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格闘技の王子様 実はかの有名な格闘技の王子様は├─≠ョ─ヵラスであった

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北原光騎

北原 光騎(きたはら こうき、1964年3月9日 -)は、福岡県福岡市出身の男性プロレスラー。本名は北原 辰巳(きたはら たつみ)。身長182cm、体重110kg。血液型AB型。
来歴 [編集]

高校時代は空手に熱中、喧嘩三昧の日々を過ごす。卒業後、就職するもわずか9か月で退職する。その後、営業職やドライバーなどを経験した後、20歳の時に上京、佐山聡に師事する。1987年6月、23歳で全日本プロレスに入団。1988年4月8日、百田光雄戦でデビューを飾る。その後、海外修行を経て、SWS→天龍源一郎が旗揚げしたWARに入団、天龍の右腕的存在として活躍する。33歳で自ら総合格闘技道場キャプチャー・インターナショナルを旗揚げする(翌年、同団体を離脱)。40歳でNPO法人日本ブルー・ブレイザーを設立し、理事長に就任。2004年4月より川崎市麻生区を拠点に、自らの門下生たちとともに防犯パトロールを行っている。
現在は、プロ選手のみならず、アマチュア選手も育成し、格闘技の自主興行地下室マッチを企画し、定期戦を開催している。北原自身も選手として、元横綱の北尾光覇、元前頭の太刀光修、プロ格闘家の三州ツバ吉らと対戦している。
投稿者 格闘技の王子様 00:16 | コメント(0)| トラックバック(0)

菊地毅

菊地 毅(きくち つよし、1964年11月21日 - )は、日本の男性プロレスラー。宮城県仙台市出身。フリーランス。
目次 [非表示]
1 経歴
2 タイトル歴
2.1 全日本プロレス
2.2 新日本プロレス
3 得意技
4 エピソード等
5 入場テーマ曲
6 脚注
7 外部リンク
経歴 [編集]

小中学生の頃はスイミングクラブに通い、一級下のクラスには齋藤彰俊がいた。大東文化大学へ進学後はレスリング部で活躍。1986年の全日本学生選手権100kg級に出場し優勝を果たした。その前年までこのクラスを連覇していたのは本田多聞であった。
1987年にジャンボ鶴田の紹介で全日本プロレスに入門。1987年12月、後楽園ホールでの『ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』でのバトルロイヤルで小橋健太とともにデビューし、1988年2月、滋賀県栗東町民体育館の百田光雄戦で本デビュー。同日には自身より1か月遅く入門してきた小橋建太もデビューし、その後は互いに負けじと切磋琢磨していく。1990年に三沢光晴、川田利明らが結成した超世代軍に加入し、ジャンボ鶴田に対抗。鶴田にやられまくりながらも立ち上がるファイトで人気急上昇。旭日旗をあしらったタイツをまとい、火の玉小僧の異名をとる。そのあまりに壮絶な「やられっぷり」は「やられの美学」とまで形容された。この時期、鶴田の怪物性を最も引き出したのが菊地であった。
1992年には小橋とのタッグでダグ・ファーナス・ダニー・クロファットのカンナム・エキスプレスを破り、第59代アジア・タッグ王座となった。地元仙台市の宮城県スポーツセンターにおける戴冠だった。折からの人気に地元の大きな声援が加わり、『前座のタイトル』扱いだったアジアタッグ戦では前代未聞の熱狂を巻き起こした。
ジュニアヘビー級でのシングル戦線では長らく足踏みしたものの、4度目の挑戦となる1996年に日本武道館において渕正信を破り、遂に悲願の世界ジュニアヘビー級王座を獲得した(第16代)。この王座は2度防衛に成功(相手は浅子覚・ロブ・ヴァン・ダム)、同日には小橋も初めて三冠王者に輝いている。
しかし、同時期に台頭した小川良成を苦手としたため、ジュニアヘビー級で確固たる地盤を築くことができず、王座戦線からは次第に後退。全日本在籍時末期には悪役商会でのファイトが中心となっていた。
2000年の全日本大量選手離脱騒動では三沢らと行動を共にし、全日本プロレスを退団してプロレスリング・ノアに移籍。旗揚げ第2戦のメインで小橋が敗れ、秋山との乱闘を救出しお笑い系から離脱、注目を集める。その後バーニングの一員として小橋と共闘する傍ら、2002年には金丸義信と組んで獣神サンダー・ライガー&田中稔を破り、第9代IWGPジュニアタッグ王座を獲得した。
その後は秋山準との抗争で一時的に脚光を浴びたものの、再び前座戦線に戻っている。テレビ中継解説者でレフェリーのマイティ井上によると、菊地はヘッドバットの使用過多や、無茶をするファイトスタイルから、パンチドランカーの症状が出ているといい、体調面の不安も抱えている。
2009年には新日本プロレスベスト・オブ・ザ・スーパージュニア XVIに出場。公式戦初戦で優勝した金本浩二に勝利したが、結果は3勝3負の勝ち点6で決勝トーナメント出場は出来なかった。
2009年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了」[1]となり退団、フリーとなった。
現在は古巣の全日や様々な団体で活動している。
タイトル歴 [編集]

