベイダーとのコンビ)・1999年(田上明とのコンビ)と、世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝を果たし、不沈艦健在を見せつけた。
両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を表明。2001年1月28日、東京ドームでのジャイアント馬場三回忌追悼興行で引退セレモニーが行われた。通常、全日本では選手が亡くなった時にしか10カウントゴングは鳴らさないが、ハンセンの功績を称えセレモニー中に異例の10カウント・ゴングが鳴らされた。新日本・全日本の各選手が参列する引退セレモニーもまた異例のことであった。
引退後はPWF会長を2007年7月15日まで務め(後任は衆議院議員の馳浩)、地元の少年たちにスポーツを教えつつ、悠々自適の人生を送っているという。2006年夏、2人の息子が日米親善高校野球大会に出場するのに伴い来日。遊撃手の兄、外野手の弟ともに右投げ両打ちであり、走攻守揃ったオールラウンダーである。ハンセン自身が指導して両打ちを教えた。
2008年にはIGFにウィットネスとしてドリー・ファンク・ジュニアと共に来日した。
2009年6月、2006年に来日した息子シェーバー・ハンセンがアメリカMLBのシアトル・マリナーズにドラフト6位指名され喜ぶが、数日後、三沢光晴の訃報を聞き「嬉しいことが数日前にあったのに、その直後になんて悲しいことが起こったんだ」と三沢の死を悲しんだ。
2010年3月27日には、アリゾナ州フェニックスにて開催されたWWE殿堂の顕彰セレモニーにおいて、殿堂入りを果たしたアントニオ猪木のインダクター(プレゼンター)を務めた[7]。
得意技 [編集]

ウエスタン・ラリアット
ハンセンの代名詞とも言うべき技。前傾姿勢で突進し、左腕を振りぬいて相手の首を刈り倒す。アメリカンフットボールの古典的テクニックであるハイタックル(現在のルールでは反則行為)からヒントを得て編み出した。以降クローズラインの名で多くのレスラーが使うようになり、代表的なプロレス技の1つに数えられている。なお三沢の弁によれば、ハンセンが放つラリアットは「冗談抜きで目の前に星が飛ぶ」ほどの威力だという。ハンセン本人の談によると「空手出身の選手はキックや打撃を好み、柔道やレスリングの選手は投げ技、相撲選手はタックルと自分の個性を活かしているのに、なぜフットボール出身者は特性を活かさないのだ?」と、今まで誰も使用しなかったことを不思議に思っていたという。「ラリアットの創始者のように思われているが、たまたまプロレスに最初に取り入れたのが私だっただけのことだ」と語っている。
また他選手のラリアット乱発が目立つ中、ハンセンのラリアットは一撃必殺のフィニッシュ・ホールドとして定着しており、相手パートナーのカットやロープブレーク、リング外落下などが無ければ、この技一発でピンフォールを奪えた。試合開始数分で繰り出して終わらせてしまうこともしばしばあった。受けた相手は空中で(受け方にもよるが)一回転してしまうほどで、川田利明が失神してしまいセコンドの力を借りなければ控え室に戻れなかった、歯が折れた等々、破壊力のエピソードは枚挙に暇がない。現在では小島聡が後を継ぐような形になっている。一撃必殺の威力を保つ秘訣としては、ハンセン曰く「乱発したり序盤で繰り出すのではなく、その技(ラリアット)へつなぐ前の技=試合内容の組み立てをきちんと行うこと」とのこと。
この必殺技の強烈な説得力は、逆に対戦相手にとっても「ハンセンの命綱たる左腕をいかに殺すか」というストーリーを組み立てることが可能となる。対戦相手の左腕殺しがそのままハンセンを押し切るか、あるいは凌ぎきったハンセンがラリアットの一閃で勝利を収めるかは試合の大きな見どころとなった。
エルボー・ドロップ
落とす瞬間、自身の掛け声と共に観客から「ディーヤッ!」と声がかかる。腰を落とした相手の背後から胸元へ叩きつけるエルボー・ドロップは強烈で、新人時代の長州はこの技に苦しめられ連戦連敗だった。それ以降、長州はこの技を好んで使うようになった。また、相手をロープに振ってのエルボーは、ウエスタン・ラリアットの布石として使用することが多かった。
スリーパーホールド(裸絞)
一種のヘッドロックであるが相手背面から顎ごと首を腕で締め上げるのが特徴。
ショルダー・ブロック
場外戦での使用頻度の高い技。エプロンから場外の相手にダイビングして放つこともある。かつてはベイダーをも吹っ飛ばしたこともあり、地味だがハンセンのパワーを語る上で欠かせない技。
ショルダー・バスター
ボディスラムの要領で抱え上げ自ら片膝をつき、立てている方の膝に相手の肩を叩きつける。試合中盤の痛め技として使用。
ドロップキック
あまり多用しないが、フォームが美しく相手との距離をしっかり捕らえて打っていたため、確かな威力があった。ブロディとのツープラトン・ドロップキックはタイミングが抜群で、両者共に名手であったため息の合った美しいタッグ技として定評があった。
逆エビ固め
地味な技ではあるが、ハンセンの逆エビ固めは腰をしっかりと落として決めるため、時には中堅クラスのレスラーからもギブアップを奪うことがあった。AWAのベルトを奪取した決め技もラリアットではなく、この技だった。
抱え式バックドロップ
攻め込まれた際の反撃のきっかけとして使うことが多かったが、1985年7月30日の馬場とのPWFヘビー級選手権では、エプロン上の馬場に対してリング内からトップロープ越しに豪快に引っこ抜いてフォールを奪った。王座から転落した馬場はこの一戦を最後にタイトル戦線から撤退している。この技の第一人者であった鶴田のような威力こそなかったが、力任せで後方へ投げるため三沢や川田のような比較的軽量、小柄な相手に放つと危険な角度で落ちることもあった。
サッカーボール・キック
尻餅をついた相手を背中側から思いきり蹴る技。中盤の痛め技として使用し、若手時代にこの技を多く受けた川田利明も得意技にしている。
若き日のハンセンは持ち前の馬力を利用したファイトスタイルを取っていたが、年齢とともにそれが通用しなくなると徐々にプロレス技のレパートリーを増やしていくようになった。上記の技以外では、高速ブレーンバスター、DDT、パワーボムなどを好んで使い、卍固めやドラゴン・スリーパー、回転エビ固め等を繰り出したこともある。 投げ捨て式、エビ固め式と両方使ったパワーボムでは、三沢や秋山準をピンフォールしてしまうこともあった。
首折り事件の真相 [編集]

ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを主戦場とするWWWF(現WWE)の帝王サンマルチノが、自分が対戦するメインイベントの相手として、中堅時代のハンセンをとある人物から薦められた。プロモーターはビンス・マクマホンだが、推薦人物は先にサンマルチノにコンタクトをとるようにハンセンに忠告した。ハンセンはその忠告を守り、先にサンマルチノと会談した。サンマルチノによると、マクマホンと自分は円滑な関係ではなく、最も大事なタイトル挑戦者選びはマクマホンが取り仕切っていたというが、「君なら間違いないと思う。全力でブツかってきてくれ」とハンセンを挑戦者として承諾した。ハンセンは続いてマクマホンとコンタクトをとったが、「ブルーノが連れて来たんだ。細かい話はブルーノとしてくれ」と投げ遣りな言葉を返された。頭に来たハンセンだが、せっかくのメインイベンターとしてのチャンスをふいにはできないので、我慢することにした。
結果として、急角度で落下させたボディスラムでサンマルチノの首を負傷させ、しかもラリアットの連発を浴びせたため、サンマルチノは入院、2か月の長期欠場となった。「チャンピオンを怪我させて、どう責任とってくれるんだ!」とマクマホン側の批判は厳しく、ハンセンも顔面蒼白となったが、あらかじめ根回ししていたサンマルチノは、「ハンセンを責めないでくれ。1日も早く回復してみせるから」と擁護したという。結果、WWWFはサンマルチノの穴埋めとしてハンセンを使い続けることになり、事情を知らない観客からは「俺達の英雄を怪我させたハンセンを許すな!」と非難を一身に浴びることとなった。サンマルチノが復帰しハンセンの契約が切れる頃、マクマホンから「契約を延長してやってもいい、その気があるならサインしろ。応じられないなら新日本プロレス行きを考えてやる」と言われ、時間をもらいサンマルチノに相談した。サンマルチノは「現状を考えると新日本行きが一番ベター(良い選択)だろう。マクマホンは君に興行収入の何パーセントの還元も約束してくれてないのだろう?」と新日本行きをハンセンに提案した。事情を知らないマスコミは2人には遺恨があると誤解し、「ハンセンはWWWFから追放された」などと報じた。
ブルーザー・ブロディとの関係 [編集]

ハンセンが大学のクラブ(アメリカンフットボール)の寮を見学した際、案内してくれた人物のルームメイトが偶然ブロディだった。これが3つ年上のブロディとの初めての出会いで、案内人側の空間はゴミ一つなくきっちり整理されていたのに対し、ブロディ側は新聞紙やビールの空き缶などが散乱していたという。ブロディは本来授業を受けている筈の午後2時に部屋で寝ており、一旦目覚めて「ハーイ!」と陽気に挨拶してきた後、再び高いびきで寝てしまった。案内人はハンセンへ「見せた部屋が不味かったね。他はこんなんじゃないよ」とバツが悪そうに言った。後年この時のことを話す度に、ブロディはいつも顔を紅潮させ恥ずかしがったという(その後ブロディは問題を起こし、大学を退学)。
デビュー後に再会した際、プロモーターがブロディのことを「彼は真面目で何でも私に相談する、好青年だよ」と話しているのを聞き、ハンセンは「フランク(ブロディの本名)め、猫被っているな」と吹き出しそうになったという。ハンセンはブロディから「俺の学生時代の愚行はプロモーターには内緒にしてくれよ」と頼まれた。
両者はオクラホマやルイジアナなどミッドサウスのトライステート地区でタッグチームとして売り出されたため、グリーンボーイ時代は苦楽を共にしていた。プロモーターや先輩レスラーと衝突することが多かったブロディをハンセンはたしなめていたというが、ハンセン曰く「もし私とブロディが同じ性格なら、こんなに長く一緒に居ることは出来なかっただろう」と語っている。
全日本プロレスへのハンセンの移籍報告をハンセン本人から聞かされたブロディは「スタン、それは喜ぶべきニュースだが、俺が居るのになぜこれ以上全日にタレントが必要なのだ? 俺だけでは不足なのか?」と不服そうに語ったが、オーナーであるジャイアント馬場の意向をブロディに聞かせ納得させた。ハンセンが全日本登場直前にブロディは「スタン、この時点で馬場は俺達に君のことを何も報告していないんだぜ? 俺やスヌーカ(この時のパートナー)はそんなに信用できないのか?」と不審を募らせた。このような事柄を繰り返してきたため、ブロディのプロモーター不信は蓄積され、後の悲劇を招いたとハンセンは痛感することになる。
ブロディは1985年に新日本へ移籍することになるが、実際に新日本にいたハンセンは、ブロディが移籍したとしても新日本との軋轢は避けられないと確信していた。ブロディはギャラに煩いと思われがちだがハンセンによると金銭よりメインイベンターとしてのプライドの方が強かったという。これらに拍車がかかりプエルトリコの惨劇が起こったとハンセンは断定しており、傍に居ながら止めてやれなかったことを嘆いている。ブロディ死亡後、ハンセンは一時ヒールの仮面を脱ぎ棄ててリング上で追悼のスピーチを行った。
ハンセンから視た全日本、新日本、アメリカプロレス界 [編集]

