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格闘技の王子様 実はかの有名な格闘技の王子様は├─≠ョ─ヵラスであった

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ラッセル・クロウ

ラッセル・アイラ・クロウ(Russell Ira Crowe、1964年4月7日 - )は、ニュージーランド出身の俳優。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
1.3 人物・私生活
2 主な出演作品
3 主な受賞
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

生い立ち [編集]
ニュージーランド・ウェリントン出身。ノルウェー、アイルランド、スコットランド、ウェールズの血を引く[1][2]。両親が映画の撮影現場のケータリング業を営んでおり[3]、4歳の時にオーストラリアに移住。6歳の時にドラマに出演するチャンスを掴み、何本かのオーストラリアのテレビに出演。
14歳の時にニュージーランドに戻り、オークランド・グラマー・スクールに進学するが、中退。ロックバンドに参加しシングルを出す。21歳の時に再びオーストラリアに移る。
キャリア [編集]
1990年に『ザ・クロッシング』で本格的に映画デビュー(映画初主演作品でもある)。1995年に『クイック&デッド』でハリウッドにも進出、以来、非常に多彩な役をこなせる俳優として注目されている。
2000年公開の『グラディエーター』でアカデミー主演男優賞を受賞。翌年公開の『ビューティフル・マインド』でゴールデングローブ賞 主演男優賞(ドラマ部門)を受賞。
オーストラリアのロックバンド「30 Odd Foot Of Grunts」のリードシンガー、ギターリストでもある。1992年より活動しているバンドは商業的に成功を収めたわけではないが、これまで三枚のアルバムを出している。ナショナル・ラグビー・リーグのサウス・シドニー・ラビッツのオーナーでもある。2001年8月に30 Odd Foot Of Gruntsはテキサス州知事リック・ペリーの娘を祝うチャリティー・コンサートを開催した。クロウとペリー知事はアルバム「バスタード・ライフ・オア・クラリティー」のレコーディングをきっかけに知り合ったという。また、同州オースティン市の市長は、8月11日を「30 Odd Foot Of Gruntsの日」にすると宣言しており、さらに、クロウをテキサス州の名誉市民にすることも宣言した[4]。2010年4月12日にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームを授与。
2000年代は、『グラディエーター』、『プロヴァンスの贈りもの』、『アメリカン・ギャングスター』、『ワールド・オブ・ライズ』、『ロビン・フッド』と、リドリー・スコット監督作品への出演が多い。
人物・私生活 [編集]
アメリカで成功した俳優の1人でありながら、私生活では短気と粗暴な振る舞いから問題が絶えないことで有名である。
映画『プルーフ・オブ・ライフ』で共演したメグ・ライアンと不倫関係になり、メグ・ライアンの元夫デニス・クエイドからは「ラッセルは俳優として尊敬できるが、人間としてはクズだ」と激しく非難されている。メグ・ライアンは2001年に離婚するが、お互いに関係を解消している。
2003年に女優ダニエラ・スペンサーと結婚、現在二人の子供(チャールズ、テニソン)がいる。
2005年6月6日、滞在中のニューヨーク・マンハッタンのホテル(マーサー・ホテル)で、従業員と口論の末、電話機を投げつけ、暴行容疑で逮捕された[5]。彼のスポークスマンの弁によれば、電話機は壁にぶつけたもので、従業員を傷つけていないとのことである。
2006年9月に亡くなったスティーブ・アーウィンの親友であった。
2010年5月、主演した『ロビン・フッド』に関して、BBCラジオ4の番組ジャーナリスト、マーク・ローソンが、ラッセル扮するロビンフッドを評して「休暇でよくオーストラリアに行くアイルランド人のよう」と発言。そして「あなたのロビンフッドの口調には、かすかにアイルランドの訛りがありますが、どういう考えがあってのことですか?」と質問したところ、「あんたの耳は死んでるんじゃないか?あれがアイルランド訛りに聞こえたっていうなら、あんたの耳は相当おかしなことになってるよ」と一喝、その後、ローソンが慌ててフォローするも怒りは収まらず、放送禁止用語を吐きながらスタジオを出ていってしまった[6]。
投稿者 格闘技の王子様 17:58 | コメント(0) | トラックバック(0)

スタンリー・クレイマー

スタンリー・クレイマー(Stanley Kramer,1913年9月29日 - 2001年2月19日)はアメリカ合衆国ニューヨーク出身の映画監督・映画プロデューサー。
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1 略歴
2 主な監督作品
3 主な受賞
4 外部リンク
略歴 [編集]