全日本プロレス [編集]
世界ジュニアヘビー級王座
第16代(防衛2回)
アジアタッグ王座
第59代(防衛3回)&小橋建太
新日本プロレス [編集]
IWGPジュニアタッグ王座
第9代(防衛4回)&金丸義信
得意技 [編集]

火の玉ボム
バックドロップのような体制で相手をリフトした後、相手の体を180度回転させ、自身はしりもちを付くようにして相手を後頭部から落下させる技。正鬼軍との抗争辺りから使用し始める。秋山準のブルーサンダー、橋誠のゴリサンダーが同系統の技である。
ゼロ戦キック
レッグラリアット。全日本時代の超世代軍に在籍していた際に開発。初期型は両足で行っていたが、現在は片足で行い反転して着地できる形になった。串刺し式などのバリエーションもある。
フィッシャーマンズ・スープレックス
最近ではブレーンバスターの連発の締めに、フィッシャーマンを持ってくることが多い。
スープレックス3連発
現在はWWEなどで盛んに見られる、ジャーマンやブレーンバスターの3連発は元は菊地が全日本時代から行っていた技。クリス・ベノワがワイルド・ペガサスとして新日本に来ていた際に、ライバル団体のジュニア選手が使っているのを参考にしたとコメントしている。菊地と名前は出ていない。
ロコモーションジャーマン・スープレックス
スパイダー式フロント・スープレックス
コーナートップで相手と向き合わせに座り、雪崩式フロント・スープレックスをする。その際ロープに足を引っ掛けて自分の転落を防ぐ。その後腹筋の力で起き上がり、ダイビングヘッドバットへと移行するのがお決まりのムーブ。
各種ヘッドバット
全日本時代には、場外乱闘の中でマイクでヘッドバット音を拾うといったムーブがお決まりだった。
ダイビング・ヘッドバット
ダイナマイト・キッドに憧れていて、超世代軍時代から使い始めた。モーション的には跳ぶというよりは、斜めに落ちるようなモーション。
エピソード等 [編集]

普通プロレス観戦において、『選手への声援』は呼び捨ての場合が多いが、仙台大会では、菊地への声援は呼び捨てではなく、男性客・女性客からも『菊地さん』と『さん付け』での声援が飛ぶ。
ここ一番の試合の時のみ、『日の丸タイツ』を着用する。仙台大会は常にこのタイツを着用しており、観客からは『日の丸タイツありがとう!』といった声援が飛ぶ。
入場テーマ曲 [編集]