日本での最初の主戦場は新日本プロレスとなったが、待遇やギャラの面では最終的に満足していると語っている。日本人であるアントニオ猪木が不動のエースであることもヒールを自認していたハンセンにとっては受け入れ易いものであった。それでもなおハンセンが移籍へ到ったのは、新日本に対してプロモート業を新間寿に委託している猪木はリング上の対戦相手でしかなく、ビジネスの話ができなかったからだという。その新間の営業戦争企画でアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜いたのだが、当時 新日本の外人エースであるハンセンには事前まで何も知らされず当惑させられた。
逆に全日本プロレスはジャイアント馬場が試合のプロモートからギャラの支払いまでを管理していたので、すべて相談できて安心だったという。しかし、不満がないわけではなかった。まず、外人選手であるザ・ファンクスが全日本のエースに長く君臨することには疑問を抱いており、馬場の次のエースはジャンボ鶴田でなければならないと強く思っていた。 また、ヒールとしての高いプロ意識も葛藤を生んだ。当時の全日本では選手が皆同じバスで移動していたが、他選手と和やかにしている姿をファンに見られたくないハンセンにとって、このシステムは抵抗が強かったという。 また、日本のファンはヒールながら凶器に頼らないハンセンの姿勢を敬愛したため、ブーイングを当然と考えていたハンセンは戸惑いを感じていた。そうしたファンへは感謝もしていたが、現役時代はこれを素直に表現できず、苦痛だったという。
アメリカでは移動、宿舎の手配まで自身で行わなければならず(一部の団体除く)、いくらギャラが高くても安心できない面があることや一時の人気でトップに上ってもすぐに捨てられる可能性があることをハンセンはこれまでの経験で痛感しており、「一時、新日本は全日本に比べて事務的だと思ったがアメリカの団体と比べれば新日本に対して失礼だ」とも思ったという。長い期間と広い視野でプランを立てる日本プロレス界をハンセンは強く支持していた。
アメリカマットでの活躍 [編集]

リングネーム全盛期にあって本名でリングに上がり続けたが、アメリカでの正式なリングネームは「"Bad Boy" Stan Hansen」または「Stan "The Lariat" Hansen」[8]である。
ニューヨークのWWWF / WWF(現・WWE)にはブルーノ・サンマルチノの首折り事件を起こした1976年と、新日本プロレスの主力外人となってからの1981年の2度に渡って参戦している(マネージャーはいずれもフレッド・ブラッシー)。1976年の参戦時は7月よりブルーザー・ブロディもサンマルチノの挑戦者としてローテーションに加わり、両者は共に東部一帯をサーキットした[9]。1981年には前述の通り、MSG定期戦においてボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦、最終的にはスチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われている[2](DVD『WWE Bloodbath - The Most Incredible Cage Matches』に収録)。MSGでの金網決着戦までバックランドとの抗争アングルが組まれることは当時のWWFにおける「売れっ子ヒール」の証でもあり、ハンセン以前にはピーター・メイビア(1978年)とパット・パターソン(1979年)[10]、以後にはジミー・スヌーカ(1982年)らがいる[2]。また、1981年には前年にカムバックしたサンマルチノとの遺恨マッチも再現された[11]。
アメリカ本土においてもヒールに徹しており、WWFや南部のNWA圏などメジャーテリトリーでの実績を有していたことから、1980年代前半のアメリカの専門誌や業界誌の不人気レイティング(すなわち悪党人気)では上位にランクされていた[12]。
しかし、主戦場としていたジョージア地区(ジム・バーネットが主宰していたGCW)では、1979年以降はベビーフェイスのポジションに回る場合が多く、トミー・リッチやワフー・マクダニエルら人気選手のパートナーを務め、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カール・コックス、マスクド・スーパースターなどのヒール勢と対戦している。1983年のクリスマスには、GCWの本拠地アトランタのオムニ・コロシアムにおいて、バグジー・マグロー(1984年3月に全日本マットでハンセンのPWFヘビー級王座に挑戦)と組んでロード・ウォリアーズとも対戦した[13]。なお、GCWの看板タイトルであるNWAジョージア・ヘビー級王座には、1977年11月にディック・スレーター、1978年2月にミスター・レスリング2号を破り、2回戴冠している[14]。
1983年は、9月よりテネシー州メンフィスのCWAにもスポット参戦し、ジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーやオースチン・アイドルと対戦した[15]。9月12日にはアイドルからCWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している[16]。ジョージアでの盟友であり、後にテッド・デビアスに代わるPWF世界タッグ王座のパートナーに起用したアイドルとは、テキサス・ブルロープ・マッチやバンクハウス・マッチによる抗争アングルが組まれるなど[15]、後のハードコア・レスリングにも通じるメンフィス・スタイル[17]の喧嘩試合にも対応してみせた。また、ジェシー・ベンチュラとタッグを組み、ローラー&アイドルとの "Grudge Tag Team Match Of The Year" と銘打たれたタッグ対決も行われている[15]。
日本を主戦場としていたためアメリカでは評価は高くないと思われがちだが、関係者やレスラーからは大変尊敬されている。ハンセンと同じくテキサス出身でフットボール選手でもあったジョン・レイフィールドもその一人で、ジャスティン・ブラッドショー時代のカウボーイ・ギミックやラリアットなどハンセンのスタイルに倣ったものが多い。
全日本に移籍してからも前述のAWA王座奪取の他、1980年代半ばまではジョージア地区を本拠地とし、1990年代初頭には親交があったオレイ・アンダーソンの仲介によりWCWへ短期間参戦しレックス・ルガーからUS王座を奪取するなど、アメリカマット界でも活躍していた。しかしそれ以降はアメリカのプロレス事情の変化(WWFとWCWの2大メジャーの寡占化)などもあり、ほぼ全日本参戦に専念することとなった。
なお、AWAには1979年にも、ウエスト・テキサス大学の先輩であるボビー・ダンカンのパートナーとして短期間サーキットしたことがある(当時のAWA世界タッグ王者チームのバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに挑戦し、同年8月15日にカナダのマニトバ州ウィニペグにおいてタイトルを奪取したともされている[18])。また、1984年に行われた全日本主力勢のAWA遠征にも同行し、ヒーナン・ファミリーに加入してニック・ボックウィンクルのパートナーを務めた[19]。
エピソード [編集]

現役時代はテンガロンハットにドクロマークを縫い込んだベストとチャップス、ウエスタンブーツをモチーフにしたリングシューズ、手にはブルロープ(後年はカウベル付のものを使用)というカウボーイスタイルのコスチュームで、入場時には手にしたブルロープで近くの観客を手当たり次第に殴りつけ、「怖いガイジン」のイメージを通し続けたが、右手で牛の角の形を作り(テキサス・ロングホーン)「ウィー!!」という雄叫びで会場人気を集め、ブルロープで殴られることを求めてハンセンに近づくファンもいた。近づきすぎて軽いけがをしてしまうファンもいたが、ハンセンは試合後そのファンを控え室へ呼び、侘びの言葉とともにサインをくれたという逸話もある。テンガロンハットは新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍前や全日本移籍直後の馬場とのシングル戦、1982、1983、1988年の最強タッグ最終戦や現役最後の試合などで観客席に投げ込んだことがある。
ブルロープ所持のアイデアは新日本プロレス時代のタイガー・ジェット・シンのサーベルにヒントを得たとされる。タイガー・ジェット・シンとは、新日本・全日本を合わせ10年以上もツアーを同行したことになる。その間の両者の絡みは多くはなかったが、決して不仲というわけではなく、ハンセンはシンを来日常連レスラーの先輩と見て接していた。大暴れしながら入場するスタイルなど、シンからはヒールとしてのギミックをいろいろ盗み、手本にしたという。
極度の近視のため、リング外では厚いレンズのメガネをかけている。リング上で手当たりしだいに暴れまわっていたのは、目の前がよく見えなかったためだと複数のレスラーが述懐している。ある試合でロープを振り回しながら入場していた所、高齢の女性にロープが直撃してしまった。後にその事へ気付いたハンセンが、小声でひたすら「ソーリー」と謝っていたという。入退場を含め常に動き回る本当の理由は、アメリカ本土において狂人的なファンから銃器や刃物で生命を狙われた経験が元で、自分を守るための苦肉の策だったという。
入場の際乱入したファンへ怒り、それを止めに入った若手選手へ花道でパワーボムを見舞ったこともある。
防戦一方となるシーンを滅多に見せなかった。つまり、攻め込まれてどんなにダメージを負っていても、そのままリングに倒れ込むことなく、必ず立ち上がって反撃した。馬場はこのファイトスタイルを「むちゃくちゃなリズムで読めない」と評しながらも、絶賛していた。本人もブロディと共に「俺達の体格でこれほど動けて、ガス(スタミナ)を持っているレスラーは稀だ」と語っている。
1980年代頃までは、試合後の暴れっぷりも凄まじかった。特に、引き分け裁定や負け試合の時には対戦相手に八つ当たりの乱闘を起こすのが常だった。それは乱闘を止めに入った中堅若手のセコンドにも矛先が向かうのも常道で、それは若手時代の三沢光晴や川田利明にも及ぶことがあった(要領の良かった冬木弘道は受難頻度が一番少なかったといわれる)。セコンドにウエスタン・ラリアットの洗礼を浴びせてグロッギーにしてしまうことも多々あり、受けたセコンドとすればたまったものではない半面、結果的にウエスタン・ラリアット見たさに足を運んだファンを満足させることにもなった。新日本時代には決まってラリアットを受けていた前田日明は、現役時代一番痛かったのはハンセンのラリアットだったと語る(2007年10月4日放送のアメトーーク!にて)。
ジャンボ鶴田は無名時代ともにトレーニングを積み、トミーの愛称で呼ぶほどの親友で、馬場元子夫人が日本から送ったインスタントラーメンを2人で分けて食べたという。また、その味にいたく感激し、送られてきたインスタントラーメンを一人で食べてしまったこともあるらしい。新日本時代に対戦した同期のボブ・バックランドにも同じことが言える。2000年の鶴田の死に際してはショックを隠し切れず、ハンセンが引退したのはその死から間もないことだった。鶴田が引退後にアメリカ在住を考えた際、その相談にも乗ったという。
アメリカマットでの活動を控え全日本を主戦場とするようになってからは、オフのときはアメリカの自宅でコンディションを整え、万全の状態で全日本に上がることだけを考えていたという。ほとんど毎シリーズ、全戦参戦していたというのも特筆すべきことである。また、全日本プロレスとは当初2年契約を交わしていたが、それが切れてからも互いの確かな信頼関係を基に、馬場はファーストクラスの往復航空券を送り、ハンセンもリングに上がり続けた。
全日本では外国人選手のリーダーとしての顔も持っていた。来日間もない頃のジョニー・エースやテリー・ゴディには、日本のプロレスの特徴から居酒屋での食事の仕方まで指導していた。そのためか、箸の使い方が大変上手である。
1983年には、PARCOのCMに起用される。「狩人か、旅人か」というキャッチコピーだったこのCMは好評で、電通作成の「広告景気年表」でも、この年の代表作の一つとして取り上げられている。
1990年4月13日、WWF・新日・全日三団体共催東京ドーム大会のメインでハルク・ホーガンと対決し敗れる(当初、ホーガンの相手はテリー・ゴディが予定されていた)。プライベートでの両者は親友同士で、同年上映されたホーガン主演の映画『ゴールデンボンバー』にはハンセンも出演している。
2000年11月19日、馬場元子社長(当時)からハンセンの引退が発表され、そのまま引退試合は行わなかった。理由は「日本のファンに、強いスタン・ハンセンのイメージを持ってもらったまま引退したかった」という理由で、長年酷使してきたボロボロの肉体を、日本のファンに見せたくなかったからだという。
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スコット・ケーシー

スコット・ケーシー("Cowboy" Scott Casey、1947年3月19日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ダラス出身[1]。
カウボーイ・ギミックの正統派ベビーフェイスとして、アマリロやサンアントニオなど地元のテキサス地区を主戦場に活動した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