ニューヨーク大学在学中からインターンシップで20世紀フォックスで働くようになる。その後に製作助手となり、戦時中は軍用映画の製作に携わる。1948年に自分の制作会社を設立、プロデューサーとして『シラノ・ド・ベルジュラック』『真昼の決闘』『ケイン号の叛乱』などを手がけた。1955年に映画監督としてデビュー。『手錠のまゝの脱獄』『ニュールンベルグ裁判』『招かれざる客』でアカデミー賞にノミネートされ、1961年のアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。
投稿者 格闘技の王子様 17:57 | コメント(0) | トラックバック(0)

ジョエル・グレイ

ジョエル・グレイ(Joel Grey, 本名:Joel Katz, 1932年4月11日 - )は、アメリカの舞台を中心に活躍する俳優で、出身地はアメリカのオハイオ州。 1972年の映画、『キャバレー』での演技が高く評価され、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞をはじめ数々の賞を受賞した。現在も多方面に渡って活躍している。娘のジェニファー・グレイも女優として活躍。

来歴 [編集]

父はコメディアンであったミッキー・カッツ。ジョエル自身は10歳で舞台デビューし、高校時代からナイトクラブで歌や踊りを披露していた。卒業後は演技の勉強をして1951年にブロードウェイ・デビュー。1967年にはミュージカル『キャバレー』の舞台版でトニー賞のミュージカル部門・最優秀助演男優賞を受賞。1972年、その映画化(項目:キャバレー を参照 )の際には同じ役を演じてアカデミー助演男優賞を始めとする各賞を受賞した。
投稿者 格闘技の王子様 17:56 | コメント(0) | トラックバック(0)

ジョージ・クルーニー

ジョージ・クルーニー(George Clooney、1961年5月6日-)はアメリカ合衆国の俳優、映画監督、映画プロデューサー。身長180cm(5ft11in)。
目次 [非表示]
1 プロフィール
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
1.3 映画製作
1.4 その他
2 私生活
3 主な作品
3.1 テレビ
3.2 映画
3.3 製作
3.4 CM
4 主な受賞
5 脚注
6 外部リンク
プロフィール [編集]

生い立ち [編集]
ケンタッキー州レキシントン出身。父のニック・クルーニーは映画評論家兼ニュースキャスターで、義叔父は俳優でアカデミー主演男優賞受賞者のホセ・フェラー。叔母は歌手のローズマリー・クルーニーである。父方からアイルランドの血をひいている[1][2]。学校では「A(優)」か「B(良)」しかなかったと自身で語っている[3]。高校時代はバスケットと野球に打ち込み、野球選手になることを夢見て、1977年にメジャーリーグのシンシナティ・レッズのトライアウト(新人テスト)を受けるが、一次選考を通らずに不合格となり諦めた[4][5]。1979年から1981年までノーザンケンタッキー大学、わずかな期間だがシンシナティ大学に在籍したが、どちらも卒業していない[5][6]。従兄弟であるミゲル・ファーラーが製作した映画に端役として出演したことがきっかけで俳優になることを志し退学。
キャリア [編集]
1982年にロサンゼルスに渡り、叔母の知り合いからテレビドラマの端役をもらいデビュー。1984年に映画デビューを果たすも一向に大きな役をもらえず長い下積み生活が続く。売れなかった時期は、ドラマの撮影現場で親しくなった男性のアパートメントへ転がり込み、そこのクローゼットで暮らしたという。業界人の叔母を頼ってコネで仕事を始めたが、生活の援助は一切断った[4]。
32歳のときに、テレビドラマシリーズ『ER緊急救命室』のオーディションを受ける。これで芽が出なければケンタッキーへ戻ろうと決めており、ズボンのポケットにケンタッキー行きの長距離バスのチケットを忍ばせていた[4]。結果、約100人の候補者の中から小児科医ダグ・ロス役に抜擢される。1994年の放送開始とともに人気は上昇、一躍人気者になった。映画『スリー・キングス』にて、メスを握るシーンは当時『ER』のファンに向けられた1シーンである。『オー・ブラザー!』、『パーフェクト ストーム』、『オーシャンズ11』といった大ヒット作に立て続けに出演し、ハリウッドを代表する二枚目俳優として活躍している。
ニュースキャスターであった父親の影響を強く受けたためか、政治に関する造詣が深く、1950年代に巻き起こった「赤狩り」と、一貫して真実を報道しようと奮闘するエドワード・R・マローなどのジャーナリストを描いた『グッドナイト&グッドラック』を監督(出演も)した。また、中東の石油利権に関する問題を描いた『シリアナ』では助演のほかに製作総指揮も勤めた。第78回アカデミー賞において、『グッドナイト&グッドラック』で監督賞と脚本賞に、『シリアナ』で助演男優賞にそれぞれノミネートされ助演男優賞部門で初のオスカーを獲得した。
映画製作 [編集]
製作事業への進出には意欲的で、スティーブン・ソダーバーグと共同でプロダクション会社「セクション8(Section Eight)」を設立、『コンフェッション』で初監督を、『ロック・スター』『エデンより彼方に』『インソムニア』『オーシャンズ12』などの製作を務めた。
「セクション8」は2006年末をもって解散したが、同年、クルーニーはグラント・ヘスロブ(Grant Heslov)とのパートナーシップにて「Smokehouse Films」を立ち上げた[7]。
その他 [編集]
下積み時代には珍作『アタック・オブ・ザ・キラー・トマト』の続編『リターン・オブ・キラー・トマト』に出演している。
People誌にて、1997年と2006年の『最もセクシーな男性』に選出された。
2008年1月18日に国連の平和大使に任命された[8]。社会派映画出演や社会貢献に熱心である。これは父親の影響が大きいと『筑紫哲也 NEWS23』との対談のなかで述べている。
第80回アカデミー賞授与式で主演男優賞を逃したとき、「僕は、ヒラリー・クリントンのようなものだ」と大統領予備選挙で劣勢に立つ同候補に準えて諧謔を述べた[9]。
ダルフール紛争をめぐる平和運動に積極的に取り組んでおり、2010年10月にバラク・オバマ大統領と会談し、2011年1月に行われる南スーダンの分離・独立を問う住民選挙について、「大災害まで90日だ」と内戦勃発の可能性に言及した[10]。
私生活 [編集]