HINOTAMA KOZO Again
頭突きdeジダンだ?! BUBBLE-B プロレスMix feat. 菊地毅 (Coup de Boule "Bubble-B Wrestling Mix" feat. Kikuchi-T)
投稿者 格闘技の王子様 00:15 | コメント(0)| トラックバック(0)

菊タロー

菊タロー(きくタロー、男性、1976年11月17日 - )は、日本のプロレスラーで、覆面レスラー。大阪府大阪市生野区出身。かつて大阪プロレスにおいてえべっさんのリングネームで活躍していたが、そのときにはギミック上、1976年1月10日(今宮戎神社の「十日戎」の中日)生まれ、今宮戎神社境内出身を名乗っていた。
菊タローはリングネームであり、また覆面レスラーの素顔ならびに本名は正式には公表されていないが、過去の経歴やリングネームが本名から1文字取ったことを明かしていること、さらに試合中にネタとしてマスクを脱いで見せる素顔などから、その正体は菊澤光信だと言われている。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 菊澤光信
1.2 えべっさん(初代)菊タロー
2 人物
2.1 レスラー・菊タロー
2.2 多趣味人・菊タロー
3 タイトル歴
4 得意技
5 入場テーマ曲
6 レスラーのものまね
7 出演作
8 関連項目
9 外部リンク
10 脚注
来歴 [編集]

ここでは菊タローの正体だと言われている菊澤光信の経歴も記載する。
菊澤光信 [編集]
正体とされる菊澤は栗栖正伸トレーニングジムから、W★INGプロモーションユニバーサル・プロレスリングの練習生を経て、1994年にFULLでプロレスデビュー。しばらくの間、FULL所属としてインディー団体に登場したが、FULLが活動を停止した後、フリーランスとして様々な団体での活動を行い、大仁田厚と組んでデスマッチを行っていたこともあった。一時期はDDT所属だったこともある。またNOSAWAと組んで東京愚連隊を結成、アメリカやメキシコの団体で活動していた。この頃には素顔だけでなく様々な覆面レスラーに変装してインディー団体に登場した。
えべっさん(初代)菊タロー [編集]
1999年7月24日、大阪プロレスにて、大阪・光明アムホールでザ・モンキーマジックを相手に「えべっさん」としてのデビューを果たした。当初はフリーのままでの参戦だったが、2004年に所属契約を交わした。くいしんぼう仮面との「大阪名物世界一選手権」を中心とした爆笑を呼ぶ抗争や、入場時のお賽銭パフォーマンス、さらに、武藤敬司のコピーである「えべ藤さん」、アブドーラ・ザ・ブッチャーのコピーの「えべドーラ・ブーチャン」など、有名レスラーの完璧なコピーで人気を博した。大阪プロレスの他、新日本プロレスや全日本プロレスにも参戦した。2005年4月24日の大阪・デルフィンアリーナでの試合を最後に大阪プロレスとの契約が切れて退団、フリーとして活動することとなった。
「えべっさん」のキャラクターが大阪プロレスの登録商標となっていることと、2005年4月29日から2代目えべっさんが大阪プロレスに登場したため、フリー転向後、最初の試合となった2005年5月7日東京・ディファ有明での「ディファカップ」以降は、えべ太郎のリングネームを使用し、マスク・コスチュームも若干変更したものの、えべ太郎のリングネームも大阪プロレス側からクレームが入ったため、2005年5月14日にアメリカ合衆国・ペンシルベニア州・フィラデルフィアのECWアリーナで開催されたベストオブベスト5を最後に使用を止め、暫定的なリングネーム太郎を経て、2005年5月20日の全日本プロレスの大会からは菊タローのリングネームを名乗るようになった。以降は日本国内・海外を問わず、様々な団体で明るく楽しいプロレスを披露し、活躍している。
フリー転向後、大阪プロレスに参戦することはなかったが、2008年以降には新旧のえべっさん同士のタッグを組むなどの参戦機会が増えている。2009年には「盟友であるくいしんぼう仮面のたっての願いで」という理由で久々にえべっさんとしての試合を行った。
2009年、大阪プロレスお笑い選手権、DRAGON GATEオープン・ザ・お笑いゲートタッグ王座(パートナーはドン・フジイ)、さらにDRAGON GATEオープン・ザ・お笑いゲート王座を奪取し、前代未聞のお笑い三冠を達成。名実ともに「日本一面白いレスラー」の称号を手にした。
人物 [編集]