学生時代はレスリングで下地を積み、大学卒業後の1972年にプロデビュー[1]。ファンク・ファミリーがプロモートするアマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区にて活動し、1975年5月には全日本プロレスに初来日している。帰国後の10月にはフランク・グーディッシュからウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取、翌1976年4月にもジェリー・ブリスコを破って同王座を獲得した[2]。
1977年からは中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦、マイク・ジョージとコンビを組み、12月にカンザスシティにてクラッシャー・ブラックウェル&バック・ロブレイからNWA世界タッグ王座を奪取している[3]。
1980年代に入るとサンアントニオのSCW(サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング)に定着し、ジノ・ヘルナンデス、ディック・スレーター、ボビー・ジャガーズ、タンク・パットン、キラー・ブルックスらヒール勢と抗争を展開。1983年は8月にアドリアン・アドニスから世界ヘビー級王座を[4]、9月にタリー・ブランチャードからサウスウエスト・ヘビー級王座を奪取した[5]。
1984年4月にはSCWのブッカーでもあったテリー・ファンクのブッキングにより、ボブ・スウィータンと共に旧UWFの旗揚げシリーズに来日、最終戦の蔵前国技館大会ではマッハ隼人と対戦している。翌1985年はフリッツ・フォン・エリックの主宰する故郷ダラスのWCCWに登場、4月にフォートワースにてデニス・コンドリーを破り、TVタイトルを獲得した[6]。
1987年よりWWFと契約し、中堅ベビーフェイスのポジションでミッドカード戦線にて活動。9月21日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに登場し、スティーブ・ロンバルディ(ブルックリン・ブロウラー)を得意技のブルドッグで下しMSGデビュー戦を飾っている[7]。1988年11月24日に開催された『サバイバー・シリーズ』の第2回大会では、ジム・ドゥガン、ジェイク・ロバーツ、ケン・パテラ、ティト・サンタナとのチームで出場、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハーリー・レイス、ディノ・ブラボー、リック・ルード、ミスター・パーフェクトのヒール軍と対戦した[8]。WWFでは活躍の機会に恵まれなかったものの、ベテランのジョバーとして1990年まで単発的に出場を続けた。
セミリタイア後はSCW時代の盟友イワン・プトスキーがヒューストンに開設したプロレスリング・スクールのヘッド・トレーナーを務め、ハーレム・ヒートのスティービー・レイとブッカー・T、アーメッド・ジョンソンらを育てた[9][10]。
近年はネバダ州ラスベガスにてカジノのセキュリティに転身している[11]。
得意技 [編集]

ブルドッグ
エルボー・ドロップ
ショルダー・ブリーカー
獲得タイトル [編集]

NWAウエスタン・ステーツ
NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:2回 [2]
NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:1回(w / レジー・パークス)[12]
NWAセントラルステーツ
NWA世界タッグチーム王座(セントラルステーツ版):1回(w / マイク・ジョージ)[3]
WCCW
NWAテキサス・ヘビー級王座:1回 [13]
WCCW TV王座:1回 [6]
SCW
SCW世界ヘビー級王座:1回 [4]
SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:1回 [5]
脚注 [編集]

^ a b c d e f g 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P73(2002年、日本スポーツ出版社)
^ a b “NWA Western States Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月4日閲覧。
^ a b “NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月4日閲覧。
^ a b “SCW World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月13日閲覧。
^ a b “SCW Southwest Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月4日閲覧。
^ a b “WCCW Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月4日閲覧。
^ “WWE Yearly Results 1987”. The History of WWE. 2010年10月4日閲覧。
^ “WWF Survivor Series 1988 Results”. ProWrestling History.com. 2010年10月4日閲覧。
^ “Booker T: Wrestling's consummate performer”. SLAM! Wrestling: June 18, 2000. 2010年10月4日閲覧。
^ “Ahmed Johnson: Found!”. SLAM! Wrestling: August 29, 2005. 2010年10月4日閲覧。
^ “Wrestler Profiles: Scott Casey”. Online World of Wrestling. 2010年10月4日閲覧。
^ “NWA Western States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月4日閲覧。
^ “NWA Texas Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月4日閲覧。
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ヴォルク・ハン

ヴォルク・ハン(Volk Han、1961年4月16日 - )は、ロシア・ダゲスタン共和国出身の軍人、総合格闘家。ロシアのトゥーラ在住。ヴォルク・ハンはリングネームで、ヴォルクはロシア語で狼の意。本名はマゴメトハン・ガムザトハノフ(Магомет-хан Гамзатханов)。「ロシアの狼」「千のサブミッションを持つ男」「魔術師」などの異名で呼ばれた。
目次 [非表示]
1 来歴
2 ヴォルク・ハン格闘術
3 得意技
4 エピソード
5 戦績
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

ソビエト連邦陸軍に入隊後、同軍の空挺部隊(現ロシア空挺軍)に所属。特殊部隊のコマンドサンボ教官を務める。サンビストとしてはソ連サンボ・チャンピオンとなり通算5回の優勝、またサンボの世界選手権でも2回の優勝という実績を持つ。
リングス旗揚げから間もなく前田日明にスカウトされ、1991年12月7日に行われたリングス第4回大会の前田戦で日本デビュー。自身のバックボーンであるコマンドサンボの流れを汲む卓越したサブミッション技術で、一躍人気選手となる。特に全盛期の独特の間合いから一瞬で技に引き込むスピード、技の精度の高さは稀代のテクニシャンとしての名を不動のものにした。ハンのファイトスタイルと洗練された技術は、現在の格闘技界でも度々比較対象に挙がるなど、後発のグラップラーに与えた影響は少なくない。
また、リングネームから連想された「ロシアの狼」の他、独特の容貌と「まるで手品の様」と評されたサブミッションから「魔術師」の異名をとった。しかし手品そのものも得意であり、「笑っていいとも!」にプロモーションで出演した際には自ら手品を披露している。その他リング外では記者にジョークを言い笑いを誘うなど、試合中の冷徹にも見えるイメージとは異なる一面を見せている。
リングスにおける戦績として代表的なものは、1995年に決勝で前田日明を下したメガバトルトーナメント優勝がある。その後1997年にも決勝で田村潔司と対戦、勝利し優勝を果たした。なお、2001年に行われた第2回KOKトーナメントにおいて、同大会で優勝したアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが判定にもつれ込んだ対戦者はハンのみである。
ロシアで開催されたリングスの大会の打ち上げで、前田に多大なる感謝の念を示したとされ、「私は前田の兵隊だ、彼から行けといわれたら私はどこへでも行く」という言葉を残している。このことから、前田日明がHERO'Sのスーパーバイザーに就任した際、セルゲイ・ハリトーノフなどのロシアン・トップチーム勢がPRIDEのリングを去りHERO'Sに移籍するのではないかと噂されたこともある。事実、2007年9月17日に行われたHERO'Sのミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦のスーパーファイトにハリトーノフが参戦した際には、ハンのチーム(CLUB VOLK HAN)からの出場となっており、ハン自身も来日した。
格闘技以外では、母国での国会議員選挙に立候補するも落選。その後ビジネスにかかわる醜聞等でロシアのマスコミをにぎわせた。
また、リングスのファイトマネーで祖国ダゲスタン共和国にモスクを建設している。
2002年2月以降競技から離れていたが、2004年11月20日のリトアニア・ブシドー協会(リングス・リトアニア)の大会にてまさかの復帰を果たすも、それが引退試合となった。現在は故郷であるダゲスタン共和国の都市、トゥーラで格闘技道場を設立し後進の指導にあたっている。
ヴォルク・ハン格闘術 [編集]

ヴォルク・ハン格闘術とは、自らが培った技術・経験から考案されたハンオリジナルの格闘術。コマンドサンボをベースに、ボクシング、ムエタイ、レスリング、柔道などの技術を取り入れ、より総合格闘技の攻防に特化したスタイルとされる。一般的にセルゲイ・ハリトーノフや、かつての弟子であったエメリヤーエンコ・ヒョードルは、コマンドサンボをそのままバーリトゥードに転用していると思われがちだが、実際にはヴォルク・ハン格闘術から学んだノウハウに基づきコマンドサンボの技術を応用している。また、ヴォルク・ハン格闘術はサンボ着を脱いだ状態、裸体での徒手格闘を想定して構成されている点も特徴である。
同様に多彩な関節技を組み込んだファイトスタイルには、グレイシー柔術をはじめとするブラジリアン柔術がある。しかし、ハンはそれら一派の技術を「私自身が学び、知っている柔道と大きく違うものではない」と評した。これはソビエト連邦時代に伝わった柔道の技術が、その原型である古流柔術の特徴を色濃く受け継いだものであることが大きく影響していると思われる。
得意技 [編集]

「千のサブミッションを持つ男」の異名通り、ハンの繰り出す技は非常に複雑なものが多く、その種類も多いためとてもここで全て列挙することはできない。よってここでは比較的有名な技に絞って紹介する。
クロス・ヒールホールド
アキレス腱固めの体勢から相手の両脚を交差するように固め、肘で絞り上げることによって両脚の関節(具体的には交差させる際に上になる脚はアキレス腱、下になる脚は膝)を極める。技に入るプロセスは仰向け寝の相手に仕掛ける他、飛び付き式やビクトル投げからのスイッチなど多岐多様に存在する。
ヴォルク・ハンの代名詞ともいえる複合関節技。来日初戦で前田日明をこの技でギブアップ寸前まで追い込んだシーンは、コマンドサンボの奥深さを知らしめた。
首極め腕卍
相手の両腕をロックした状態で首を締め上げる変形のフロントスリーパー。
ビクトル式膝十字固め
河津掛けに似た体勢から相手の首・肩などを巻き込みつつ前転し、膝十字固めに捕らえる。現在はプロレスでも使用する選手が増えているが、元々はサンボを源流とする技である。
飛び付き式腕ひしぎ十字固め
相手の腕と首に手をかけた状態から、巻き付くように飛び付き腕ひしぎ十字固めを極める。さらにハンの場合、カニバサミから移行するなど様々なバリエーションを持つ。
スタンディング・アームロック
立った状態で極める脇固め。ハンはこの技を極めるスピードが非常に速く、「どの体勢からでも(関節技を)極める」といわれた由縁でもある。さらにハンはこの体勢から腕を極めつつ後方にスープレックスで反り投げるという、非常に危険な隠し技を持っていた。
足取り腕ひしぎ十字固め
足を同時に挟み込んでの腕ひしぎ十字固め。
首極め膝十字固め
相手の頭を股に挟み込み、そのまま相手を前屈で折りたたむように膝十字固めを極める。
フィッシュ・ストレッチ・スリーパー(足絡み裸絞め)
うつ伏せになっている相手の膝を自らの両脚でロックし、同時に相手の首をスリーパーホールドで絞め上げつつ反転する。プロレス技として有名なSTFに似るが、全く違う技である。自らもハンと対戦した経験を持つ前田日明は「局部的に極める技ではなく、相手の体の自由(スタミナ)を奪う技」と解説している。なおこの技の初公開時は「足絡みフェイスロック」という名でコールされた。
裏拳(バックハンド・ブロー)
自ら回転しつつ、手の甲の部分を相手の顔面や胸板に打ち付ける打撃技。ハンといえば関節技というイメージが強いが、時折隠し技として使用していた。ちなみにハンの使用する裏拳はステップインしながら放つ独特のモーションが特徴である。
エピソード [編集]

