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格闘技の王子様 実はかの有名な格闘技の王子様は├─≠ョ─ヵラスであった

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石井慧

石井 慧(いしい さとし、男性、1986年12月19日 - )は、日本の総合格闘家、元柔道家(五段)、北京オリンピック柔道男子100kg超級の金メダリスト。大阪府茨木市出身。紫綬褒章受章。血液型はO型。出身道場は修道館(大阪府)。ケイダッシュ系列の個人事務所アイダッシュ所属。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 柔道家
1.2 総合格闘家への転向
2 戦型
3 エピソード
4 戦績
4.1 プロ総合格闘技
4.2 アマチュア・エキシビション
5 獲得タイトル
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴 [編集]

柔道家 [編集]
茨木市立大池小学校5年生の頃、父親の指導で柔道を始め、本格的に取り組むべく清風中学に入学。高校1年生の時に、より柔道の強い環境を求め国士舘高校へ志願編入。その後、国士舘大学体育学部武道学科に入学。
2004年に講道館杯全日本柔道体重別選手権大会100kg級で優勝した。高校生の優勝は1998年の鈴木桂治、翌99年の高松正裕に次ぐ史上3人目で、翌年には連覇を果たした。2006年、全日本柔道選手権大会に初出場ながら鈴木桂治を破り、19歳4か月の史上最年少で優勝した(それまでの最年少優勝記録は山下泰裕の19歳10か月)。同年アジア競技大会(ドーハ)では100kg級で準優勝。
2007年全日本では準決勝では井上康生に勝利したが、決勝で鈴木桂治に敗れた。同年嘉納治五郎杯東京国際柔道大会より100kg超級に転向し、優勝。以後無敗で引退。
2008年2月のオーストリア国際で優勝を果たした。4月29日、全日本選手権決勝で三度鈴木桂治と対戦し、優勢勝ちで2年ぶり2度目の優勝をすると共に、北京オリンピック柔道男子100kg超級日本代表選手に選出された。決勝戦の対戦姿勢(ポイントリードを守る)には、観客からのブーイングがあったほか、柔道家・世論の一部から批判があり、柔道の国際化とスタイルの変容・日本柔道界のあり方についての議論があった。
2008年8月15日、北京オリンピック柔道男子100kg超級に出場、準決勝までの4試合はすべて一本勝ち、決勝ではアブドゥロ・タングリエフ( ウズベキスタン)と対戦、指導2つの優勢勝ちで金メダルを獲得した。優勝直後のインタビューで「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」と発言し、新語・流行語大賞の候補60語にノミネートされた。
総合格闘家への転向 [編集]
2008年10月6日、プロ総合格闘技への転向がスポーツ報知の一面で報じられ、明らかになった。また、出場予定だった当日の世界選手権団体も調整不足を理由に辞退した。翌日の10月7日の会見では、「卒業のことで頭がいっぱい。焦らずゆっくり考えたい」と進退の明言を避けた。10月31日、全日本柔道連盟に対して強化指定選手辞退届を提出[1]。11月3日に記者会見で「11月3日をもって柔道家をやめ、プロ転向を決めました。総合格闘技のチャンピオンになれるようにがんばります」 と、正式にプロ転向を表明した。
このころから柔道選手時代のトレードマークであったスキンヘッド(写真)から、スポーツ刈りにヘアスタイルを変えている。
2008年11月17日に個人事務所「Twill33」(ミーサン)を設立し、取締役である(マネジメントはケイダッシュ)。
2008年12月16日に世界最大の総合格闘技団体UFCへの参戦意志を明言。同年12月27日にアメリカ合衆国で開催されたUFC 92を観戦し、同日深夜にUFCを主催するズッファ社と独占交渉契約を交わした(2009年1月末で独占交渉期限切れとなった)。渡米中には現役選手にしてUFC殿堂入りしているランディ・クートゥアらの指導を受けた。その後はアメリカン・トップチームで練習を積んだ。
2009年1月4日、戦極の乱2009のリングにUFCのTシャツ姿で上がり「これからアメリカで試合をすることになりましたが、いつか大きなお土産を持ってこのリングに立ちたい」と発言した[2]。
2009年6月1日、記者会見で戦極(現SRC)と同日に仮契約したことを発表。戦極と契約した理由については「日本で育ち、日本で生まれた柔道に生かされてきた。その結果、オリンピック金メダルを手にしました。まずは、日本の格闘技界を盛り上げ、恩返しすることが私の宿命だと思った。自分の祖母は半分、片足を棺桶に突っ込んで、いつ亡くなってもおかしくない状況なので、祖母に生で試合を見せてあげたい」「日本にある団体の中で、『戦極』では、自分が最も尊敬する、世界のヘビー級で一番強い選手・エメリヤーエンコ・ヒョードルと(当時)対戦予定のジョシュ・バーネット選手がいます。もし、ジョシュ・バーネット選手が勝てば、最強はジョシュ・バーネット選手になるので、そういう選手がいるのが『戦極』なので、そういう面でも『戦極』に惹かれました。」と語った[3]。「本契約はファンの前でしたい」とし、6月4日に新宿ステーションスクエアにて本契約の公開調印式が行われた[4]。
2009年3月から2か月半の間、ブラジルのパラー州ベレンにある、リョート・マチダの道場で武者修行を敢行した。
2009年9月、同年大晦日に行われるSRC(戦極)にて吉田秀彦との対戦が正式決定[5]。
2009年9月、国士舘大学を卒業(単位が足らず、同年3月での卒業はできなかった)[6]。
2009年11月25日、K-1とDREAMを主催するFEGとSRC(戦極)を主催するWVRが大晦日の格闘技大会を合同開催することを発表し、SRCの大晦日大会は中止となり、同大会で予定されていた石井慧vs吉田秀彦戦はFEG主催のDynamite!! 勇気のチカラ2009で行われたが、判定負けを喫した[7]。
2010年3月20日、練習先であるハワイの興行「X-1 Champions 2」でササエ・パオゴフィーとエキシビションマッチ[8]で対戦し、1R2分50秒アームロックで一本勝ち[9]。
2010年4月8日、4歳年下の女子大学生と入籍[10]。
2010年5月15日、ニュージーランド・オークランドで開催されたXplosionでタファ"タンパー"ミシパティと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち[11]。
2010年6月4日、ハワイ・ホノルルで行なわれたX-1: Nations Collideでマイルス・ティナネスと対戦。1R終了間際に左フックでダウンを奪い追撃のパウンドを繰り出すも、1R終了後の攻撃だったとして反則負けと裁定されるも[12]、その後ノーコンテストと裁定が変更された。
2010年9月25日、DREAM初参戦となったDREAM.16でミノワマンと対戦し、3-0の判定勝ちで格闘家としての日本初勝利を収めた[13]。大会3日前の9月22日に参戦が発表されるほどの緊急参戦となった[14]。
2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALに参戦。当初はアンズ"ノトリアス"ナンセンとDREAMルールで対戦予定だったが、試合2日前のドクターチェックでナンセンの古傷が治っていないことが発覚し、ドクターストップになったため、試合前日に相手が柴田勝頼に変更された[15]。試合ではアームロックで一本勝ちを収めた。
2010年12月31日、Dynamite!! 勇気のチカラ2010 にてK-1ファイターのジェロム・レ・バンナと総合格闘技ルールで対戦。K-1が本職で4年間総合格闘技ルールの試合をしていなかったバンナ相手に寝技で関節技を極めきれず、スタンドでパンチと膝蹴りを浴びるなど苦戦。3Rに抑え込んで判定勝ちを収めたものの、バンナからパウンドを浴びた際には石井が日本人でありながら日本の観客からバンナへの歓声と掛け声があがり、逆に判定で石井の勝利が告げられた際には観客から石井へのブーイングが飛んだ。試合後、石井は「バンナ選手の寝技が予想以上にうまかった。ブーイングは応援の裏返しだと思うし、それだけ期待していただいていることだと思う。次は一本、KOで勝ちたいと思っています」と語った[16]。
戦型 [編集]