レスラー・菊タロー [編集]
定番でありながらも確実に会場を沸かせるコミカルなムーブ、および軽妙なトークやパフォーマンスを惜しみなく披露し、特に前座から中盤にかけての名脇役として、その存在感が主役を食ってしまうことも度々あり、正統派レスラーからは強さと違った次元で難敵と見られることがある。お笑い中心ということを抜きにしてもヘビー、ジュニアヘビーを問わず対応できる試合スタイルであるが、全日本の世界ジュニアヘビー級選手権のタイトルは105kgという体重制限に引っかかるため、挑戦資格は無い(2007年6月10日「武藤祭」より)。
コミックレスラーの面が強いが実はかなり器用で、シャイニングウイザード(菊ザード)、菊落とし、トップコーナーからのミサイルキックやムーンサルトプレス等も使いこなせる。セメントマッチで獣神サンダー・ライガーとも激突、好勝負を繰り広げた。
そのスタイル上、受けが強く(やられっぷりが良く)、全日本にチーム3Dが参戦した際は、スポークスマンという体で毎試合のようにテーブルに叩きつけられる役を務めていた。これはインディー時代にデスマッチも行っていた豊富な経験の賜物といえよう。ただし、最近は腰の不調を自らのブログで訴えていることが多い、アメリカ遠征の際の合間にWWE観戦した時はデスマッチで被った額の傷を見せたらプロレスラーだということを認識してもらえバックステージを通してくれたとのこと。
菊タローの試合ではレフェリーを巻き込むこともあり、特に大阪プロレス時代からの長い付き合いであるDDTの松井幸則は、菊タローと抜群に息の合ったレフェリング(ネタ)を披露している。中でも菊タローとくいしんぼう仮面の試合では、「この試合は松井以外では捌けない」と称されるほどの3人にしか作り出せない試合(ネタ)を行っている。全日本プロレスに主に参戦していた頃は、和田京平や村山大値がネタに絡むことが多かった。厳格なイメージの和田だが、菊タローの試合ではネタに付き合い、菊タローのブログ上では彼のイベントに和田が遊びに来た、巡業先で一緒にパチスロを打った、などの報告があり、本人もコメントを書きこんだことから、プライベートでも気が合う様子が窺えた。
全日本プロレス参戦時には渕正信をライバルとして挙げていた。シングルでは勝利を挙げていないものの、コミカルな試合展開はかつての全日本の前半戦の定番「ファミリー軍団対悪役商会」を思わせるものだった。かつて苦楽を共にした仲間でもある荒谷望誉とは「バカ兄弟」を結成し、時には戦い、時にはタッグを組み、独自のゆるい試合を展開して会場を暖めるのに一役買っていた。2009年の荒谷の引退試合でもタッグを組み、渕・TAKAみちのく組と戦った。
分身キャラやコピーキャラの開発も続けており、ZERO1-MAXではP-Force Menの新メンバー「KTP-101.5kg」として、あるいは「菊藤(きくとう)さん」としての活動も見られるようになった。全日本のファン感謝デーで行われたプロレスラーと物まね芸人のタッグ試合「F-1タッグ選手権」では、コミッショナー「菊サン・ハンセン」(スタン・ハンセンのコピー)として登場した。近年ではジャンボ鶴田のコピーレスラー「ジャンボ菊」としてマッスルハウス6や「風になれ」など、DDTが関わった興行に素顔で登場した。覆面レスラーにとって素顔を晒すのは御法度であるのだが、菊タローの場合はネタのためにあっさりとマスクをめくって、素顔を見せるシーンが幾度となく見かけられている。
2006年10月21日に武藤敬司・中嶋勝彦と組み、メインでVOODOO-MURDERSと試合した際、VMにマスクを剥がされ、大流血に追い込まれる。普段のお笑いを織り交ぜた試合ではなく、シリアスな試合となった。試合には負けたものの、試合後リング上で武藤と抱き合い、観客の感動を呼んだ。リベンジマッチとなった武藤・土方隆司・菊vsVMでは本来のマスクの下に怒りのマスクを被り、最後はそれぞれ三人のシャイニング・ウィザードで勝利した。