ハンは来日当初から特別筋肉質の体つきではなく、格闘家として体格が良いタイプではないとされることが多い。しかし、自らスカウトし来日初戦の相手も務めた前田日明は「実際に近くで見るとデカいですよ。特に手が大きくて驚いた」とインタビューの一節で語っている。
前田が旧ソ連で行われたサンボの大会を視察に出向いた際、見たことも無い関節技を次々と決める選手がいた。それが後のヴォルク・ハン本人である。しかし実際は事前に前田が会場に来ることを耳にしていたハンが、とにかく目立って声をかけてもらおうと普段は使わない大技を見せてのアピールだった。
風貌やリング上での振る舞いから冷徹なイメージがあるが、ファンに対しては非常に優しく丁寧に接することで有名。
2001年のKOKトーナメントでアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦した際、ハンは完全に極まったかのようにも見えた膝十字固めから脱出し喝采を浴びた。これについてノゲイラは試合後「完璧に極まっていた。あの状態でギブアップしないなんて考えられない」とコメント。一方ハンは「全然効いていなかった。彼は気付いていなかったようだけど、私はちゃんと防御していたからね」と語っており、後のインタビューにおいて記者に実際に膝十字固めの防御法を説明した。
なお、上記のトーナメントの後日催されたパーティーで、ノゲイラは色紙を持参しハンからサインを貰っている。
上記の対戦に於いて判定負けを喫したハンは、当時25歳だったノゲイラの実力を絶賛した。その際、「ブラジルの若き虎よ。近い将来、君の時代が必ず来るだろう」との言葉を残したが、「しかし覚えておけ。いつか狼の末裔が君を必ず倒す」とも付け加えている。ハンの予言通りノゲイラはトップ選手として大活躍し、PRIDEヘビー級王者の座へと上り詰めた。しかしその後ノゲイラは、ハンの弟子であるエメリヤーエンコ・ヒョードルに敗北し王座から転落。ハンの予言は見事現実のものとなった。
格闘技番組『リングの魂』で「リングスのイメージガールを決めよう」という企画が行われた。その際、司会者の南原清隆が練習後と思われるハンと接触。イメージガール候補の女性たちに挨拶させ「どうでしょうか?」と尋ねたところ、普段のハンからは想像もつかない満面の笑みで「オーチン・ハラショー(とても素晴らしいね)」と答えた。寡黙なイメージを売りにしているハンとしては、非常に貴重な映像である。
コマンドサンボを世に広く知らしめた実績と、独特の風貌から多くの架空のサンビストのモデルになっている。代表例としては漫画『高校鉄拳伝タフ』の鬼川平蔵、ゲーム『バトルクロード』のウルフ教官など。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
54 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
40 勝 0 39 1 0 0 0
14 敗 4 8 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ アンドレイ・コピィロフ 6:15 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD TITLE SERIES Grand Final 2002年2月15日
○ アンドレイ・コピィロフ 延長R終了 判定 リングス・ロシア RUSSIA vs BULGARIA 2001年4月6日
× アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ 5分2R終了 判定0-3 RINGS KING OF KINGS 2000 GRAND FINAL
【準々決勝】 2001年2月24日
○ ブランドン・リー・ヒンクル 1R 8:11 腕ひしぎ十字固め リングス MILLENNIUM COMBINE II 2000年6月15日
× グロム・ザザ 30分終了 ポイント判定 リングス RISE 4th 1999年6月24日
○ 成瀬昌由 1R 7:46 腕ひしぎ十字固め リングス RISE 3rd 1999年5月22日
○ ニコライ・ズーエフ 6:49 足絡みフェイスロック リングス 前田日明 引退試合 The Final 1999年2月21日
○ 金原弘光 13:22 アキレス腱固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1998
第1回国別対抗戦FNRカップ GRAND-FINAL 1999年1月23日
○ 山本喧一 8:24 逆片エビ固め リングス CAPTURED AKIRA MAEDA LAST MATCH 1998年7月20日
○ 田村潔司 10:32 リバースアームロック リングス MAELSTROM 7th 1996年9月25日
○ ハンス・ナイマン 4:39 膝十字固め リングス MAELSTROM 3rd RUSSIAN BATTLE MISSION 1996年5月25日
× ニコライ・ズーエフ 13:06 脇固め リングス MAELSTROM 2nd 1996年4月26日
○ ディック・フライ 6:36 腕ひしぎ逆十字固め リングス MAELSTROM 1st 1996年3月25日
× ハンス・ナイマン 6:49 TKO リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT1995 GRAND FINAL 1996年1月24日
× 山本宜久 10:17 腕ひしぎ逆十字固め リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT1995 SEMI FINAL 1995年12月19日
○ アンドレイ・コピィロフ 12:37 膝十字固め リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT1995 2nd.Round 1995年11月16日
○ ピーター・ウラ 4:14 腕ひしぎ逆十字固め リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT1995 1st.Round 1995年10月21日
× 前田日明 9:41 腕ひしぎ逆十字固め リングス RISING SERIES NAGATSUKI 1995年9月22日
× ビターゼ・タリエル 8:26 KO リングス RISING SERIES HAZUKI 1995年8月27日
○ トニー・ホーム 6:36 アキレス腱固め リングス RISING SERIES FUMIZUKI 1995年7月18日
○ 山本宜久 15:15 腕ひしぎ逆十字固め リングス RISING SERIES MINAZUKI ジャパンVSロシア 5対5対抗戦 1995年6月17日
○ 成瀬昌由 12:11 変形フェイスロック リングス RISING SERIES UZUKI クリス・ドールマン スペシャル 1995年4月28日
○ ニコライ・ズーエフ 13:37 足絡み腕ひしぎ逆十字固め リングス RISING SERIES YAYOI 1995年3月18日
○ 前田日明 14:19 膝固め リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 TOURNAMENT GRAND FINAL 1995年1月25日
○ 長井満也 15:15 フルネルソン リングス BATTLE SHOT at NIIGATA Vol2 1994年12月24日
○ ハンス・ナイマン 6:21 アキレス腱固め リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 TOURNAMENT SEMI FINAL 1994年12月16日
○ ウィリー・ウィリアムス 3:14 アキレス腱固め リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 TOURNAMENT 3rd Round 1994年11月19日
× アンドレイ・コピィロフ 10:05 アームロック リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 TOURNAMENT 2nd Round 1994年10月22日
○ ソテル・ゴチェフ 11:59 腕固め リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 RINGS IN RUSSIA 1994年8月27日
○ ガルダバ・ゲオルギ 11:35 リバースフルネルソン リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 RINGS IN YOKOHAMA 1994年8月20日
○ ハンス・ナイマン 6:50 腕ひしぎ逆十字固め リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 RINGS IN OSAKA 1994年7月14日
× 前田日明 18:06 レッグロック リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 RINGS IN ARIAKE 1994年6月18日
○ 長井満也 9:03 裸絞め リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 RINGS IN SENDAI 1994年5月17日
○ ビターゼ・タリエル 8:27 アキレス腱固め リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 RINGS IN HIROSHIMA 1994年4月23日
○ ゲオルギー・カンダラッキー 3R 1:08 フロントネックロック リングス FIGHTING NETWORK RINGS1994 RINGS IN YOKOHAMA 1994年3月19日
○ 山本宜久 10:52 アームロック リングス BATTLE DIMENSION TOURNAMENT'93 Grand Final 1994年1月21日
○ オルロフ・パベル 12:03 腕ひしぎ逆十字固め リングス BATTLE DIMENSION TOURNAMENT'93 Semi Final 1993年12月8日
× ニコライ・ズーエフ 11:31 アームロック リングス BATTLE DIMENSION TOURNAMENT'93 2nd. Round 1993年11月18日
○ 成瀬昌由 8:08 腕ひしぎ逆十字固め リングス BATTLE DIMENSION TOURNAMENT'93 1st. Round 1993年10月23日
○ クリス・ドールマン 6:20 裏十字固め リングス BATTLE DIMENSION'93 格闘新次元 TOKYO BAY AREA CIRCUIT #3
前田日明デビュー15周年記念大会 1993年8月21日
× ディック・フライ 9:09 TKO リングス BATTLE DIMENSION'93 格闘新次元 OSAKA METROPOLITAN CIRCUIT #2 1993年7月13日
○ ウィリー・ウィリアムス 11:46 アキレス腱固め リングス BATTLE DIMENSION'93 格闘新次元 TOKYO BAY AREA CIRCUIT #2 1993年5月29日
○ 長井満也 16:05 アームロック リングス BATTLE DIMENSION'93 格闘新次元 TOKYO BAY AREA CIRCUIT #1 1993年4月24日
○ アンドレイ・コピィロフ 8:30 アキレス腱固め リングス BATTLE DIMENSION'93 格闘新次元 OSAKA METROPOLITAN CIRCUIT #1 1993年3月5日
○ アンドレ・トゥルマニーゼ 12:38 レッグロック リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT '92 Grand Final 1993年1月23日
○ ソテル・ゴチェフ 14:25 変形腕固め リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT '92 Semi Final Best4 1992年12月19日
× 前田日明 23:27 TKO リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT '92 1st round【1回戦】 1992年10月29日
○ ディック・フライ 10:35 レッグロック リングス MEGA BATTLE SPECIAL「礎ISHIZUE」 1992年8月21日
× アンドレイ・コピィロフ 17:05 レッグロック リングス MEGA-BATTLE 6th「颯HAYATE」 1992年7月16日
○ ヘルマン・レンティング 9:18 ヒールホールド リングス MEGA-BATTLE 5th「獅子吼SHI SHI KU」 1992年6月25日
○ グロム・ザザ 5:16 膝固め リングス MEGA-BATTLE 4th「光臨KOHRIN」 1992年5月16日
○ 前田日明 17:28 膝固め リングス MEGA-BATTLE 3rd「雷IKAZUCHI」 1992年4月3日
○ ゲナジー・ギガント 12:37 アームロック リングス MEGA-BATTLE 2nd「息・吹IBUKI」 1992年3月5日
× 前田日明 12:14 足固め リングス ASTRAL STEP FINAL「BLAZE UP炎上」 1991年12月7日
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
投稿者 格闘技の王子様 22:53 | コメント(0)| トラックバック(0)

ヴィトー・ログラッソ

ヴィトー・ログラッソ(Vito LoGrasso、1969年6月18日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州ニューヨークシティ・ブルックリン出身。
ヴィトー(Vito)またはビッグ・ヴィトー(Big Vito)などのリングネームで知られ、WCWやWWEで活動した。イタリア系アメリカ人であり、自身のギミックでもそれを強くアピールしている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 リングネーム
3 得意技
4 獲得タイトル
5 外部リンク
来歴 [編集]

ジョニー・ロッズ・レスリングクラブで2年間学んだ後、1990年、NCWでデビュー。当初はスカル・フォン・クラッシュ(Skull Von Krush)なるネオナチ・ギミックのキャラクターで、1992年10月にNOWに初来日。1998年1月には全日本プロレスにも来日している。その後はインディー団体やECWを経て1999年よりWCWに所属。WCWではジョニー・ザ・ブルと共にイタリア系であることを前面に押し出したユニット、ママルークス(The Mamalukes)を結成していた。
2004年にはTNAに参戦し、2005年にWWEと契約。契約後は下部団体のOVWを経て、同年6月よりダークマッチに登場。8月からスマックダウン所属となり、ナンジオとチームを結成する。両者ともイタリア系であることから、F.B.I.(フル・ブラッデッド・イタリアンズ)の再結成とも位置づけられた。
2006年には、「ヴィトーは実はオカマなのでは」というストーリーが展開されるようになる。パートナーのナンジオは否定していたが、ヴィトーは事実であることをカミングアウトし、ナンジオとタッグを解消。ワンピース(番組中ではドレスと表記)の出で立ちで試合をするようになり、清算マッチでナンジオを撃沈した。2007年5月にWWEを解雇される。
2010年3月にプロレス・エキスポのネパール大会に参戦。同じくジョニー・ロッズの弟子であるヒマラヤン・タイガーと一騎打ちを行うが、凶器攻撃により観衆がエキサイトし暴動が発生。決着戦を1週間後に行うも敗れた。
リングネーム [編集]

ログラッソが用いたリングネーム
The Skull
Skull Von Krush
Vito "The Skull" Lograsso
Big Vito
Vito
Big Vito "The Skull"
得意技 [編集]