100kg以下級であったが、2007年秋に100kg超級へ転向した。左利きで、超級のクラスでは上背はないものの、その筋肉量、スタミナはトップクラスである。練習の虫として知られ、特にウエイトトレーニングは寝る間を惜しむほど行い、ベンチプレス200kg以上を挙げることができる。得意技は大内刈で、世界トップクラスの切れ味を持つ。全日本決勝で鈴木桂治を2度破ったのも大内刈である。しかし、弱点は他に技が少ないことである。だが2007年あたりからは体落としを、2008年から大外刈や内股も出すようになってきた。寝技も得意。パワーとスタミナの強さから受けが非常に強い選手で、また試合の駆け引きがうまい。よって、旗判定が行われる国内試合に強い選手といえる。
非常に努力家であり、オーバーワークによる怪我を恐れてコーチが練習を止めると、泣いて「練習させてくれ」と懇願することもあったという。自身を「一本をとる技はない」「才能はない」と認めており、その分を人一倍の努力(練習による筋力増強と研究熱心さ)で補っている。全日本男子監督の斉藤仁も「世界一」と認める練習の虫である。
その練習量の多さから、史上最強を謳われる柔道家木村政彦の弟子岩釣兼生は「(木村の)鬼の柔道を継げるのはあいつしかいない。山下君クラスに成長していく可能性がある。絶対に勝ってやるという、そのための努力の量と質が人とは違う」(『ゴング格闘技』2008年12月号)と発言している。
柔道だけでなく、レスリングやブラジリアン柔術の道場にも1人で出かけて腕を磨く。積極的に他競技の技術も学んでいる。ブラジリアン柔術では茶帯(黒帯に次ぐ位)を取得している。
一本勝ちにこだわるよりも確実に勝利することを信条としており、寝技の習得にも熱心である。立ち技での投げによる一本勝ちを狙うことを称賛する日本柔道界においては、石井の姿勢に対して前述のように全日本選手権で優勝した際にブーイングを浴びたこともあったが、「美しい柔道って言いますが柔道は芸術ですか?そんなに美しいものを求めるのなら体操でもやればいい」と発言し、北京オリンピックでは決勝戦以外は全て一本勝ちで優勝し、金メダルを獲得した。
エピソード [編集]