2007年までは全日本プロレスを主戦場としていたが、2008年は全日本に5回しか呼ばれなかった、と翌年の全日本新春興行でこぼし、ネタにしていた。しかし、インディー時代から現在まで培われた多彩なレスラーの交流[1]があり、声をかけられたり売り込んだりなどで常にどこかの団体に顔を出している存在である。
2008年にはプロレスとアキバ系文化の融合を図った「アキバプロレス」を自らプロデュースし、同年8月に東京秋葉原UDXにて旗揚げ戦を行った。同年12月にディファ有明で開催した第2戦では「メタルギアソリッド4」「ストリートファイターIV」などのゲームとのコラボを実現させた。アキバプロレスは今後もコミックマーケット開催や大型連休の時期に合わせて開催する構想である。
多趣味人・菊タロー [編集]
非常に多趣味な人物である。リング上同様、プライベートでもまた人脈が広い。現在の愛車はユーコンデナリ。
TVゲーム
プロレス界の中でも屈指のゲーマーとして知られており、同じゲーマーレスラーのK-ness.も菊タローを尊敬する、と語っている。菊タローのコスチュームスポンサーである『ファミ通』とは縁が深く、編集部によく現れている。同紙上でコラムを執筆していたほか、特集記事への寄稿や、同誌連載漫画「いい電子」(みずしな孝之)への登場も多い[2]。また、ファミ通読者が同誌を宣伝するために様々な場所で着用する「ファミ部」Tシャツを着用して、プロレスリング・セムで試合を行ったこともある。「ファイプロ・リターンズ」(スパイク)や、「オールスター・プロレスリングIII」(えべっさん時代。スクウェア・エニックス)の広告キャラクターでもあった。『半熟英雄4』(スクウェア・エニックス)にも、えべっさんが出演していた。
パソコン
自作PCのパーツ探しのために秋葉原を散策する旨が、よくブログで報告されている。週刊アスキーにて自作PCの使用感をレポートする連載を持っていた。TAKAみちのくが愛用しているノートパソコンも元は彼のものであり、その後の技術サポートを行っていたこともあった。
アニメ
アニメに関しては視聴するのみではなく、声の仕事もしたいという希望を持っており、単発ではあるが声優としての仕事を行ったことがある。『天体戦士サンレッド』では、真摯に声優修業を行った甲斐もあり、初めて役名(ウェザーイエロー)付きの出演を果たした。萌え系アニメに関する話題は少なく、あくまで試合中でのことではあるが「萌えは嫌いじゃ!」と発言したことがある[3]。声優の池澤春菜や渡辺明乃とは親交があり、渡辺と誕生日が近いことから、合同で誕生会を開いてもらったことがあった。
お笑い
2001年の第1回M-1グランプリではスペル・デルフィンと「なんで家いるか・えびす」というコンビを結成して挑戦し、本職の芸人相手に3回戦まで進出するという快挙を成し遂げた。2003年のM-1グランプリでもタイガースマスクと「なんで家とら・えびす」というコンビを組み1回戦を突破した。
パチンコ・パチスロ
ブログ上では休日や遠征先でパチンコ・パチスロを楽しんだ旨の記事が多い。埼玉県さいたま市のとあるパチンコ店では、月1回のイベントとして1日店長を務めている。「菊タローが来ている云々より、その日に店が玉を出しているから」と謙遜しているが、非常に息の長い人気イベントとなっている模様である。
旅行
旅行が趣味で、オフにはNOSAWAや296らと、ときには一人で日本国外に繰り出し、行った先で試合をすることもある。独学ながら語学が堪能であり、試合交渉も自分で行っている。イギリス遠征時はマイクパフォーマンスを英語で行い、キッチリと笑いをとったほどだった。メキシコ遠征の回数も多いことから、スペイン語も習得している。
タイトル歴 [編集]