コード・オブ・サイレンス(バタフライDDT)
サドン・インパクト
マフィア・キック
また、技ではないが相手の顔をスカートにうずめるという行動も取る。
獲得タイトル [編集]

WCW
WCWハードコア王座 : 1回
WCW世界タッグ王座 : 2回(w / ジョニー・ザ・ブル)
OVW
OVW南部タッグ王座 : 1回(w / グイドー)
投稿者 格闘技の王子様 22:52 | コメント(0)| トラックバック(0)

ネルソン・フレイジャー・ジュニア

ネルソン・フレイジャー・ジュニア(Nelson Frazier, Jr. 、1972年2月14日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テネシー州メンフィス出身のアフリカ系アメリカ人。WWEではメイブル(Mabel)、ヴィセラ(Viscera)、ビッグ・ダディV(Big Daddy V)のリングネームで活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 入場曲
5 逸話
6 脚注
7 外部リンク
来歴 [編集]

1991年、ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが主宰していた地元メンフィスのUSWAでデビュー。ロバート・ホーンとの黒人タッグチーム、ハーレム・ナイツ(Harlem Knights)で活躍後、1993年よりホーンと共にWWF(現・WWE)と契約。ホーンはモー、自身はメイブルと名乗り、ラップ担当のオスカーをマネージャーに加えたヒップホップ系ユニット、メン・オン・ナ・ミッション(Men on a Mission / 略称はメイブル、オスカー、モーの3人のイニシャルでもあるMOM)を結成[1]。リング上でラップを踊るベビーフェイス軍団として子供たちの人気を集め、1994年3月29日にはジャックとピエールのケベッカーズを破りWWE世界タッグ王座を獲得した[2]。
1995年にモーと共にヒールに転向し、6月25日のキング・オブ・ザ・リング優勝を機にキング・メイブルと改名。8月27日のサマースラムではディーゼルのWWF世界ヘビー級王座に挑戦するなどトップ・ヒールとして活躍した[3]。
1996年のWWF離脱後はプエルトリコのWWCやMCWなどで活動。WWCではカルロス・コロンを下しユニバーサル・ヘビー級王者となるが、アブドーラ・ザ・ブッチャーに敗れて王座から陥落した[4]。
1999年にWWFと再契約し、ヴィセラのリングネームでジ・アンダーテイカー率いる暗黒軍団ミニストリー・オブ・ダークネスのメンバーとなる。2000年4月2日にはタズからハードコア王座を奪取するも、リキシ戦での怪我で同月に解雇され、その後はTNAなどを転戦した。
2004年よりWWEに復帰し、同時期に再契約を交わしたギャングレルと共に、9月16日のスマックダウンに登場。当時のWWE王者JBLを攻撃するミニストリー時代の主君、アンダーテイカーを急襲した。しかしこのアングルは長続きせず、ヴィセラはロウに移籍した後ベビーフェイスに転向し、しばらくはミッドカードを中心に戦う。その後、ナイトガウンとパジャマに身を包み、女性を惹きつける「ラブマシーン」ギミックのキャラクターに変身。リング・アナウンサーのリリアン・ガルシアとの恋愛ストーリーが組まれる。最初は嫌がっていたリリアンも、最終的にはリング上でキスを交わすほどの仲にまで発展。しかし、ザ・ゴッドファーザーが連れてきたHoにヴィセラが惚れてしまい、恋愛ストーリーは終結を迎えた。
2006年には、バル・ビーナスとタッグを組み、入場テーマもその容姿とはミスマッチな曲に変更。たまたまチャーリー・ハースが、入場シーンでリリアン・ガルシアにぶつかり怪我を負わせてしまったことにより(この事故自体は偶然の産物である)、過去の恋愛関係を引きずっていたヴィセラが抗争相手に抜擢されたが、2人そろってリリアンに振られる形で抗争を終える。


ビッグ・ダディV
2007年にECWへ移籍し、ヒールターンしてビッグ・ダディVのリングネームで活動。かつてのワンマン・ギャングやバンバン・ビガロなど、肥満体の重量級選手は見栄えの悪いボディを隠すためにTシャツなどのコスチュームを身に纏ったまま試合をする場合が多く、メイブルやヴィセラも同様だったが、ビッグ・ダディVはその肥大化した上半身を曝け出し、超巨漢ヒールの迫力を醸成。同年12月16日のアルマゲドンではスマックダウン所属のマーク・ヘンリーと「0.5tタッグ」を組み、CMパンク&ケインを撃破、圧倒的な存在感を見せつけた。
2008年2月17日のノー・ウェイ・アウトでは、レッスルマニアでの世界ヘビー級王座挑戦権をかけたエリミネーション・チェンバー・マッチに出場するなど活躍をするものの、ウェイトダウンのための欠場後、復帰をしないまま同年8月にWWEを解雇された。その後はキングV(King V)をリングネームにインディー団体のNWAに参戦、リトル・グイドーやボールズ・マホーニーとユニットを結成した。
2010年、全日本プロレスに来日し、ビッグ・ダディ・ブードゥーの名でVOODOO-MURDERSに加入。TARUとのタッグで曙&浜亮太からアジアタッグ王座を奪取した。
得意技 [編集]

ビッグ・スプラッシュ
ゲットー・ドロップ
ランニング・エルボー・ドロップ
ヴィセラドライバー / SEXドライバー
シットダウン式ネック・ハンギング・ボム。いわゆるボルドー・ボム。
ヴィスアグラ
ラブマシーン・ギミック時代に使用。性行為を連想させるいやらしいモーションと共にうつ伏せの相手に覆いかぶさる。相手にとって凄まじく屈辱的な技。名前はヴィセラのニックネーム「ビッグ・ヴィス」とバイアグラから。
スピニング・ヒールキック
ミニストリー加入時代に多用していた。巨体が故に圧巻の破壊力がある。同じく巨漢であるウマガなどもこれを使用する。
獲得タイトル [編集]

WWE
キング・オブ・ザ・リング : 1995年覇者
WWF世界タッグ王座 : 1回(w / モー)
WWFハードコア王座 : 1回
その他
USWAヘビー級王座 : 1回
XWFヘビー級王座 : 1回
WWCユニバーサル・ヘビー級王座 : 1回
PWFタッグ王座 : 2回(w / ボビー・ナイト)
etc.
入場曲 [編集]

World's Largest Love Machine(ヴィセラ時代に使用)
逸話 [編集]

ラブマシーンギミック時にWWEから発売されたTシャツには、"XXXL Lover"(恋する巨漢)、"Size matters!"(デカさは重要!)と書かれていた。
投稿者 格闘技の王子様 22:52 | コメント(0)| トラックバック(0)

都宮ちい

都宮ちい(とみや ちい、1991年4月25日 - )は、日本の女子プロレスラー。アイスリボン所属。
身長142cm、体重45kg、血液型O型。栃木県宇都宮市出身。
身長142cmは、業界最小。
目次 [非表示]
1 経歴・戦歴
2 タイトル歴
3 人物
4 得意技
5 入場テーマ曲
6 映画
経歴・戦歴 [編集]

2008年
9月11日、上京。さくらえみの家に転がりこむ。アイスリボンを選んだ理由は、「実話ナックルズ」に掲載された、真琴のインタビューを見て知った初めてのプロレス団体。
10月18日、新木場1stRING大会、対植田ゆう希戦でデビュー。
2009年
1月18日、対田村欣子&植田ゆう希、戦で初勝利(パートナーは、牧場みのり)。なお、この試合は、植田ゆう希にとってのラストマッチであった。
3月22日、タニー・マウスを奇襲し、アイアンマンヘビーメタル級王座を奪取。第774代王者となり、自身初タイトルを獲得。
10月23日、さくらえみの持つICE×60王座に初挑戦。善戦するもおよばず。試合後に、「もっと練習して強くなる」と号泣。
11月14日、りほとタッグチーム「ミニチュアダックス」を結成。
2010年
1月4日、試合前にエキシビジョンとして、冬期合宿に参加した二人の小学生の対戦相手を務める。
1月13日、対さくらえみ。試合中にコーナーポストに上った対戦相手を肩車し、対角線コーナーまで運ぶ。本人に言わせれば、「大いなる成長」「さくらさんを背負ってアイスリボンを盛り上げる」。
1月23日、りほと松本都の抗争に巻き込まれ、団体初のハードコアマッチを行う(ハードコアリボン、vs高橋奈苗&松本都)。
5月3日、アイスリボン後楽園大会(ゴールデンリボン)において、市来貴代子(フリー)・星ハム子組と対戦(パートナーは高梨マサ子)。市来の壮絶な顔面蹴りに対し、真っ向から反撃するも、最後は市来のニードロップに敗れる。
7月19日、板橋グリーンホール大会、コマンド・ボリショイと組み、葛西純&松本都の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦したが、敗戦し、王座獲得に失敗。
この試合の前哨戦では、特殊ルールながら葛西からピンフォールを奪っている。
8月7日、板橋大会、パートナーを木高イサミに変更しタッグ王座に再挑戦し勝利。第11代王座となる。
9月23日、後楽園ホール大会、GENTARO・市井舞組とタッグ王座防衛戦を戦うが敗戦し、防衛に失敗。
10月30日、アイスリボン道場マッチにてコマンド・ボリショイの持つICE×60王座に挑戦するも敗退。
タイトル歴 [編集]

アイアンマンヘビーメタル級王座(第774代)
インターナショナル・リボンタッグ王座(第11代・パートナーは木高イサミ)
人物 [編集]

憧れの選手は、倉垣翼、タニー・マウス、田村欣子、コマンド・ボリショイら多数おり、かまってくれるレスラーは、全て憧れるようだ。
リングネームの由来は、宇都宮から来た小さい子。
真琴と同様、アキバ系文化に精通し、コスプレ(「To Heart」など)・コミケ通い・東方Projectやウサビッチの関連グッズ集めが趣味。イラストも得意とし、テレ玉「レッスルアリーナ」でのオープニングのイラストも担当。更にはみなみ飛香が「チルノのパーフェクトさんすう教室」のダンス(踊ってみた)にハマり出したのをいい事に、飛香・市井舞らを巻き込み、「踊ってみた部」なるサークルまで作ってしまっている(部長は飛香で、都宮は副部長)。
JWPやNEOの首都圏大会でのアイスリボングッズ販売も担当しており、試合に出ていなくてもほぼ必ず出没する(仮にJWPと大日本が被った場合でも、JWPに必ずいる(大日本首都圏大会では数人のアイスリボン選手がチラシ配りに出没する))。
別ブランド「19時女子プロレス」の放送で、さくらえみやGENTAROから「腹黒い」と指摘され、裏表の激しい毒舌キャラとなる。試合でも愛想笑いや泣き真似からの騙し撃ちなどが増え、2010年9月18日のアイスリボン道場マッチ(3WAY戦)では対戦相手の1人である葛西純を試合中に1万円で買収した(最後はその1万円をレフェリーの松永智充が横取りし、悪徳レフェリーと化している)。
得意技 [編集]

低空ドロップキック
ミサイルキック
ウラカンラナ
当初は、藤本つかさが使っていた技だったため、さくらえみから使用を禁じられている。それでも使い続け、藤本つかさが使わなくなったこともあり、フィニッシュホールドとして定着。2009年10月17日、その藤本つかさにこの技で勝利している。
カサドーラ
フットスタンプ
コーナーからのダイビング式も使用するが、ダウンした相手にロープワークを利用して連続した攻撃をすることが多い。
相手の耳元で絶叫
コーナー等の至近距離での攻防で使用する。鼓膜は鍛えられない為、ある意味「凶器」とも呼べる。ハードコアリボンでは凶器として持ち込んだ拡声器を使用した。
下腹部殴打
ダウンした相手の下腹部へのパンチ連打。特に男子選手に対して多用する。
腕ひしぎ十字固め
ちいちきん(変形グランド卍固め)
四つんばいの相手の右腕を自分の股の間をとおしてから左足でロックしたまま前転して、相手の首を右足で固め、さらに相手の左腕をアームロックで絞る。
脇固め
キドクラッチ
相手選手が脇固めから逃れようと、前転した所を丸め込む。
ジャングルクラッチ
CHANGOとの練習中に学んだ技だが、初公開時にはあくまでオリジナルの「ちいちゃんクラッチだぉ」と主張。その後、パートナーの木高 イサミが改めてジャングルクラッチと命名した。
金銭買収行為
入場テーマ曲 [編集]