中学・高校時代の指導員で、のちに清風学園柔道部監督になる魚澄豊治は、石井について「中学入学時の実力は、同期の部員の中でも下から数えたほうが早かった」と語っている。ちなみに、清風中学校にはスポーツ推薦ではなく、1日平均8時間の猛勉強をこなして、一般入試を受験し、合格している。
中学・高校時代には体育教師をしている父・義彦(柔道六段、日体大柔道部出身)に、毎日弁当(朝練があるので2個)を作ってもらっていた。現在も人間として尊敬している人物は父だと明言している。
母親も体育教師で、父とは体育大学の同級生だったという。母はハンドボールの世界選抜に選ばれた経験があり、妹も水球のGKで全国優勝している選手。スポーツ一家[17]。
好きなスポーツ選手として亀田三兄弟、朝青龍、秋山成勲ら「格闘技界三大ヒール」を挙げており、理由は「強くて、バッシングを受けている部分に共感するから」としている。秋山は清風学園の先輩である。朝青龍には2008年1月の場所中に実際に会いに行き、励ましてもらっている。2008年4月の全日本選手権では朝青龍が観戦に駆けつけた。その後も朝青龍が泥酔暴行事件によって引退が決まった直後に石井が滞在しているハワイのクラブで密会する様子がテレビで報道されるなど親交が深い。亀田興毅とは雑誌での対談もあって親交を深め[18]、その後は亀田兄弟の父親である亀田史郎の指導も受けている[19]。
また柔道家としては小川直也を尊敬していて、高校生時代には小川からのアドバイスが欲しいがために小川がよく顔を出す明治大学の道場を訪れたりしており、そのため現在も小川とは親交がある。石井の北京オリンピックに向けた壮行会も茅ヶ崎市にある「小川道場」で開かれたほか、北京オリンピック後には「橋本真也の『破壊なくして創造はなし』の精神を継いでほしい」との思いから、小川から「真・破壊王」の称号を与えられた[20]。
北京オリンピック試合の翌日、日本テレビ『ズームイン!!SUPER』のインタビューで「金メダルは小川道場に寄付します。自分は小川道場の門下生なんで。あるいは、モハメド・アリのように川に捨てます」と発言し、2008年9月28日には小川直也が主催する小川道場を訪れ、北京オリンピックで獲得した金メダルを寄贈した。寄贈後に石井が大外刈りを披露すると、小川は石井の大外刈りを小川の必殺技「STO」にちなんで「STI(スペース・トルネード・イシイ)」と命名した[21]。
プロ転向会見にて、目標とする総合格闘家としてエメリヤーエンコ・ヒョードル、ヒクソン・グレイシーとBJペンを挙げている。2008年9月22日にエメリヤーエンコ・ヒョードルと初顔合わせする予定だったが、会見の約2時間前に中止となった[22]。「自分はヒクソンへのリスペクトの塊ですから光栄です。チョー会いたいです」「ヒクソンと一緒に生活したいです取り入れているヨガとか教えてほしいし、精神面のアドバイスも もらえたらうれしいっス。確かヒクソンは日本に来ると山にこもるんですよね? 一緒に行けたら夢のようです」「ヒクソンに教えてもらえれば、自分はチョー(寝技の実力が)伸びます。ヒクソンの息子になりたい」(東京スポーツ 2008年12月2日販売号より)とヒクソンへの憧れを公言している。また、2009年にはハワイのBJペンのジムに出稽古に行った。
総合格闘技の存在を知る前はK-1のアンディ・フグやジェロム・レ・バンナらに憧れていた。
読書家で、戦国歴史物からイチローやイビチャ・オシムなど他のスポーツ選手についての著書や発言集に至るまで幅広く読み、心構えやトレーニング方法などを柔道に取り入れる。上杉謙信を尊敬し、一番の愛読書は海音寺潮五郎の「天と地と」。好きな言葉を聞かれた時にも「天と地と」をあげたことがある。
ZARDや羞恥心の楽曲を好む。また、フジテレビ『お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』に出演し、アニメソングを歌い世間を驚かせたいとの野望があるという(同局の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』にVTR出演した際に語ったもの)。
2008年4月の全日本体重別選手権に怪我で出られなくなり、北京オリンピック選考に不利になったことで、気づいたら屋上の上に立っていて死のうと思っていたという(本人談)。
北京オリンピック代表選考会のあった4月に、ライバルの棟田康幸、井上康生のもとへ異例のアポなし出稽古にいくが、断られる。これで「自信を取り戻した」という。
北京オリンピックにおいては金メダルばかりがクローズアップされるが、特筆すべきはその試合内容、特に5試合通して失点ゼロである点である。相手の技による失点だけではなく、反則ポイントも全く受けていない。これは反則が取られやすい国際ルールでは稀なことであり、石井の試合運びの上手さが体現されたと言える。
歯に衣着せない自由奔放な発言することで有名であり、「(福田康夫首相と握手をして)すごい純粋さが伝わってきた。腹黒くないからこそ、人気が出ないのかもしれない」[23]「(福田首相(当時)突然の辞任について質問されて)僕は握手しただけで相手のことがすべて分かる。薄々こういうふうになるんじゃないかなと思っていた」「(2008年9月10日に母校・清風学園の朝礼(報告会)にて、人生を生きていくにあたりアドバイスを披露して(2008年9月10日))1つは絶対に保証人にならないこと。2つ目は煙草を吸わないこと。健康や財を失いますから。3つ目はネクタイをきっちり上まで締めること。それに人から安心、尊敬、信頼される人になることです」など多種多様な事柄についてコメントしている。また、発言の中には人気格闘技漫画グラップラー刃牙のキャラクターの台詞を真似たものもしばしばある(例: 北京オリンピック解団式インタビューにて「オスとして魅力を感じて室伏選手に握手を求めました。でも、僕のほうが握力強かったですね」)
しかし、笑いをとるために行った行動や発言がスベってしまうことも非常に多い。公開会見でSRCと本契約を結んだ際には、登場する際に「徹子の部屋」のイントロ曲を流しながら黒柳徹子ふうの頭髪カツラをかぶって登場し、会場に微妙な空気が漂った。2010年11月8日のK-1 WORLD MAX 2010 FINALの試合では一本勝ちを収めたが、入場曲にAKB48のBeginnerを使用して観客をドン引きさせ、試合後のリング上でのマイクアピールでは「『持ってる、持ってる』とみんなからいわれていて、この試合が終わってわかりました。自分は話を盛るくせでした」と、野球の斎藤佑樹投手の名言のパロディをしたが、観客にはその意図がまったく伝わらず、会場には気まずい空気が漂った[24]。また、以前からK-1ルール挑戦への意欲を見せていたにもかかわらず、同大会ではなくK-1ルールではなく総合格闘技のDREAMルールで参戦したことや試合前に「K-1ルールに出ないかわりに打撃で勝負します」と公言したにもかかわらず、寝技のみで戦ったことなどに対して、同大会に出場した一部のK-1ファイターが不快感を示し、長島☆自演乙☆雄一郎などは「僕らはK-1に誇りを持って戦ってるのに何でK-1MAXのリングでDREAMの試合をやるのかなって。どうせK-1に出るんなら打撃だけのルールでやればいいやないか。だったら、階級は僕の方が下だけど僕が大晦日に石井選手とK-1ルールでやりますよ」と怒りを露にした。
北京オリンピック金メダル獲得翌日の会見で「世界で一番強い男というのは、フィジカル、メンタル両方強くなくてはいけません。ヒクソン・グレイシーだとかエメリヤーエンコ・ヒョードルだとか、強い選手はまだいます。自分は全然まだまだです」[25]と発言し、その後も「自分にとってオリンピックは踏み台なんで」「次に戦いたい相手はミルコ・クロコップ、エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラです」、「(目標は)この地球上で、60億分の1になることです(総合格闘技団体PRIDEのヘビー級グランプリのキャッチコピー)」と語るなど、当初から総合格闘技への憧れを隠そうとしなかったため、転向が注目されていた。
北京オリンピックで金メダルを獲得した後、多くのマスコミが取材を申し込んだが、石井の奔放な発言に懸念を抱いた全日本柔道連盟がテレビ出演をすべて断っており、雑誌取材も『近代柔道』を除いて全て却下された。北京オリンピック後に飛び出した発言の多くは、各種の祝勝会や報告会の場におけるものである。石井は「喋りでも実力があるところを見せたかった」「(他のメダリストのように)生放送出演したかった」と残念がっているという[26]。
2008年11月6日、両国国技館にて行われたダライ・ラマ14世の講演に花束贈呈者として呼ばれていたが、質問コーナーで自分の格闘技の進路について「自分で決めるばかりでなく、時には長いものにまかれることも必要なのでしょうか?」と質問をし、「状況をよく見て考え、最終的には自分で決めるものだと私は思います。」とアドバイスを受けた。
2008年11月13日、本人監修協力のもとで、語録本『石井訓(いしいくん)』(光文社)が発行された。
2010年1月3日の報道によると石井は2009年12月31日のプロデビュー戦に先立ち、自身のブログにおいて「負けたら自殺」と豪語していた。しかし、試合では奮戦するも敗退、公言どおり自殺するのではとファンが心配する中、問題となっていたブログが3日までに削除されていたことが判明した。報道によると試合前にすでに削除されており、視聴者は安堵や落胆で騒然となった[27]。
男性用ブラジャーを使用しているとのこと[28]。
全日本柔道連盟の規定により、プロ格闘家に転向した選手は、プロ格闘家を引退してから選手は3年、指導者は1年経たなければ日本柔道界に再登録することができないが、アメリカ柔道連盟はプロ格闘家にも柔道の試合への出場を許可しているため、石井は「アメリカの永住権と市民権を取って、2016年のリオデジャネイロオリンピックにアメリカ代表として出場して金メダルを取る」と公言している[29]。
総合格闘技転向後の石井の対戦相手はミノワマン (91kg)、柴田勝頼 (84kg) など体重が10kg以上も下の選手や、吉田秀彦(40歳)、K-1が本職で4年間総合格闘技ルールの試合をしていなかったジェロム・レ・バンナ(38歳)などのいわゆるピークを超えた選手となるなど有利なことがあるマッチメイクが多い。
戦績 [編集]

プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
6 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
4 勝 0 2 2 0 0 1
1 敗 0 0 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ジェロム・レ・バンナ 5分3R終了 判定3-0 Dynamite!! 勇気のチカラ2010 2010年12月31日
○ 柴田勝頼 1R 3:30 アームロック K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINAL 2010年11月8日
○ ミノワマン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.16 2010年9月25日
- マイルス・ティナネス ノーコンテスト X-1: Nations Collide 2010年6月4日
○ タファ"タンパー"ミシパティ 1R 2:42 腕ひしぎ十字固め Xplosion: New Zealand vs. Japan 2010年5月15日
× 吉田秀彦 5分3R終了 判定0-3 Dynamite!! 勇気のチカラ2009 2009年12月31日
アマチュア・エキシビション [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ササエ・パオゴフィー 1R 2:50 アームロック X-1 WORLD EVENTS 2010年3月20日
獲得タイトル [編集]

2004年:全国高等学校総合体育大会(100kg級) 優勝
2004年:全日本ジュニア体重別選手権大会(100kg級) 優勝
2004年:アジアジュニア柔道選手権(100kg級) 優勝
2004年:世界ジュニア柔道選手権大会(100kg級) 優勝
2004年:講道館杯全日本柔道体重別選手権大会(100kg級) 優勝(史上3人目の高校生王者)
2004年:韓国国際柔道大会(100kg級) 優勝
2005年:嘉納治五郎杯国際柔道大会(無差別級) 3位
2005年:フランス国際柔道大会(100kg級) 3位
2005年:ハンガリー国際柔道大会(100kg級) 準優勝
2005年:全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg級) 3位
2005年:全日本学生柔道優勝大会(国士舘大学) 準優勝
2005年:講道館杯全日本柔道体重別選手権大会(100kg級) 優勝(連覇)
2005年:韓国国際柔道大会(100kg級) 優勝(連覇)
2006年:嘉納治五郎杯国際柔道大会(100kg級) 準優勝
2006年:オーストリア国際柔道大会(100kg級) 優勝
2006年:全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg級) 3位
2006年:全日本柔道選手権大会 優勝 (初出場・史上最年少での優勝)
2006年:全日本学生柔道優勝大会(国士舘大学) 優勝
2006年:ワールドカップ柔道国別団体選手権出場
2006年:ドーハアジア競技大会(100kg級) 準優勝
2007年:全日本柔道選手権大会 準優勝
2007年:嘉納治五郎杯東京国際柔道大会(100kg超級)優勝
2008年:オーストリア国際柔道大会(100kg超級) 優勝
2008年:カザフスタン国際柔道(100kg超級) 優勝
2008年:全日本柔道選手権大会 優勝
2008年:北京オリンピック柔道競技(100kg超級) 金メダル(最重量級最年少王者)
投稿者 格闘技の王子様 21:54 | コメント(0) | トラックバック(0)

イゴール・ボブチャンチン

イゴール・ボブチャンチン(Igor Vovchanchyn、男性、1973年8月6日 - )[1]は、ウクライナ出身の総合格闘家。現在はハルキウ州ハルキウ市に在住。
独特の軌道を描いて放たれる強烈なパンチ、ロシアン・フックを武器に、敵を次々と薙ぎ倒していく姿から、「北の最終兵器」という異名を持つ。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 戦績
3.1 総合格闘技
3.2 キックボクシング
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

桜庭和志をして「気が狂いそうになるほど痛い」と言わしめたロシアン・フックで築いたKO勝ちから、彼は日本の総合格闘技イベントPRIDEの名物的存在となった。『PRIDE GP 2000』では数々の強豪を退け、準優勝に輝いている。
学生時代に陸上競技を経験した後、オレッグ・タクタロフの元でボクシングを学ぶ。さらにキックボクシングをベースにレスリングや関節技を習得し[2]、1990年代半ばから母国ウクライナ、ロシア共和国、ベラルーシなど旧ソビエト連邦の諸国での総合格闘技の大会に出場した。
日本へは、1998年のPRIDE.4のゲーリー・グッドリッジ戦でPRIDEデビュー。以後は、PRIDEを主戦場とした。PRIDEではヘビー級(体重無制限)のハードパンチャーの打撃系選手として活躍していたが、次第に本来のヘビー級の骨格を持つ選手に対し成績がふるわず、2005年頃より本格的にミドル級(93kg以下)に転向。総合格闘技デビュー当時は90kgであったこともあり減量に成功し、かつての大きな腹が腹筋の割れた腹に変わってスマートになり、ミドル級の強豪選手としてPRIDEミドル級GP2005に復活を賭けたが、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDでアリスター・オーフレイムを相手に2回戦負けになった。 1999年7月18日、K-1 DREAM '99でK-1に挑戦したが、アーネスト・ホースト相手にローキックでKO負けした。
母国でレストラン経営をしており、ビジネスで生活を営むことができる環境にあり[3]、2005年のPRIDEでの中村和裕戦を最後に4年間戦いから遠ざかった。2007年のアブダビコンバットでは99kg未満級に出場予定だったが、これも怪我により欠場となった。2008年には現役を引退する意向であることをインタビューで明らかにした。ハードパンチャー故の故障により、両肘にはボルトが埋め込まれ、数々の激闘で負った怪我を治すため、大規模な手術を繰り返していると言う。本人曰く、「もう右手で物を殴ることも出来ない」とのこと[2]。ボブチャンチンの日本での代理人を務める川崎浩市は完全に引退が決まったわけではないとこの報道を否定している[4]。
エピソード [編集]

母国で車を運転中、あまりの怪力のためにハンドルをもぎ取ってしまった。
専属の通訳兼マネージャー(通称:オバチャンチン)は変な日本語を話すことで名物キャラクターとなっている。
戦績 [編集]