大のスポーツ好きで、若い頃にシンシナティ・レッズの入団テストに挑戦したほか、ニューヨーク・ヤンキースのファンであることを公言している。
イタリア有数の避暑地であるコモ湖に別荘を所有している。『オーシャンズ12』公開時に共演者が語ったところによると、この別荘には自身の銅像や肖像画が飾ってある。
1989年に女優のタリア・バルサムと結婚するも1993年に離婚。以降独身を貫いており、数多くの女優と浮名を流している。マックスと名付けた豚をペットとして寵愛していたが、2006年に18年連れ添った末に死んだ[11]。
2007年9月21日にニュージャージー州にて、当時交際していたサラ・ラーソンとバイクに乗っていた際に交通事故に遭う。クルーニーはあばら骨を1本を、ラーソンは足を折った[12]。同年10月9日、治療を受けた病院にてクルーニーのカルテを無断で見た医師など約40人が停職になった[13]。
投稿者 格闘技の王子様 17:56 | コメント(0) | トラックバック(0)

トム・クルーズ

トム・クルーズ(Tom Cruise, 本名: トーマス・クルーズ・メイポーザー4世(Thomas Cruise Mapother IV)、1962年7月3日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州シラキュース出身の俳優・映画プロデューサー。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
1.3 私生活
2 エピソード
3 海外での論争
3.1 サイエントロジー
3.1.1 IAS 勇敢の自由勲章の祝福動画
3.2 オプラ・ウィンフリー・ショー事件
3.3 広報係
4 主な出演作品
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]

生い立ち [編集]
曾祖父のトーマス・クルーズ・メイポーザーはウェールズからの移民である[1][2][3]。その他アイルランド・イングランド・ドイツなどの血を引く両親の間に、ニューヨーク州シラキュース市で生まれた。[4]。12歳のときに両親が離婚したため、経済的に苦しい生活を送った。学生時代はスポーツ(主にレスリング)に熱中するが挫折し、その後演劇に関心を持つようになった。
キャリア [編集]