「チキチキバンバン」
「もってけ!セーラーふく」アニメ「らき☆すた」オープニング。真琴とのアキバ系コンビで登場するとき限定。
映画 [編集]

平成トンパチ野郎男はツラだよ(2009年)(マジカル/グラッソ)
投稿者 格闘技の王子様 00:24 | コメント(0)| トラックバック(0)

聖菜

聖菜(せいな、1994年5月23日 - )は、日本の女子プロレスラー。
身長163cm、体重49kg、血液型B型。東京都品川区出身。アイスリボン所属。
実妹のりほもアイスリボンに所属している。
目次 [非表示]
1 所属
2 経歴・戦歴
3 得意技
4 タイトル歴
5 メディア出演
所属 [編集]

我闘姑娘(2006年 - 2007年)
アイスリボン(2007年3月1日 - )
経歴・戦歴 [編集]

2006年
6月4日、我闘姑娘、東京・新木場1stRING大会、対ひかり(みなみ飛香)戦でデビュー。この試合では、アイアンマンヘビーメタル級選手権試合となった。
9月24日、東京・新木場1stRINGにおいて、石井美紀と対戦。フェイスロックで敗れる。
2007年
3月1日、同日付でアイスリボンへ移籍。
2008年
11月15日、新木場1stRING大会並びに12月23日北沢タウンホール大会でのICE×60王座初代王者決定トーナメントに出場し優勝、自身初タイトルを獲得。その席で、初防衛戦の相手に市来貴代子を指名し、承諾された。
2009年
1月18日、北沢タウンホール大会、12月大会での指名受諾を受けてのICE×60選手権試合で初防衛に失敗。市来貴代子に王座を奪われた。
9月23日、板橋グリーンホール大会、高校受験の為、この大会をもって一時休業となる。
2010年
3月6日、高校受験合格と共に、復帰をアナウンス。但し現在も具体的な復帰スケジュールは未定のままである。
得意技 [編集]

フロント・ネックロック
スイングDDT(壁やリングロープを利用することもある)
ダイビングフットスタンプ(市来貴代子を意識して使用)
スープレックスはるか(改良型フィッシャーマンズ・スープレックス・ホールド 松尾永遠から名を取った)
タイトル歴 [編集]

ICE×60王座(2008年12月23日獲得)
メディア出演 [編集]

手紙バラエティ 三丁目のポスト(2007年10月22日(10月7日市ヶ谷大会) テレビ東京系列)
筋肉美女-Muscle Venus(2008年4月-6月、テレビ埼玉)
投稿者 格闘技の王子様 00:23 | コメント(0)| トラックバック(0)

しもうま和美

しもうま 和美 (しもうま かずみ、1977年10月29日 - )は、日本の元女子プロレスラー。東京都世田谷出身。身長156cm、体重64kg、血液型O型。
アイスリボンに所属していた。元インターナショナル・リボンタッグ王座選手権者。
目次 [非表示]
1 所属
2 経歴・戦歴
3 人物
4 得意技
5 タイトル歴
6 入場テーマ曲
7 外部リンク
所属 [編集]

アイスリボン(2007年 - 2010年)
経歴・戦歴 [編集]

2007年
11月23日 東京・市ヶ谷アイスボックスにおいて、対安藤あいか戦でデビュー。
2008年
結婚
2010年
2月20日 アイスリボン大阪ミナミムーヴオンアリーナ大会にて高橋奈苗をパートナーに迎え、インターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦し勝利。初タイトルを獲得。
7月19日 アイスリボン板橋グリーンホール大会にて高橋菜苗のもつトライアングルリボン王座に挑戦(もう一人は真琴)。真琴を変形4の字ジャックナイフで破り、王座獲得。
8月7日 アイスリボン板橋グリーンホール大会終了後、同年12月26日後楽園ホール大会をもって引退することを発表。
12月26日 引退試合としてパッション・レッドで6人タッグ。帯広さやかに見たこともない丸め込みで敗れ引退。
人物 [編集]

レスラーになるきっかけは、2007年、現在の夫に連れられ市ヶ谷で試合を見た事から。
普段は三軒茶屋の福祉施設で働いている為、試合や練習は土日祝日に限定されてしまう。その為、活動期間をあえて3年に限定していた事を、引退発表時に明かしている。
その一方、アイスリボンでは2008年以降、その福祉施設で年1回大会を開催しており、彼女はその大会のプロデューサーを務める。
また、団体のハロウィンパーティーなどのイベントでは、幹事を務める。明るく豪快なキャラで、団体のムードメーカー的存在の一人。
2010年に入り、水波綾(センダイガールズ)の持つJWP認定ジュニア王座&POP王座への挑戦を表明。アイスリボンのバレンタイン企画では、チョコレートを水波に渡し、挑戦をアピールしている。このアピールが実り同年4月17日板橋大会で同王座に挑戦しているが、敗れている。
得意技 [編集]

ハーフスラムバスター
相手を抱え上げ叩きつける技。
裏ハーフスラムバスター
相手を背中に抱え叩きつける技。
女の執念
走ってきた相手を背中で固め押さえ込む技。
エルボードロップ
二階からの和美
コーナー上で奇声を上げて気合を入れ、そのまま覆いかぶさるように放つダイビング・ボディプレス。
タイトル歴 [編集]

第9代インターナショナル・リボンタッグ王座(パートナーは高橋奈苗)
第4代トライアングルリボン王座
入場テーマ曲 [編集]

オリジナル曲
投稿者 格闘技の王子様 00:23 | コメント(0)| トラックバック(0)

志田光

志田 光(しだ ひかる、1988年6月11日 - )は、日本の女優、プロレスラー。神奈川県出身。プロレスラーとしてはアイスリボンに所属。
目次 [非表示]
1 経歴・戦歴
2 出演
2.1 テレビ
2.2 インターネット
2.3 映画
3 タイトル歴
4 得意技
5 入場曲
6 外部リンク
経歴・戦歴 [編集]

2008年、映画「スリーカウント」(監督:窪田将治)のオーディションに合格。
同映画出演のため、プロレスラーとしてデビューすることになり、プロレス団体アイスリボンの練習に参加し、さくらえみの指導を受ける。
同年8月23日の新木場1stRING大会、vs星ハム子戦でデビュー。
柔道(9年)と剣道(7年)の経験を生かし、映画では主役の座を獲得。プロレスでは、藤本つかさとのコンビで活躍。
2009年9月13日のJEWELS 5th RINGでグラップリングルールの試合に出場するも、浜崎朱加に1R38秒アームロックで一本負け。
2010年10月20日、アイスリボンイサミレッスル武闘館大会にて藤本つかさと組み、さくらえみ・高橋奈苗の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に初挑戦。熱戦を展開するが敗退。
2010年11月13日、アイスリボンイサミレッスル武闘館大会にてりほと組み、さくら・高橋の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦するも敗退。
2010年11月23日、アイスリボンイサミレッスル武闘館大会にて松本都と組み、さくら・高橋の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦するも敗退。
2010年12月11日、アイスリボンイサミレッスル武闘館大会にて田村欣子と組み、さくら、高橋の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦し、20分時間切れ引き分け。タイトル奪取は逃すも、規定により王者組からのベルト剥奪に成功する。
2010年12月23日、アイスリボンイサミレッスル武闘館大会にて藤本つかさと組み、みなみ飛香・つくし組、さくら・高橋組を下してインターナショナル・リボンタッグ王者決定トーナメントに優勝。第14代王者となる。
2010年12月26日、アイスリボン後楽園ホール大会にて田村欣子の持つNWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル王座に挑戦。健闘するも敗退。
出演 [編集]

テレビ [編集]
マッスルビーナス(テレビ埼玉)
インターネット [編集]
それ行けテンポザン! (2008年6月15日-9月21日、あっ!とおどろく放送局)NNTG(3代目テンポザンガール)
映画 [編集]
スリーカウント(千葉まひる役)
ロボゲイシャ
平成トンパチ野郎男はツラだよ(2009年)(マジカル/グラッソ)
タイトル歴 [編集]

第14代インターナショナル・リボンタッグ王座(パートナーは藤本つかさ)
得意技 [編集]

ドロップキック
ニーリフト
スリーカウント(相手顔面へのランニングニー)
ココナッツフラッシュ(相手の膝に飛び乗ってのココナッツクラッシュ)
払い腰
腕ひしぎ十字固め
カナディアン・バックブリーカー
ブレーンバスター
ファルコンアロー
シダックスA(エース)(変形エビ固め)
シダックスQ(クイーン)(横回転式のシダックスA)
入場曲 [編集]

光、飛翔
Rock Show(ポール・マッカートニー&ウイングス)
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さくらえみ

さくら えみ(本名:元川 恵美(もとかわ えみ)、1976年10月4日 - )は、日本の女子プロレスラー。千葉県君津市出身。有限会社ネオプラス・アイスリボン事業部選手代表。
目次 [非表示]
1 所属
2 経歴・戦歴
3 人物
4 得意技
5 タイトル歴
6 入場テーマ曲
7 映画
8 脚注
9 外部リンク
所属 [編集]

IWAジャパン(1994年 - 1999年)
FMW(1999年 - 2002年)
フリーランス(2002年 - 2003年)
我闘姑娘(2003年 - 2006年)
アイスリボン(2006年11月4日 - )
経歴・戦歴 [編集]