総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
57 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
45 勝 24 14 7 0 1 1
10 敗 1 6 3 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 中村和裕 2R終了 判定0-3 PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦
【ミドル級GP リザーブマッチ】 2005年8月28日
× アリスター・オーフレイム 1R 1:20 フロントチョーク PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND
【ミドル級GP 2回戦】 2005年6月26日
○ 近藤有己 3R終了 判定3-0 PRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦
【ミドル級GP 1回戦】 2005年4月23日
○ 高橋義生 1R 1:10 KO(スタンドでのパンチ) PRIDE.29 SURVIVAL 2005年2月20日
○ セルゲイ・テレジモフ 1R ヒールホールド Water of Peresvit 2004年12月4日
○ 藤井軍鶏侍 1R 4:02 TKO(右フック→サッカーボールキック) PRIDE 武士道 -其の伍- 2004年10月14日
○ ダン・ボビッシュ 2R 1:45 TKO(グラウンドでのパンチ) PRIDE.27
【PRIDE GP サバイバルマッチ】 2004年2月1日
× ミルコ・クロコップ 1R 1:29 KO(左ハイキック) PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦
【ヘビー級ワンマッチ】 2003年8月10日
○ ボブ・シュライバー 2R 4:05 チョークスリーパー It's Showtime 2003年6月8日
× クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン 1R 7:17 TKO(グラウンドでのパンチ) PRIDE.22 2002年9月29日
× ヒース・ヒーリング 3R終了 判定0-3 PRIDE.19 2002年2月24日
○ ヴァレンタイン・オーフレイム 1R 4:35 ヒールホールド PRIDE.18 2001年12月23日
○ リカルダス・ロセヴィチュス 2R TKO(ローキック) Rings Lithuania: Bushido Rings 3 2001年11月10日
× マリオ・スペーヒー 1R 2:52 肩固め PRIDE.17 2001年11月3日
○ 佐竹雅昭 3R終了 判定3-0 PRIDE.15 2001年7月29日
○ ギルバート・アイブル 1R 1:52 チョークスリーパー PRIDE.14 2001年5月27日
× トレイ・テリグマン 3R終了 判定0-3 PRIDE.13 2001年3月25日
○ マーク・ケアー 延長R終了 判定3-0 PRIDE.12 2000年12月23日
○ 高田延彦 2R 3:17 ギブアップ(パウンド) PRIDE.11 2000年10月31日
○ エンセン井上 1R終了 TKO(ドクターストップ) PRIDE.10 2000年8月27日
○ 松井大二郎 1R 5:03 TKO(右眉カット) PRIDE.9 2000年6月4日
× マーク・コールマン 延長2R 3:09 ギブアップ(グラウンドでの膝蹴り) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦 2000年5月1日
○ 桜庭和志 1R終了 TKO(タオル投入) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦
【準決勝】 2000年5月1日
○ ゲーリー・グッドリッジ 1R 10:14 TKO(スタンドでのパンチ) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦
【準々決勝】 2000年5月1日
○ アレクサンダー大塚 1R終了 判定3-0 PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦
【1回戦】 2000年1月30日
○ フランシスコ・ブエノ 1R 1:23 KO(パンチ連打) PRIDE.8 1999年11月21日
- マーク・ケアー 無効試合 PRIDE.7 1999年9月12日
○ カーロス・バヘット 延長R終了 判定2-1 PRIDE.6 1999年7月4日
○ ヴェプコ・バルダナシヴィリ ラウンド不詳 チョーク InterPride 1999: Heavyweight Final 1999年5月8日
○ 小路晃 2R終了 判定5-0 PRIDE.5 1999年4月29日
○ エジソン・カルヴァーリョ 1R 3:16 TKO(右フック) World Vale Tudo Championship 7 1999年2月2日
○ アロイジオ・フレイタス・ネート 1R 7:26 ギブアップ World Vale Tudo Championship 6 1998年11月1日
○ ゲーリー・グッドリッジ 1R 5:58 KO PRIDE.4 1998年10月11日
○ ローマン ・チクーノフ 1R 2:15 KO MPS 1996 - 世界のカ人1996 1996年1月23日
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
キックボクシング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× アーネスト・ホースト 3R 0:51 KO(右ローキック) K-1 DREAM '99 1999年7月18日
脚注 [編集]

^ ウクライナ語名はイーホル・ヤロスラーヴォヴィチ・ヴォウチャーンチン(Ігор Ярославович Вовчанчин)、ロシア語名はイーゴリ・ヤロスラーヴォヴィチ・ヴォフチャーンチン(Игорь Ярославович Вовчанчин)。
^ a b Igor Vovchanchyn in exclusive interview Mix Fight M-1 2008年2月10日
^ 『kamipro』No.106、エンターブレイン、2006年。日本での代理人の川崎浩市コラムより。
^ 『kamipro』No.120、エンターブレイン、2008年。川崎浩市コラム。
投稿者 格闘技の王子様 21:54 | コメント(0) | トラックバック(0)

池本誠知

池本 誠知(いけもと せいち、男性、1975年8月24日 - )は、日本の総合格闘家、プロレスラー。大阪府松原市出身。総合格闘技スタジオSTYLE主宰。元DEEPウェルター級王者。
目次 [非表示]
1 来歴
2 人物
3 戦績
3.1 プロ総合格闘技
3.2 キックボクシング
3.3 グラップリング
3.4 アマチュア総合格闘技
4 獲得タイトル
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

シュートレスリング、柔道、レスリング、空手、ボクシング等の数々の格闘技経験を持つ。
1999年10月29日、修斗でプロデビュー。
2000年10月9日、修斗でダミアン・リシオと対戦し、マウントパンチでTKO勝ち。
2002年9月28日、地元大阪のクラブで格闘技イベント「REDZONE」を立ち上げ、2005年まで全10回開催した。
2003年7月13日、DEEP初参戦となったDEEP 11で佐々木恭介と対戦し、判定勝ち。
2003年12月26日、KAIENTAI-DOJO興行でプロレスデビュー。
2004年7月3日、DEEP 15で開催されたDEEPウェルター級トーナメントの1回戦で青木真也と対戦し、一本負け。
2005年2月26日、Euphoria MFCでエディ・アルバレスと対戦し、パウンドでTKO負け。
2005年3月6日に旗揚げされた総合格闘技、ヒップホップ、ダンスのコラボレーションイベント「REALRHYTHM(リアルリズム)」のスーパーバイザーを務めた。池本もメインイベントで中村大介と対戦予定であったが、Euphoria MFCでのTKO負けによりドクターストップとなり、長南亮とのエキシビションマッチを行った。
2005年9月3日、DEEP 20で長谷川秀彦と対戦し、判定勝ち。
2006年3月4日、REALRHYTHM 3で行われたDEEPウェルター級タイトルマッチで中尾受太郎と対戦し、判定負け。
2006年4月2日、PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道 -其の拾-でイーブス・エドワーズと対戦し、判定負け。同年8月26日、PRIDE 武士道 -其の十二-の武士道挑戦試合で中村大介と対戦し、一本負け。
2007年7月2日、総合格闘技スタジオ「STYLE」を大阪市城東区にオープン。
2008年7月27日、DEEP 36で王者長谷川秀彦とDEEPウェルター級タイトルマッチで対戦し、判定勝ち。第3代DEEPウェルター級王者となった。試合後のリング上でDREAM参戦をアピールした[1]。
2009年2月20日、DEEP 40で門馬秀貴とDREAMウェルター級GP出場権を賭け5年振りの再戦。両拳を合わせて打つ新技「ダブルパンチ」でTKOし、GP出場権を獲得した[2]。
2009年4月5日、DREAM.8のウェルター級グランプリ1回戦でマリウス・ザロムスキーと対戦し、0-3の判定負けを喫した。
2010年1月24日、DEEP 45 IMPACTのDEEPウェルター級タイトルマッチで白井祐矢と対戦し、0-5の判定負けで王座から陥落した[3]。
2010年6月6日、DEEP CAGE IMPACT 2010 in OSAKAのメインイベントで松下直揮と対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。
2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINALで山本優弥と初挑戦となるK-1ルールで対戦し、2Rに3度のダウンを奪われKO負けを喫した。
人物 [編集]

「ダブルパンチ」、「エアハンマー」、「ホワイトキャット」等の数々のオリジナル技を持つ。ダブルパンチはトレーナーが考案したものだが、動物園に通い動物の動きからヒントを得て開発することが多い。また、その際には動物の動きを真似する動物トレーニングも行う。
戦績 [編集]

プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
41 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
19 勝 7 4 8 0 5 0
17 敗 2 6 9 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 松下直揮 5分3R終了 判定2-0 DEEP CAGE IMPACT 2010 in OSAKA 2010年6月6日
× 白井祐矢 5分3R終了 判定0-5 DEEP 45 IMPACT
【DEEPウェルター級タイトルマッチ】 2010年1月24日
× タレック・サフィジーヌ 5分2R終了 判定0-3 DREAM.10 ウェルター級グランプリ2009 決勝戦
【ウェルター級グランプリ リザーブマッチ】 2009年7月20日
× マリウス・ザロムスキー 2R(10分/5分)終了 判定0-3 DREAM.8 ウェルター級グランプリ2009 開幕戦
【ウェルター級グランプリ 1回戦】 2009年4月5日
○ 門馬秀貴 1R 1:42 TKO(左ストレート→パウンド) DEEP 40 IMPACT
【DREAMウェルター級GP出場者決定戦】 2009年2月20日
○ 長谷川秀彦 5分3R終了 判定3-0 DEEP 36 IMPACT
【DEEPウェルター級タイトルマッチ】 2008年7月27日
○ ソ・ドゥウォン 1R 2:56 ヒールホールド DEEP PROTECT IMPACT in OSAKA 2007年12月22日
△ 國奥麒樹真 5分3R終了 判定1-0 DEEP 32 IMPACT 2007年10月9日
○ ハン・スーファン 5分3R終了 判定3-0 DEEP 30 IMPACT 2007年7月8日
× 中村大介 1R 3:12 腕ひしぎ十字固め PRIDE 武士道 -其の十二-
【武士道挑戦試合】 2006年8月26日
○ 松下直揮 1R 2:26 TKO(カット) REALRHYTHM 4th STAGE 2006年7月30日
× イーブス・エドワーズ 2R(10分/5分)終了 判定0-3 PRIDE 武士道 -其の拾- 2006年4月2日
× 中尾受太郎 5分3R終了 判定0-3 REALRHYTHM 3rd STAGE
【DEEPウェルター級タイトルマッチ】 2006年3月4日
○ オ・ウォンジン 2R 4:58 KO REALRHYTHM 2nd STAGE 2005年11月19日
○ 長谷川秀彦 5分3R終了 判定3-0 DEEP 20th IMPACT 2005年9月3日
× エディ・アルバレス 2R 4:25 TKO(パウンド) Euphoria MFC: USA vs. WORLD 2005年2月26日
○ 原学 1R 1:15 腕ひしぎ十字固め REDZONE.10 2005年2月13日
○ 久保輝彦 1R 4:58 腕ひしぎ十字固め club DEEP 大阪 2004年11月28日
○ 立原基大 1R 1:49 横三角絞め REDZONE.9 2004年10月3日
× 青木真也 2R 0:52 腕ひしぎ十字固め DEEP 15th IMPACT
【DEEPウェルター級トーナメント 1回戦】 2004年7月3日
× 久保輝彦 1R 1:34 KO REDZONE.8 2004年6月6日
○ 長岡弘樹 5分3R終了 判定3-0 DEEP 14th IMPACT in OSAKA 2004年4月18日
× 門馬秀貴 2R 3:53 肩固め DEEP 13th IMPACT in KORAKUEN HALL 2004年1月22日
○ 木村仁要 1R終了時 TKO(顔面カット) club DEEP 5th in デルフィンアリーナ 2003年12月7日
△ 男!徳岡 5分2R終了 判定1-0 修斗 2003年10月12日
○ 佐々木恭介 5分3R終了 判定3-0 DEEP 11th IMPACT in OSAKA 2003年7月13日
× 菊地昭 2R 1:28 腕ひしぎ十字固め 修斗 2003年6月27日
× ショーニー・カーター 5分3R終了 判定0-3 修斗 2003年3月18日
○ 岩瀬茂俊 5分2R終了 判定2-0 修斗 2002年10月27日
× デイブ・ストラッサー 1R 3:10 チョークスリーパー 修斗 2002年6月29日
× 和田拓也 5分3R終了 判定0-3 修斗 2002年2月11日
× 加藤鉄史 5分3R終了 判定0-3 修斗 2001年12月16日
× スティーブ・バーガー 3R 2:10 腕ひしぎ三角固め 修斗 2001年8月26日
○ ジェイ・バック 2R 3:03 TKO(パンチ) HOOKnSHOOT 2001年5月26日
○ 大河内貴之 1R 4:01 KO(膝蹴り) 修斗 2001年2月18日
○ ダミアン・リシオ 1R 2:09 TKO(マウントパンチ) 修斗 2000年10月9日
△ 鶴屋浩 5分2R終了 判定0-0 修斗 2000年8月27日
× 川勝将軍 5分2R終了 判定0-3 修斗 2000年8月4日
△ 和田拓也 5分2R終了 判定0-1 修斗 2000年5月22日
△ 楠勇次 5分2R終了 判定1-0 修斗 2000年4月2日
○ ザ・ばばんば 5分2R終了 判定3-0 修斗 1999年10月29日
キックボクシング [編集]
キックボクシング 戦績
1試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
0勝 0 0 0 0 0
1敗 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 山本優弥 2R 2:22 KO(3ノックダウン:パンチ連打) K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINAL 2010年11月8日
グラップリング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 梅田恒介 2R 1:13 アームロック CLUB DEEP TOKYO in 新宿FACE【グラップリングルール】 2008年3月29日
○ 佐々木信治 5分2R終了 判定3-0 club DEEP 福岡 天下一祭り【グラップリングルール】 2005年4月10日
○ 澤田拓也 1R 2:11 スリーパーホールド REDZONE.7【REDZONEキャッチルール】 2004年3月7日
○ 甲斐俊光 2R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.6【REDZONEキャッチルール】 2003年11月9日
△ 杉浦"C坊主"博純 延長R終了 判定 REDZONE.5【REDZONEキャッチルール】 2003年8月24日
× 花井岳文 1R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.4【REDZONEキャッチルール】 2003年5月11日
○ 辻嘉一 2R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.3【REDZONEキャッチルール】 2003年3月2日
○ 高江州朝也 2R 腕ひしぎ十字固め REDZONE.2【REDZONEキャッチルール】 2002年11月30日
○ 砂田勝彦 2R フロントチョーク REDZONE【REDZONEキャッチルール】 2002年9月28日
アマチュア総合格闘技 [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 樫本真也 1R 2:36 アンクルロック 浪速フリーファイト 5 1999年3月14日
獲得タイトル [編集]

第3代DEEPウェルター級王座
投稿者 格闘技の王子様 21:53 | コメント(0) | トラックバック(0)