1989年
青春映画の端役を演じた後、『卒業白書』の瑞々しい演技で注目され、1986年『トップガン』の世界的大ヒットでトップスターの仲間入りを果たした。以降、次々ヒット作に出演し、アクション大作からヒューマンドラマ、社会派作品から作家性の強いアート系作品と、出演作は幅広い。
『7月4日に生まれて』 (1989) と、『ザ・エージェント』 (1996) でアカデミー賞主演男優賞に、『マグノリア』 (1999) では助演男優賞にノミネートされ、名実ともに一流俳優として、不動の地位を手に入れた。1992年、長年のビジネスパートナー、ポーラ・ワグナーとともにパラマウント映画内に「クルーズ/ワグナー・プロダクションズ」を設立し、1996年の映画『ミッション:インポッシブル』で初めて映画プロデューサー業にも進出。
2004年に映画のプロモーションのため来日し、西武ドームで行われた日本シリーズ・西武ライオンズ対中日ドラゴンズ戦の始球式を務めた。またアテネオリンピックの聖火ランナーを務めた。
2006年8月、婚約者をめぐる様々な「奇行」に対して、パラマウント映画は一方的に14年間に及ぶ契約を打ち切る発表をした[5]。同月トム・クルーズの持つ映画製作会社「クルーズ・ワグナー・プロダクションズ」(『ミッション:インポッシブルシリーズ』の権利を持っている)に、NFLのワシントン・レッドスキンズのオーナーであるダニエル・スナイダーら投資グループが資金を拠出することになった。同年11月、ユナイテッド・アーティスツを再興する形でトム・クルーズとポーラ・ワグナーが映画制作を行う事をメトロ・ゴールドウィン・メイヤーが発表した[6]。またこれは、トム・クルーズのように、漠然と出演費が増え続ける俳優に対するハリウッドの転換期とも言われている。
その後、パラマウント映画を傘下にもつバイアコムの会長、サムナー・レッドストーンは雑誌、ピープル誌を通し「彼は素晴らしい友人だった。また友人に戻れることを望んでいる」と語った。また「私は彼を解雇になどしていない。メディアが大げさに書きたてたんだ」などとウォール・ストリート・ジャーナル誌に語ったが、トム・クルーズ本人は、その後も沈黙を貫き通していた。
しかし、現在トム・クルーズは、パラマウントと“M:I-4”への出演交渉に入っている。レッドストーンは、「トム・クルーズは素晴らしい俳優で良い友人です。パラマウントが彼を起用することに反対はしません」と語る。また、決定は「(パラマウント経営者の)ブラッド・グレイに任せてある」と付け加えた。レッドストーンとクルーズは、3月にビバリーヒルズで食事をしているところを目撃されていた。
私生活 [編集]
メリッサ・ギルバート、レベッカ・デモーネイなどとの交際を経て1987年にミミ・ロジャースと結婚するが、1990年に離婚。同年12月にニコール・キッドマンと再婚。キッドマンとは、おしどり夫婦として有名だったが、2001年に離婚。離婚成立前からペネロペ・クルスとの恋愛が公になり、結婚目前と言われたが2004年に破局している。
2006年11月25日、『バットマン ビギンズ』などに出演した女優ケイティ・ホームズとイタリアで挙式[7]。2006年4月18日、婚約者ホームズがロサンゼルスで女児(スリ・クルーズ)を出産[8]。前妻キッドマンとの間には養子が2人(イザベラ、コナー)存在するが、実子を持つのは初めてである。
幼い頃から学習障害(LD、具体的には、失読症(Dyslexia:ディスレクシア)つまり書かれた文字を読む上での障害)を持ち、自身、障害者にかかわる映画(『レインマン』)や、この障害の理解を推奨するための映画(『デイズ・オブ・サンダー』)も製作主演している。また、新興宗教であるサイエントロジーの活動(勉強の技術の実践)によりこの学習障害を克服したと語っている。この経験から学習障害児への支援活動にも取り組んでいる。 2003年8月には、『ラストサムライ』の宣伝のために来日した際、首相官邸の小泉純一郎首相を表敬訪問、日本の若者たちにと『学び方がわかる本』(ニュー・エラ・パブリケーションズ・ジャパン(株)発行、ISBN 4931223222)を首相に手渡した。 2009年1月トムは、スペインの雑誌「XLセマナル」の中で、「誰も解決策をくれなかったけれど、大人になって、サイエントロジーの教育本を読んだことで完ぺきに読解ができるようになった」と語った。
また、トムは注意欠陥・多動性障害 (ADHD) の治療薬のリタリンの使用に米国社会が依存していることを厳しく非難している。トム自身も1970年に投薬治療を勧められたが、母親がこれを断った。トムはこれを飲んでいたら今の自分はないだろうと語っている(1970年当時はまだ正式にADHDという概念はなかった)。
ニューヨーク・ヤンキースファンである。ちなみにトムが父親役を演じた『宇宙戦争』では、親はヤンキースのファン、息子はライバルチームのボストン・レッドソックスのファンという設定だった。
エピソード [編集]