1995年
8月17日、IWA・JAPAN富山県高岡テクノドームでの対市来貴代子戦でデビュー。当時の所属はIWA・JAPAN。好ファイトでカルトヒロインと呼ばれる。ただし、デビュー当時は、対戦相手はほとんど市来で、その上、二人に『女子プロレス』を教えるコーチが存在しなかったため、あまり巧い試合内容ではなかった。
1996年
6月4日に市来から初勝利を挙げる。その後市来の退団に伴い、後輩の門田幸子や西堀幸恵と対戦するようになる。
1997年
全日本女子プロレスの経営難に端を発した選手の大量離脱に伴う選手数不足により、西堀と共に助っ人としてIWA・JAPANに所属したまま全女の興行に帯同する。このことにより、試合数が大幅に増え、又それまで対戦したことのなかったトップクラスの選手達と対戦したり、タッグを組むことにより、試合運び等を学ぶ機会を得たことで、レベルアップするきっかけを掴む。
1999年
3月、IWA・JAPANを退団。
4月、フリーで活動。
6月、FMWに入団。入団当初は、減っていたとは言えまだ女子選手が数人所属していたため、普通に試合が組まれたが、徐々にFMWの経営が苦しくなるに伴い、女子選手の離脱が続き、末期には男子レスラーとのミックスドマッチや、『性転換レスラー』をギミックにした、工藤あづさ(現:gosaku)との試合が主になっていた。
2002年
FMW倒産。我闘姑娘を設立する。
プロレス活動のかたわら女子プロレス教室や子供向け体操教室『アクション体操』も行っている。また、入場時には自身が歌う『さくらえびちゅ』という歌に合わせて踊る。これのために体操教室の生徒の中からメンバーを選抜した『さくらえびきっず』を結成。このグループの中からりほ・聖菜らが選手としてデビューしている。
アクション体操 - さくらえみ考案の体操で、プロレスの動きや技、器械体操の要素を取り入れている。
2006年
1月29日、新木場1stRING(“息吹”第5回大会)において、椎名由香の代打で出場。夏樹☆ヘッドと組み闘獣牙Leon、バンビ組と対戦する。
6月20日、アイスリボン旗揚げ。
9月24日、東京・新木場1stRINGにおいて、きのこと対戦。勝利。同大会、石井美紀、希月あおいと組んで、零、高橋李佳、春日萌花組と対戦。希月のクロスアーム式原爆固めで零が敗れる。
11月4日、我闘姑娘からアイスリボン(代表)に移籍。
2007年
アイスリボンの興行と並行し、NEO女子プロレスの興行に参加。同団体の社長である甲田哲也との結婚騒動、田村欣子に強引にタッグパートナーにさせられてしまいNEO認定タッグに挑戦するなど、NEO女子プロレスの中心人物となった。
7月16日、東京・後楽園ホールにおいて、田村欣子と組み、元気美佐恵、松尾永遠組の保持するNEO認定タッグに挑戦。さくらえみがラ・マヒストラルで元気美佐恵から勝利。田村欣子、さくらえみ組が、第5代NEO認定タッグ王者になる。
2009年
1月、アイスリボンの新体制移行に伴い、団体代表を退任(後任は佐藤肇(ネオプラス代表取締役社長))。
5月3日、板橋グリーンホール・パッション・レッド興行で高橋奈苗のもつNEO統一二冠王座に挑戦。高橋が試合中に脳震盪を起こし戦闘不能になり、TKO勝ちを収め第21代王者になる。2日後、田村欣子に敗れ初防衛に失敗。
5月24日、新宿FACEにてIWA旗揚げ15周年記念大会に出場し、市来貴代子と13年ぶりのシングルマッチ。
7月5日、NEOミッドサマー・タッグトーナメント'09優勝(パートナーは高橋奈苗)。
7月19日、JWP後楽園大会、米山香織と組んで、JWP認定タッグ&デイリースポーツ女子タッグ王座に挑戦し勝利。JWPタッグ二冠を獲得した。
12月、東京スポーツ主催のプロレス大賞で「女子プロレス大賞」を受賞。女子プロレス大賞はここ数年「該当者無し」が続いており、実に6年ぶりの受賞者となった。
2010年
6月下旬、19時女子プロレスで行う高橋奈苗とのシングルマッチ(おんな巌流島2010)を、高橋のもつJWP認定無差別級王座に自身が挑戦するタイトルマッチとする意向を、高橋と共に主張。
6月30日、イサミレッスル武闘館にて高橋、コマンド・ボリショイらJWP3選手、マスコミらを交えた公開討論会「女子プロレス向上委員会・おんな巌流島2010編」を開催。結果、JWP側の以下の主張を受け入れ、ノンタイトルとなる[1]。[2]
無観客試合
ベルトのコミッショナーであるデイリースポーツの認可が得られていない
Ustreamではビジネスモデルが成立しておらず、現状ではタイトルマッチを行う環境として不適格
7月2日、JWP3選手立会いの下、19時女子プロレスにおいて高橋との「おんな巌流島2010」をノンタイトルマッチとして戦い、敗北。[3]
9月19日、JWP新宿FACE大会、米山香織のJWP認定無差別級王座に挑戦、自ら提案した敗者髪切りマッチに敗れ、丸坊主となる。
9月23日、アイスリボン後楽園、同じ年(1995年)にデビューして同じ年(2006年)に団体を旗揚げしたセンダイガールズプロレスリング代表・里村明衣子と初のシングルマッチを行い、敗戦。[4]
9月25日、アイスリボン、高橋奈苗と組んでインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦し勝利、13代目王者となる。
11月21日、NEO大阪府立体育会館第2競技場大会、田村欣子の持つNEO統一二冠王座に挑戦するも敗戦。
11月22日、SMASH・JCBホール大会、米山香織と組んで朱里・華名組と対戦するが、朱里のハイキックで敗戦[5]。
人物 [編集]

高校時代に女子プロレス団体への入門を志望し、LLPWのオーディションを受けるが落選[6]。GAEA JAPANの書類選考は通ったものの、先に合格していたIWA・JAPANに入門することになった[7][8]。
それほど体格や身体能力には恵まれていないが、時にコミカルなムーヴも交える技巧派レスラーであり、強豪選手との名勝負も多い。
プロデューサーとしての臨機応変な決断力・実行力・演出力に定評がある。また、マイクパフォーマンスなどでの話術にも優れる。
mixiでの繋がりを母体に団体を旗揚げしたり、ブログやツイッターで多くの情報を発信するなど、インターネットの活用に積極的である。19時女子プロレスの旗揚げと同時期に不定期Ustream番組「さくらえみの部屋」も開始しており、アイスリボン興行の宣伝に始まり業界批評、関係者への生電話、果ては雑談しながらの食事風景まで様々な内容を突発的に配信している。
趣味は映画鑑賞。また、作詞作曲も行っている。
小学校時代の同級生にお笑い芸人のまちゃまちゃがいる。
得意技 [編集]

各種チョップ
逆水平チョップ、モンゴリアンチョップ、ローリングフューチャー(回転してのダブルハンドチョップ)などを使用する。
さくらえび固め
さくらえみ斬り
主に背中への引っ掻き攻撃。
トラブル・クラッチ
ダブルアーム・バックブリーカー
ケブラドーラ・コン・ヒーロ
シュークリーム
ダブルアームからのバックブリーカーで持ち上げてからそのままの体勢で固める。見た目がモコモコしているのと、初めて出した相手の渋谷シュウのシュウをかけてシュークリームとした。
スマッシュマウス
ドラゴンスリーパーの体勢から相手の腕を取り、回転して顔面から叩きつける。
ラ・マヒストラル
ロメロ・スペシャル
タイガードライバー
アイスドライバー
シュークリームの体勢から固めずに相手をスピンさせながら横に落とす。氷上を走る車をイメージさせ、アイスドライバーの名がついた。
さくらえみ70kg
「さくらえみ70kg!」と叫びながらの串刺し式フライング・クロス・ボディ、またはボディ・プレス。時折、「さくらえみ40kg!」などと体重を偽ることがあり、その度に「ウソつき」呼ばわりされる等、ファンから顰蹙を買う。
リバース・スプラッシュ
ムーンサルトプレス
クリオネ
ヴァルキリースプラッシュと同型。
2階からのにゃんにゃんプレス
ファイアーバード・スプラッシュと同型。
タイトル歴 [編集]

第2代AWF世界女子王座
第26代全日本シングル王座(1998年1月30日 対中西百重戦で獲得。防衛3回)
第224代アイアンマンヘビーメタル級王座(1回防衛)
第231代アイアンマンヘビーメタル級王座
第5代NEO認定タッグ王座(パートナーは田村欣子)
第21代NWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル王座
第32代JWP認定タッグ&第5代デイリースポーツ女子タッグ王座(パートナーは米山香織)
第6代インターナショナル・リボンタッグ王座(パートナーは米山香織)
第13代インターナショナル・リボンタッグ王座(パートナーは高橋奈苗)
第4代&第8代ICE×60王座
入場テーマ曲 [編集]

さくらえびちゅ
さくら Go Round
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木村健悟

木村 健悟(きむら けんご、男性、1953年9月4日 - )は、日本の元プロレスラー、宮城野部屋所属の元大相撲力士。本名は、木村 聖裔(きむら せいえい、きむら たかしと紹介しているプロレスラー名鑑もある)。愛媛県新居浜市出身。プロレスラーとしての最終所属は新日本プロレス。ニックネームは「稲妻戦士」。
目次 [非表示]
1 来歴
2 藤波との抗争からワンマッチ興行への流れ
3 稲妻レッグラリアート
4 人物像
4.1 芸能活動
4.2 政治活動
4.3 決め台詞
4.4 得意のムーブ
4.5 海外での戦績
4.6 藤原との対立
5 得意技
6 主なタッグ・パートナー
7 タイトル歴
8 入場テーマ曲
9 関連項目
10 外部リンク
来歴 [編集]

1969年、大相撲の宮城野部屋に入門し、木村山(きむらやま)の四股名で1969年7月場所初土俵。しかし約1年足らずで廃業、最高位は序二段30枚目。大相撲廃業後は、1972年1月に日本プロレスに入門し、1972年8月2日に鹿児島県喜界島中学校グラウンドでの佐藤昭雄戦でデビューを果たした。
1973年3月、坂口征二と共に新日本プロレスへ移籍。坂口の付き人だった木村は、アントニオ猪木の付き人であったライバル藤波辰巳と1970年代後半にジュニアヘビー級チャンプを争い、大旋風を巻き起こす。二人とも美しくビルドアップされており、トペやブランチャー等の場外へジャンプして飛び込むといった技は当時の日本では斬新であり若者を魅了。ゴールデンタイムでフルタイムドローになる名勝負の数々でジュニアヘビー級の人気が確立された。これにより、新日本プロレスの人気は全日本プロレスを大きく引き離した。
1980年代に入るとヘビー級に転向。長州力やタイガーマスクがプッシュされる中、ジョバー的な役割が増える。1985年、映画ビー・バップ・ハイスクールに不良たちを一喝する教師役で出演。1985年12月、藤波辰巳とのタッグでアントニオ猪木、坂口征二組に勝利し、初代IWGPタッグ王座を獲得した。その後、藤波と敵対関係となり、幾多の熱戦を繰り広げる。この抗争は非常に盛り上がり、1987年1月には、後楽園ホールにて藤波対木村のシングルマッチのみの興行が行われた。木村は決着戦に敗れ海外遠征に出向き、ベニー・ユキーデのもとでフルコンタクト・キックボクシングを身につけて帰国した。帰国後、パンタロンスタイルとなり、大阪城ホールで、ケリー・ウイルソン(プロ空手)と異種格闘技戦を行い、バックドロップ、右ストレートのコンビネーションで勝利を飾った。
1992年8月、越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成。
体力が衰え始めた頃に、小原道由から「こんな弱い奴とやらすな!」とまで罵られたこともあった。その当時、本人もそれを自覚していて2003年4月18日後楽園ホールの西村修とのシングル戦(キャッチルール)での大熱戦を最後に、引退した。引退試合の相手には長年のライバル・藤波を希望していたが、藤波の体調が優れず実現されなかった。引退後は、新日本プロレスのスカウト部長の要職に就き、テレビ解説も行なっていたが、2006年3月27日付けで自主退社した。
2006年4月、社長として株式会社円天興行を設立した。母体会社の会長を直接の師匠筋である坂口征二から紹介してもらったと新聞インタビューで語っている。
2007年9月に円天興業の社長職を辞した。2008年2月、都内にリサイクルショップをオープンした。
藤波との抗争からワンマッチ興行への流れ [編集]