大阪名物世界一選手権(大阪プロレス)
大阪プロレスバトルロイヤル選手権
オープン・ザ・お笑いゲート王座(DRAGON GATE)
オープン・ザ・お笑いゲートタッグ王座(DRAGON GATE。パートナーはドン・フジイ)
アイアンマンヘビーメタル級王座(DDT。菊澤:第2代 菊タロー:第680代、682代、684代、690代)
バーブドワイヤーストリートファイト世界6人タッグ
得意技 [編集]

コミカルな技とともに、体格に似合わぬ飛び技も披露する。
七福神固め
菊落とし(えびす落とし)
ファイヤーマンズキャリーから、みちのくドライバーIIのように前方に落としていく。中邑真輔のランドスライド、ハリケーンドライバーと同じ技。
シャイニング・菊ザード
名前からして当然ながら武藤敬司のシャイニング・ウイザードと同じ技。その後はお決まりの武藤のプロレスラブムーブが入る。
シャイニングケンカキック
シャイニング・菊ザードと見せかけて顔面に蹴りを放つ。その後はお決まりの蝶野ムーブが入る。
開運トルネード
ムーンサルトプレス
たまにしか当たらず、ほとんどかわされる。
ハンドスプリングエルボー
スペースローリングエルボー
フェイスクラッシャー
ブルドッギング・ヘッドロック
相手をコーナーに振ってラリアットを放ってからヘッドロックの体勢に移行し、技をかけようとするがいつもすっぽ抜ける。
フラッシングエルボー
ブレーンバスター
長い口上を言ってから投げようとする。しかし必ず逆に投げられる。
女子レスラーへのセクハラ
抱きついてキスしようとしたりバックから胸を揉もうとする。6人マッチでは敵味方全員からストンピングで制止される。
恥ずかし固め
これも女子レスラーへのセクハラの一つ。仰向けの女子レスラーの足を取って股を広げて固める。固められた女子レスラーに一言言わせるのがお決まりのパターン。
レフェリーいじり
フォールをしたりしなかったりを繰り返す、金的攻撃を見舞うなど。大抵の場合はレフェリーに説教されたり蹴りを見舞われるオチが付いている。
入場テーマ曲 [編集]

忘却のノスタルジア / 佐藤裕美(Angelicaに収録)
レスラーのものまね [編集]

菊藤さん(旧・えべ藤さん)
最も使用されるものまね。武藤の技は普段から使用している。
菊サン・ハンセン(旧・えべサン・ハンセン)
F-1タッグ王座のコミッショナーとして、片言の日本語で認定証を読み上げる。試合では常に動き回っているハンセンの動きを再現。試合中は「Hurry-up!(カウント急げ!※ジョー樋口に対する口癖だった)」か「Ask him!(ギブアップか聞け)」ばかり言う。
菊ドーラ・ザ・ブッチャー(旧・えべドーラ・ブーチャン)
全身を茶色に塗り、額から流血しているデザインのマスクを着用。ブッチャーの使用凶器だったフォークと違いしゃもじを使用。攻撃を受けると甲高い悲鳴をあげながら額を押さえて悶える。
獣神サンダー・菊イガー(旧・獣神サンダーえべイガー)
ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア参戦時に見せたコスチューム。掌底を見せるも、本家の垂直落下ブレーンバスターを食らってしまった、その後「鈴木みのるデビュー20周年興行」に登場。
菊タス・ジャック
カクタス・ジャックのものまね。マットに倒れながらも彼の定番アピールである「バンバン!」をやっていた。
菊菊菊(トリプル菊)
トリプルHのものまね。
ジャンボ菊
ジャンボ鶴田のものまね。ただし、マスクは被っておらず、素顔で鼻に詰め物をしている。最近ではマッスルハウス6や鈴木みのる興行「風になれ」に登場した。
ダンプ菊
ダンプ松本のものまね。マスクは被らず素顔に極悪メイクで、髪は金に染めた
出演作 [編集]