他の俳優に比べ特に来日回数が多いため、日本では10月6日が「トム・クルーズ・デイ」と制定されている[9]。
派手なアクションのある映画でも原則としてスタントマンを使わず、自らスタントを行うことにこだわりを持っている。そのため車やバイクの運転技術はセミプロ級の腕前に達している。2010年にBBCの自動車番組『トップ・ギア』にゲスト出演した際は、有名人が車の運転でタイムを競う人気企画「Star in a Reasonably Priced Car」で番組通算のトップタイム(第15シーズン終了時点)を記録した。
海外での論争 [編集]

サイエントロジー [編集]
トム・クルーズはサイエントロジー教会の熱心な支持者である。 1番目の妻、ミミ・ロジャースを通じて1990年にサイエントロジーに関わるようになった[10]トム・クルーズは公に、サイエントロジー、特にL・ロン・ハバードの勉強の技術が彼がディスレクシアを克服する手助けとなったと発言してきた。[11] 人々をサイエントロジーへ導くさまざまなプログラムを支援することに加え、サイエントロジーが完全に宗教として認知されるための活動をしてきた。サイエントロジーはフランスではカルトと、ドイツではビジネスとして認識されているのだが、トム・クルーズは各国の政治家たちに対してロビー活動を行った。2005年にパリ市議会はトム・クルーズがニコラ・サルコジとジャン=クロード・ゴーダンら当局者に働きかけたことを明らかにし、彼をサイエントロジーのスポークスマンであり闘士だと描写し、トムと関わることを禁止した。[12][13] トム・クルーズはL・ロン・ハバードの著作に基づくデトックスセラピーをアメリカ同時多発テロの救助隊に提供するため、「ダウンタウン・メディカル」という名の施設に出資し、寄付金を募った。このことは医療の専門家[14]のみならず消防士たちからも非難を受けた。[15]このような活動やその他の運動を称えて、2004年の暮れ、デイヴィッド・ミスキャヴィッジはサイエントロジーの勇敢の自由勲章を与えた。
トム・クルーズが、女優のブルック・シールズが抗うつ薬のパキシルを、2003年初めての娘を生んだ後の産後うつから立ち直るために服用したことを、公に批判したときに論争が沸き起こった。トム・クルーズは証拠なしに「化学不均衡などは存在しない」と主張し、「精神医学は似非科学の一種だ」と断言した。このことによりトゥデイ (テレビ番組)の2005年6月24日放送分でマット・ラウアと激しい議論をすることとなった。[16]医学の専門家たちは「トム・クルーズのコメントは精神疾患患者に汚名を着せている」と発言し、[17][18]ブルック・シールズは「トム・クルーズのコメントの数々は母親たちにとって大変な迷惑である」と述べた。[19]2006年8月末にトム・クルーズは自らブルック・シールズに謝罪し、彼女もこれを受け入れた。[20]トム・クルーズのスポークスマンは彼と彼女は関係を修復したものの、トム・クルーズの抗うつ薬に対する立場は変わっていないことを確かにした。[20]ブルック・シールズはトム・クルーズとケイティ・ホームズの結婚式のゲストとなった。
トム・クルーズはエンターテインメント・ウィークリー誌上でインタビューを受け、精神医学を「ナチズムの科学だ」と発言し、「メタドンの本来の名前はアドルフ・ヒトラーにちなんでアドルフィンと呼ばれていた」という有名な都市伝説を引用した。[21]デア・シュピーゲル誌上で彼は「サイエントロジーにはナルコノンと言う唯一成功している薬物リハビリプログラムがあり、それは世界中で統計学上ただ一つ成功しているものだ」と発言した。ナルコノンは、その成功率は70パーセントを超えると主張しているが、[22][23]その数字の正確性は広く議論されている。[24]サイエントロジーは主流の精神医学に反対していることでよく知られている
2008年1月にデイリー・メールはアンドリュー・モートンによる伝記、『トム・クルーズ: 非公式伝記』が発行されることを明らかにして、その本によるとトム・クルーズは名義上、教会の2番目の指揮官に就いたという。この本は元教会のスタッフメンバーのマーク・ヘッドリィーとともに書かれてきたものである。[25] トム・クルーズの弁護士バート・フィールズは「その本は嘘まみれだ」と発言した。[26]