発端は、1986年10月9日に開催されたINOKI闘魂LIVEの公開スパーリング(10月6日)に遡る。ランス・フォン・エリックとの対戦を予定されていた武藤敬司の凱旋帰国日程が遅れたことによるカード変更を受けて、木村が藤波への挑戦を表明したが、9月23日にIWGPタッグ王座を二人で奪回したばかりであり、時期尚早と藤波が対戦を拒否した。
翌シリーズでも木村は対戦を執拗にアピール。前田日明が闘魂LIVEの異種格闘技戦でのダメージからシリーズを全試合欠場となり、11月3日に予定されていたIWGPタッグ防衛戦(藤波&木村vs前田&藤原喜明戦)が流れたことから、藤波も対戦を受諾した。しかし、10月27日の奈良大会で、藤波がコンガ・ザ・バーバリアンにジャーマンを仕掛けた際に負傷(奥歯が抜け、手術して元に戻した)して欠場したため、対戦がまた実現せず(11月3日の代替カードはアントニオ猪木&ケビン・フォン・エリックvs木村&武藤)。
次の'86ジャパン・カップ争奪タッグリーグでは藤波は武藤と、木村はジョージ高野とタッグを組んでエントリーしたが、共に決勝には進めず、12月10日の大阪城ホールで急遽シングルマッチが組まれたが、木村は淡白な内容で藤波に回転エビ固めで敗れた。
翌1987年、新日本の新春シリーズ「ニューイヤー・ダッシュ」開幕戦(1月2日)において木村のアピールで藤波vs木村戦が組まれた。木村は試合前に「正々堂々と戦って勝つ」、そして、選手紹介前に田中リングアナからマイクを取り上げ、「この試合に負けたら俺は海外に行くから! お前もそのぐらいの気持ちで来い!」とコメントした。(この試合のレフェリーはミスター高橋)しかし試合ではゴング前のボクシング・パンチの奇襲攻撃や、レッグサポーターに凶器を入れた稲妻レッグラリアートを敢行。フォール勝ちを奪うも、反則行為が発覚してノーコンテストとなった。木村は試合後に「勝つためには手段を選ばない」とコメントした。
内容を不服とした藤波から後日再戦の申し入れが出たことを受け、1月14日、後楽園ホールでワンマッチ興行開催の運びとなり、試合前半より中盤は木村の攻勢が目立ったが、先日の試合で見せたトライアングル・スコーピオンを封じられたり、この遺恨のポイントのひとつであったボクシング式パンチもあまり出さなかったためか、徐々に試合巧者である藤波に主導権を奪われていった。結局終盤、勝負を賭けた稲妻を藤波に空中でキャッチされ、サソリ固め→逆エビ固め→バックドロップ→片逆エビ固め、の波状攻撃で最後は無念のギブアップ。今度は藤波が勝利し遺恨に決着がついた。この試合のレフェリーは上田馬之助が勤めた。なお、この試合はTVマッチとして録画中継されたが、急遽組まれたために、既にタレント活動もしていた古舘伊知郎の都合がつかず、映像に後で実況を被せる手法が取られた。これは音声では解説をしているはずの山本小鉄が、リングサイドで立ち働く姿が映像に何度も出てくるところから判明した。
両者の試合運びで注目すべきは、当日「完全決着戦」の色合いが濃かったため、リング中央のスプリングがはずされ、両者はわざと急角度でボディスラムを敢行したり意識的にグラウンドでの攻防を魅せたりと、試合の前半は非常に原始的でオーソドックスな展開となった。そして前述の通り上田馬之助がレフェリーを買って出たが、木村は試合中、再三上田にボクシング式パンチを制止され(プロレスのリングでは拳でのパンチは反則)、前回の試合でかなりダメージを与えた攻撃パターンを封じられたことも敗因として挙げられる。
木村は、普段は地方会場はもちろんのこと、大会場での試合においてであっても自らの持ち技以外めったに大技(言い方を変えれば観客をアッと言わせる技)を使わないが、この日は、トップロープ上に駆け上がった藤波に対して(つまり上に向かって)稲妻を敢行するなど、非常に積極的な動きが目立っていた。
稲妻レッグラリアート [編集]

脚の攻撃は腕の3倍の威力が出せるという理由で、脚のラリアットである稲妻レッグラリアートを開発して得意技としており、スタン・ハンセンがラリアットを放つ腕にサポーターを付けていたのと同様に、レッグラリアートを放つスネにサポーターを着用していた。また、人差し指を掲げ「イナヅマ!」と叫んでから技を放つことが多かった。技を使い始めた当初は、梶原一騎原作の「悪役ブルース」の主人公・吹雪純也が覆面レスラーとして使っていた技とそっくりだったので「ジャパニーズ・ラリアット」とプロレス専門誌で書かれていたこともあったが、古舘伊知郎がプロレス中継の際に「稲妻のような電光石火で叩き込む足でのラリアート」と叫んだことから、(1983年の年末あたりから)この名前が使われるようになった。(この技は“健吾オリジナル”とも言われた)相手によって高さを使い分け、胸板を打ち抜く稲妻と喉元を打ち抜く稲妻があった。過去にタッグ戦で、喉元を打ち抜く稲妻で佐々木健介をKOし、同じ試合で胸板を打ち抜く稲妻で長州力にフォール勝ちしたこともある(越中・木村組対長州・佐々木組 平成維震軍自主興行)。喉元を打ち抜く稲妻レッグラリアートに対しては、猪木が「俺にはあんな(危険な)技を使うな」とも言っていたことがある。
人物像 [編集]

入団の経緯からも、新日内では直接の師匠筋である坂口派と見られることが多かったが、猪木に対してかなり敬意を払っていた。ちなみに木村は夫人との結婚を決めた理由を「社長(猪木)の奥さん(倍賞美津子、当時)に瓜二つだったから」と公言している。
若手時代のあだ名は、一線を超えて試合相手を怪我させてしまうことから「クラッシャー」だった。なおこのあだ名は、後に前田日明→橋本真也へと受け継がれていく。
性格は温厚とされ、武藤敬司はCSのサムライの番組で「おれは木村健吾さんの付き人で楽でよかった、あの人は怒らないから」とコメントした。しかし武藤のスペース・ローンウルフ時代に急遽組まれた猪木&ケビン・フォン・エリック組VS木村&武藤組で、猪木が武藤を試合そっちのけで鉄拳制裁で血だるまにしたことに激怒し、試合後に「あそこまでやることねぇじゃねえか!」と、パイプ椅子を持って猪木の控え室に乗り込んでいったこともある。この時は猪木と坂口が必死になだめた。
FIGHTING TV サムライの番組内にて「稲妻人生相談コーナー」をしていたこともある。
芸能活動 [編集]
歌手としても活動しており『らしくもないぜ』『デュオ・ランバダ』『孤独(ひとり)』などのオリジナル曲がレコード発売されている。映画俳優としては映画「ビー・バップ・ハイスクール」に戸塚水産高校の教師役で出演。1987年には仲村トオル主演の「新宿純愛物語」に大矢健一と共にヤクザ役で出演している。当時、テレビ朝日のヒット曲の紹介番組であった深夜番組の「若原瞳のラブリー10」にも度々ゲスト出演していた。また、「山口良一のオールナイトニッポン」ではレギュラーコーナーである「闘魂スペシャル」の中で古舘伊知郎(当時テレビ朝日から独立間もない頃)と共にゲスト出演した際に、古舘は「私はこの健吾さんの歌を聞いて玄人はだしの、女性をも泣かす歌声。つまり『孤独』と書いて“ふたり”と読む新しい国語が生まれました」と紹介していた。
政治活動 [編集]
妻は、目黒区議会議員の木村洋子。1991年に社会民主連合公認で区議選に出馬。初当選し、以後無所属→民主党と所属を変えながら5期務めている。2004年にはひったくりの被害に遭った。長男の木村寛紀も2007年に東京都議補選・大田区議選に出馬したが、いずれも落選に終わっている。
木村本人も1998年の第18回参議院議員通常選挙に民主党から比例区で立候補した。その時、自らハーレーダビッドソンを乗り回して、全国遊説していた。この選挙では名簿12位で公認された江本孟紀が名簿順位の低さに民主党の選挙運動を凍結する動きを見せたが、木村は23位という当選可能性の低い順位だったにもかかわらず「どんなに苦しくても最善を尽くすべきだ」と批判した。結局、江本はぎりぎりの下位当選、木村は落選に終わる。
決め台詞 [編集]
木村の決めぜりふは得意技の名前でもある「稲妻」であり、テレビのインタビュアーに「一言お願いします」と言われ「イナヅマ!」と答えた。またワールドプロレスリングの放送で、フィリピン遠征の際にいきなり木村の顔のアップが画面に登場して「フィリピンからイナヅマ!」と叫んだ。
得意のムーブ [編集]
タッグ戦において「散々攻撃を受けてグロッキー状態になり、攻撃の隙を見計らって四つん這いになりながらコーナーまで帰ってタッチをする」もしくは「タッチできそうなポジションまで這って行くと、対戦相手に足を引っ張られながらリング中央まで引き戻される」等がお決まりムーブである。なお、足を引っ張られる時は自軍のコーナーに手を差し伸べながら引っ張られ、タッチできる場合の這い方は異常に速い。また、シングルマッチの際、決め技である稲妻レッグラリアートを放った後、頭部からマットに墜ちてしまったためにグロッキー状態になり、タッチを求めて(パートナーがいない)自分のコーナーに四つん這いで帰ったことがある。
海外での戦績 [編集]
海外遠征先のロサンゼルスで、上田馬之助と組んでアメリカス・タッグ王座を所持したことがある。これが、後に何度も起こる上田とタイガー・ジェット・シンの仲間割れの最初の原因とされた。なお、同時期にロスをサーキットしていたロディ・パイパーは移動の際に、健悟の運転するレンタカーをよく利用していた。ちなみに、ロスでの運転免許取得の際、試験に車に乗って行ったというエピソードを持つ。
この頃(1978年)のロスでは、日本での所属団体に関わらないマッチメイクが行なわれており、7月7日のオリンピック・オーデトリアムの興行では、健悟はミル・マスカラスと、上田はプリンス・トンガと対戦している。なお、アメリカやメキシコに遠征していた際のリングネームは「パク・チュー」であった。
藤原との対立 [編集]
若手時代から藤原喜明との不仲は有名で、村松友視はこの二人を主人公にした短編小説を書いている。
得意技 [編集]

稲妻レッグラリアット→木村の引退を受けて、当時同門の後輩であった垣原賢人が同県人の偉大な先輩(共に愛媛県出身)にあやかってと左脛に巻いていた稲妻サポーターを継承して装着していたという話があった
トライアングル・スコーピオン
ドリル・ア・ホール・パイルドライバー
雪崩式ブレーンバスター
キチンシンク
低空式パワーボム
エルボースマッシュ
ユキーデ式ソバット
片足ダイビングフットスタンプ(アトミック・ボムズ・アウェー)
ドロップキック
首固め→ジャパンカップ争奪タッグリーグ初戦のvsマサ斎藤・長州力組(パートナーは藤波辰彌)において大流血に見舞われながらも長州力から3カウントを奪った。
ボクシング式パンチ
回転エビ固め
バックドロップ
ミドルキック
プランチャ(若手時代)
スクールボーイ
張り手
逆水平チョップ
逆片エビ固め
手四つから相手を幻惑してのアームホイップ
ストンピング
逆さ押さえ込み→新日本vsUWFの5対5イリミネーションマッチにおいて山﨑一夫のエルボースマッシュの連打を掻い潜り3カウントを奪って新日軍に最初の勝利をもたらした。
主なタッグ・パートナー [編集]

藤波辰爾(新日ニューリーダーズ)
坂口征二
木戸修(KKコンビ)
越中詩郎
ジョージ高野
タイトル歴 [編集]

NWA
NWA世界ライトヘビー級王座 : 1回
NWAインターナショナル ジュニアヘビー級王座 : 1回(1980年7月23日、ブレット・ハートとの王座決定戦に勝利)
アメリカス・タッグ王座 : 2回(w / ミスター・イトー、ロディ・パイパー)
新日本プロレス
IWGPタッグチーム王座 : 4回(w / 藤波辰巳×4)
WWF
WWFインターナショナルタッグ王座 : 1回(w / 藤波辰巳)
大日本プロレス
BJW認定タッグ王座 : 1回
入場テーマ曲 [編集]

ビューティフル・フライト(LP新日本プロレス・スーパーファイターのテーマに収録)
Critter Skitter(The Critters [Soundtrack]に収録)
ブラック・ストーム
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├─≠ョ─ヵラスと桜田一男

├─≠ョ─ヵラス 網走洋
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス プロレスのリングにはたまに上がる程度になっている。
投稿者 格闘技の王子様 01:04 | コメント(0)| トラックバック(0)

├─≠ョ─ヵラスと北沢幹之

├─≠ョ─ヵラス 旗揚げ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 引退後はUWF・リングスでレフェリーとして活動、最近ではドラディションでレフェリングを行っている。
投稿者 格闘技の王子様 01:03 | コメント(2)| トラックバック(0)