├─≠ョ─ヵラスとクリス・キャンディード

├─≠ョ─ヵラス 彼氏キャラ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス ラリー・シャープ主宰のモンスター・ファクトリーでトレーニング後、1986年に14歳でデビュー。
投稿者 格闘技の王子様 19:32 | コメント(0) | トラックバック(0)

クリス・アダムス

"ジェントルマン" クリス・アダムス("Gentleman" Chris Adams)のリングネームで知られるクリストファー・アダムス(Christopher Adams、1955年2月10日 - 2001年10月7日)は、イギリス・ウォリックシャー出身のプロレスラー。モスクワとロサンゼルスの両オリンピックで銀メダルを獲得した柔道家のニール・アダムスは実弟である。
1980年代から1990年代にかけて、アメリカ合衆国のテキサス地区を主戦場に活躍。その甘いマスクで女性ファンの人気を獲得する一方、ジノ・ヘルナンデスとのヒール・タッグチーム、ダイナミック・デュオ(The Dynamic Duo)でも悪名を売った。ストーン・コールド・スティーブ・オースチンの師匠としても知られている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

少年時代から格闘技に励み、柔道や空手の段位も取得。イギリスを代表するプロレスラーのビッグ・ダディやトニー・シンクレア(トニー・セント・クレアー)のトレーニングを受け、1978年に英国でデビュー。武道のバックグラウンドをキャラクターに活かし、当時は "ジュードー" クリス・アダムスまたは "ブラックベルト" クリス・アダムスと名乗っていた。
1980年にアメリカ・マット界に進出し、西海岸のLA地区に参戦。1981年にはボボ・ブラジルを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得した[1]。同年5月にLAとの提携ルートで新日本プロレスに初来日し、MSGシリーズの第4回大会に出場。リーグ戦ではキャリア不足と軽量が響き白星配給係となったが、そのフレッシュでイキのいいファイトスタイルで高評価を獲得。以降も新日本の常連外国人となり、藤波辰巳や初代タイガーマスクと好勝負を展開した。また、新日本のブッキングでメキシコのUWAにも遠征し、1981年10月18日にはペロ・アグアヨからWWFライトヘビー級王座を奪取している。
1983年より "ジェントルマン" クリス・アダムスを名乗り、フリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWに定着。英国からやって来たフォン・エリック兄弟の友人としてベビーフェイス人気を獲得し、ジミー・ガービンやファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)と抗争、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。しかし1984年9月、ケビン・フォン・エリックとの仲間割れアングルが組まれヒールに転向。翌1985年には同じ色悪系の"ゴージャス" ジノ・ヘルナンデスと "ダイナミック・デュオ" を結成し、NWAアメリカン・タッグ王座を巡ってケビン&ケリー・フォン・エリックと熾烈な抗争を繰り広げた[2]。
1986年2月にヘルナンデスが急死してからはベビーフェイスに戻り、リック・ルードとの抗争を開始。同年7月4日にはルードからWCWA(WCCW)世界ヘビー級王座を奪取している[3]。1987年にはミッドサウス地区のUWF(ビル・ワット主宰)にも参戦し、2月7日に行われたUWF世界タッグ王座決定トーナメントにテリー・テイラーとのコンビで出場。決勝で若手ヒール時代のスティング&リック・スタイナーを破り、チャンピオン・チームとなった[4]。
1988年の末からはダラスでプロレスリング・スクールを開校し、スティーブ・オースチンらを育成する。ダラスのWCCWがテネシー州メンフィスのCWA(ジェリー・ジャレット&ジェリー・ローラー主宰)と業務提携を結び1989年にUSWAが発足すると、同団体にて弟子のオースチンの抗争相手も務めた[5]。
1991年にWWFのトライアウトを受けるが契約は見送られ、WCCWの後継団体ともいえるダラスのGWFに定着。1993年12月と1994年7月の2度に渡り、同団体認定の北米ヘビー級王座に就く[6]。以降もメンフィスのUSWAやシカゴのAWFなどのインディー団体を転戦し、1997年にはWCWに登場。ロード・スティーブン・リーガルとも英国人コンビを組んだが本格的なタッグチーム結成には至らず、ミッドカードに出場するジョバーのポジションに甘んじ、1999年にWCWを解雇された。
その後はダラス周辺のインディー団体に単発参戦していたが、2000年4月、ドラッグとアルコールの過剰摂取で愛人と一緒に無意識状態になっているところを知人宅で発見される。愛人は数時間後に死亡、アダムスは故殺罪に問われたが、裁判を控えた2001年10月7日、酒の上での喧嘩がもとで友人に正当防衛として射殺された[7]。46歳没。
得意技 [編集]

スーパーキック
エンズイギリ
ドロップキック
スリーパーホールド
獲得タイトル [編集]

NWAハリウッド・レスリング(ロサンゼルス地区)
NWAアメリカス・ヘビー級王座:2回
NWAアメリカス・タッグ王座:2回(w / トム・プリチャード、リンゴ・リグビー)
WCCW(ダラス地区)
NWAアメリカン・ヘビー級王座:4回
NWAアメリカン・タッグ王座:2回(w / ジノ・ヘルナンデス)
NWAテキサス・ブラスナックル王座:1回
NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
NWA世界6人タッグ王座:2回(w / ジノ・ヘルナンデス&ジェイク・ロバーツ、スティーブ・シンプソン&ケビン・フォン・エリック)
WCCW TV王座:3回
WCWA TV王座:1回
WCWA世界ヘビー級王座:1回
その他
WWFライトヘビー級王座:1回
UWF世界タッグ王座:1回(w / テリー・テイラー)
GWF北米ヘビー級王座:2回
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クラッシャー・リソワスキー

クラッシャー・リソワスキー(Crusher Lisowski、1926年7月11日 - 2005年10月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ウィスコンシン州サウスミルウォーキー出身のポーランド系アメリカ人。本名はレジナルド・リソワスキー(Reginald Lisowski)。生年月日、出自、デビュー年に関しては不明な点が多く、出身地はペンシルベニア州ピッツバーグという説もある。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