トム・クルーズはパリの名誉市民の候補にあがったことがあったが、サイエントロジーを悪質なカルトと見ているフランスの事情もあり、結局はパリの市議会は彼をサイエントロジー信者であるという理由で名誉市民にしなかった。 また。米国のアニメ「サウス・パーク」で、サイエントロジー信者としての自身がパロディにされてしまった事に激怒し、再放送、他国での放送をやめるように執拗に制作会社に働きかけたことが知られている。アニメの制作会社の親会社が「ミッション:インポッシブル」シリーズの制作会社であった為に、「もしも再放送したら、"M:I:III" のプロモーション活動には一切協力しない」と言った事が有名。
また、『ワルキューレ』製作の際、ドイツでは反ナチ運動の英雄として称えられており、敬虔なカトリック信者として知られているクラウス・フォン・シュタウフェンベルクをサイエントロジーの信者であり、広告塔と見られているトム・クルーズが演じることに対する強い反発が起こり(ドイツでもサイエントロジーは悪質なカルトと見なされている)、シュタウフェンベルクの息子ベルトルトも「クルーズ氏が演じると聞いた時には宣伝のための冗談と思っていた。彼が演じたら台無しになる。父とは関わらないでほしい。」と批判した[27]。 一時は、ドイツ国防省が事件の舞台であるシュタウフェンベルク街等の国防軍関連施設での撮影を許可しなかった[28](2ヶ月後、『制作者側が「ナチス(Nazi)支配から解放され、完全なる民主主義国家となった統一ドイツの姿」を作品内に盛り込むことに同意した』として、撮影を許可している)[29]。
IAS 勇敢の自由勲章の祝福動画 [編集]
2008年1月15日、トム・クルーズを特集したサイエントロジー教会製のビデオが漏洩し、Youtubeにアップロードされた。彼の映画、『ミッション:インポッシブル』のBGMが流れる中、トム・クルーズはサイエントロジー信者であることが彼にとって何を意味するかを論じた。[30][31] タイムズによると、「彼はサイエントロジーの美徳の数々を激賞しているように見え」、[32] デイリー・テレグラフは「インタビューの間、彼は異常者のように、サイエントロジーへの愛を夢中でしゃべっていた」と報じた。[33]
サイエントロジー教会は「Youtubeその他に流出したその動画は略奪・編集されたもので、本来は信者のための3時間のビデオだった」と主張した。[31][34] Youtubeはその動画を法的な脅迫のために削除した。[35]2008年2月4日現在、Gawker.com はいまだにその動画を掲載しており、他のサイトは全体のビデオを乗せている。[35][36] サイエントロジー教会の弁護団は動画の削除を要求する文章をGawker.com に送りつけたが、そのウェブサイトのニック・デントンは、トム・クルーズのビデオは報道価値があり、削除しないと述べた。[37]
オプラ・ウィンフリー・ショー事件 [編集]
トム・クルーズはケイティ・ホームズに対する感情をメディアを通じて何回か表現してきたが、もっとも顕著なのは人気のあるオプラ・ウィンフリー・ショーで2005年5月23日に起こった「ソファー事件」である。彼はテレビのセットを飛び回り、ソファーに飛び乗り、ひざまづいては新しい恋人に愛の告白をした。[38] "jumping the couch"(ソファーでジャンプする)というフレーズは"jumping the shark"というフレーズに改変され、「誰かが公の場で自分の名声を傷つけるのに十分に極端な形で見境を失う」という意味で使用された。これは短い間人気を博し、アメリカ・スラング歴史辞典に2005年のスラング・オブ・ザ・イヤーに選ばれたほか、[39]非営利団体のグローバル・ランゲージ・モニターにトップ・フレーズのひとつに選ばれた。[40]
「ソファー事件」は2005年のE!(アメリカ合衆国のエンターテイメント専門のテレビ局)において、最も驚かされる場面のナンバー1に選ばれ、[41]『最終絶叫計画4』のエピローグを含む無数のパロディの対象となった。
広報係 [編集]
トム・クルーズのサイエントロジーに対する開けた態度は、14年間彼に勤めていた広報係のパット・キングスレイの2004年3月の離脱によるものだとされている。トムは広報を妹でサイエントロジー信者の、リー・アン・ディヴェッテに置き換えた。リーは2005年11月までトム元で働いた。[42]その後トムは妹を降格させ、広報会社のロジャーズ・アンド・コワンからベテランのポール・ブロックを採用する。ディヴェッテはそれについて「リーが広報活動よりも慈善活動を希望したため」と説明した。 [43]このリストラはサイエントロジーに対する彼の見解と、逆効果になってしまったケイティ・ホームズとの関係の強調を抑えるための動きだとみなされている。[
投稿者 格闘技の王子様 17:56 | コメント(0) | トラックバック(0)