若い頃は不良少年で、煉瓦積みの職人、ハイウェイ・パトロールの警察官などの職業を経た。1949年(1950年とも)、24歳でプロレス入り。レジー・リソワスキー(Reggie Lisowski)の名でリングに上がりスタンレー・リソワスキーとタッグで活躍した。
1963年2月15日、ネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破ってAWA世界ヘビー級王座(オハマ版)を奪取。
同年7月9日、ミネソタ州ミネアポリスでバーン・ガニアを破ってAWA世界ヘビー級王座(ミネアポリス版)を奪取。
1963年8月20日、同地でディック・ザ・ブルーザーと組んでAWA世界タッグ王座を奪取(以降、ブルーザーとのコンビで計4回、コンビを変え計4回の奪取に成功)。
1963年11月29日、ミネソタ州セントポールでバーン・ガニア再度AWA世界ヘビー級王座(オハマ版)を奪取。
1965年8月21日、同地でマッドドッグ・バションを破り統一されたAWA世界ヘビー級王座を奪取。
1967年12月、日本プロレスに初来日しジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。
1969年8月11日、日本プロレス、札幌中島スポーツセンターでジャイアント馬場&アントニオ猪木(BI砲)を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。
1972年11月、国際プロレスに来日。11月27日にブルーザーと組んでストロング小林&グレート草津と日本初の金網デスマッチによるタッグ戦を行う。
1976年1月、全日本プロレスに最後の来日。
1984年5月6日、バロン・フォン・ラシクと組んでクラッシャー・ブラックウェル&ケン・パテラを破りAWA世界タッグ王座を奪取。これが最後の載冠となる。
1986年、WWFにスポット参戦。ジャイアント・マシーン、スーパー・マシーン、ビッグ・マシーンらのWWF版マシーン軍団の一員として、覆面レスラーのクラッシャー・マシーン(Crusher Machine)を名乗る。素顔でもハルク・ホーガンとタッグを組み、ビッグ・ジョン・スタッド&キングコング・バンディと対戦した。
1989年頃、WWFで引退。
2005年10月22日、ミルウォーキーの病院で脳腫瘍のため死去。
得意技 [編集]

パンチ攻撃
フルネルソン
獲得タイトル [編集]

AWAブラスナックル王座:1回
AWA世界ヘビー級王座(ミネアポリス版):2回
AWA世界ヘビー級王座(オマハ版):1回
AWA世界タッグ王座:9回(w / ディック・ザ・ブルーザー×5、バーン・ガニア、レッド・バスチェン、ビル・ロビンソン、バロン・フォン・ラシク)
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / トミー・リッチ)
NWAカナディアン・オープンタッグ王座:1回(w / スタン・リソワスキー)
NWA世界タッグ王座(シカゴ版):3回(w / アート・ネルソン、スタン・リソワスキー×2)
NWA世界タッグ王座(ミネアポリス版):2回(w / スタン・リソワスキー)
WWA世界タッグ王座:6回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
ブリティッシュ・オープンタッグ王座:1回(w / スタン・リソワスキー)
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ジェリー・ブラックウェル

ジェリー・ブラックウェル("Crusher" Jerry Blackwell、1949年4月26日 - 1995年1月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州ストーンマウンテン出身。
選手時代は主にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームで知られ、アメリカではAWA、日本では全日本プロレスを主戦場に巨漢レスラーとして活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

ジノ・ブリット(後のWWWF世界タッグ王者ルイス・セルダン)のコーチを受け、1974年にプロレスラーとしてデビュー。カンザスシティのセントラル・ステーツ地区でマイク・ジョージらと対戦してキャリアを積み、1976年にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームでニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。巨漢の若手ヒールとしてバグジー・マグローなどとタッグを組んで頭角をあらわし、1978年の2度目のNYサーキットでは新WWF王者ボブ・バックランドとも対戦してネームバリューを高めた[1]。
1979年はアラバマ地区(テネシー州ノックスビルまでをサーキット・エリアとするサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)に進出。ジ・インベーダー(ボブ・オートン・ジュニア)とディック・スレーターをパートナーに、サウスイースタン・タッグ王座を2度に渡って獲得している[2]。その後、1980年よりAWAに登場。1981年にはイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)と悪役トリオを結成し、当時AWAで人気沸騰中だったハルク・ホーガンと抗争を展開。ホーガンの助っ人としてAWAに参戦したアンドレ・ザ・ジャイアントも巻き込み、スーパーヘビー級の肉弾戦を繰り広げた。
並行してNWA圏にも転戦し、1983年4月15日、ミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムでケリー・フォン・エリックからミズーリ・ヘビー級王座を奪取。1か月後にハーリー・レイスに敗れ短命王者となったが、1984年11月16日にレイスから奪回に成功。翌年8月に再びレイスに奪還されるまで、当時のNWAの実質的なナンバー2タイトルである同王座を死守した[3]。
その間、AWAでは悪徳マネージャーのシーク・アドナン・アル=ケイシーに感化され、アラブ人ギミックへの変身を果たした。シーク・アヤトーラ・ブラックウェル(Sheik Ayatollah Blackwell)を名乗り、ロレンス・オブ・アラビアことケン・パテラと偽アラブ人コンビ「ザ・シークス」を結成。1983年6月26日、ハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)を破りAWA世界タッグ王座を獲得した。同王座は翌1984年5月6日にザ・クラッシャー&バロン・フォン・ラシクに奪われるが、ジェリー・ローラー&ブラックジャック・マリガンなどの強豪チームを相手に1年間近く防衛を続けた[4]。王座転落後にパテラがWWFに移籍してからは、中東ギミックの先達アブドーラ・ザ・ブッチャーとも一時的にタッグを組んでいる。
1984年の下期、マネージャーのアドナンと仲間割れしてベビーフェイスに転向。リングネームも本名のジェリー・ブラックウェルに戻し、子供たちのヒーロー的存在となる。1985年にはWWFから移籍してきたサージェント・スローターとのコンビでロード・ウォリアーズやファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)とも抗争した。
WWF移籍の噂が何度となくあったが、その後も一貫してAWAに定着、体調を崩し1980年代後半からは試合出場を控えるようになったものの、最末期までAWAを支え続けた。1995年1月22日、肝炎のため45歳で死去[5]。
日本での活躍 [編集]
1970年代後半にWWWFに上がっていたが新日本プロレスに来ることはなく、日本には1977年の初来日以来、全日本プロレスの常連外国人として通算7回に渡って来日している。2回目の来日となる1979年の10月22日にはジャンボ鶴田のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に挑戦。1984年9月3日には、ジャイアント馬場の王座返上で空位となっていたインターナショナル・タッグ王座決定戦にブルーザー・ブロディのパートナーとして出場、鶴田&天龍源一郎に敗れるが、この試合は鶴龍コンビが初載冠を飾ったメモリアルマッチとなった。最後の来日はフィル・ヒッカーソンとのコンビで参加した世界最強タッグ決定リーグ戦の1988年大会。このときは川田利明のキック攻撃に激昂し、試合後に控え室へ殴り込む一幕も見られたという。
エース級の存在ではなかったものの、そのボリューム満点の体型から繰り出す肉弾攻撃は観客を大いに沸かせ、身長と体重の公称サイズが同じ(180cm、180kg)[5]というインパクトも手伝ってプロレスファンの認知度は高かった。また、アンコ型の巨漢ながらドロップキックをこなすなど、1980年代後半にバンバン・ビガロが登場するまではキラー・トーア・カマタと並んで「動けるデブ」の代表格だった[6]。
得意技 [編集]

ダイビング・ボディ・プレス
エルボー・ドロップ
ドロップキック
獲得タイトル [編集]

NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / バック・ロブレイ)
NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジ・インベーダー、ディック・スレーター)
NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
AWA世界タッグ王座:1回(w / ケン・パテラ)
CWAスーパーヘビー級王座:1回
投稿者 格闘技の王子様 19:29 | コメント(0) | トラックバック(0)