えべっさん時代
映画『大阪プロレス飯店』 - 本人役。
テレビアニメ『超重神グラヴィオンZwei』声優 - 男A(第8話)。
ゲーム『半熟英雄4 7人の半熟英雄』 - 本人役。正月イベントにランダムで登場するほか、エッグモンスターとして参戦。
菊タロー
舞台『アラスタ2 悪魔城DORAKYURAサマ』
テレビアニメ『獣装機攻ダンクーガノヴァ』声優 - 本人役(第7話)。
TBSオールスター感謝祭第32回大会 - ローションボクシングに参加。
テレビアニメ『PRISM ARK』声優 - チンピラ(第8話)。
テレビアニメ『天体戦士サンレッド(第2期)』声優 - ウェザーイエロー(第1話、第9話、第25話)、ゼネ(第8話)、シシイ(第15話)、ナイトブラザー(第25話)、フルプ(第26話)、パチンコ店のアナウンス(第26話)。
投稿者 格闘技の王子様 00:15 | コメント(0)| トラックバック(0)

菊田早苗

菊田 早苗(きくた さなえ、男性、1971年9月10日 - )は、日本の総合格闘家。東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。
父親は、死刑廃止論者で明治大学名誉教授・弁護士の菊田幸一。
菊田の寝技は「キク術」とも呼ばれている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 人物
3 戦績
4 獲得タイトル
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

小学校6年の時に、佐山聡のスーパータイガージムに入門。
学生時代には柔道を経験し、練馬東中学校在学中に中学柔道関東大会で優勝、明大中野高校在学中に高校柔道総体86kg級で優勝を果たした。
日本体育大学柔道部では古賀稔彦の指導を受けるが、体育教師(スクールカラーが体育教員養成系)志望でなかったため中退。その後、UWFインターナショナルに入門するも、1週間も経たずに退団した。その後渡豪し、スタン・ザ・マンも通っていたジムでキックボクシングを習う。
帰国後、アマチュアシュートボクシング全国大会重量級を制し、総合格闘技大会トーナメント・オブ・Jも連覇。
修斗、リングス、PRIDE参戦を経て、1999年6月、パンクラスに参戦。2000年にはパンクラスの中で外部勢力を集めた新勢力「GRABAKA(グラバカ)」を立ち上げた。
2001年4月、アブダビコンバット・88kg未満級に出場し、日本人初の優勝を果たした。同年9月には美濃輪育久とのライトヘビー級王者決定戦を制し、第2代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシストとなった。
2001年8月18日、DEEP2001 in YOKOHAMAでシェマック・ウォレスと対戦し、マウントパンチによるTKO勝ちを収めた。試合後のリング上で9月30日のパンクラス興行での美濃輪育久とのライトヘビー級タイトルマッチをアピールした[1]。
2001年9月30日、ライトヘビー級キング・オブ・パンクラス タイトルマッチで美濃輪育久と対戦し、ドクターストップによるTKO勝ちを収めた[2]。
2002年8月8日、UFO LEGENDでアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦し、右ストレートでKO負け。
同年12月、GRABAKAジムを東京都中野区にオープンした。
2003年11月30日、タイトルマッチで近藤有己と対戦し、ブルート(左フック)によるKO負けで王座から陥落した。
2005年8月、練習中に右足内腿靭帯を部分断裂し、10月2日に予定されていた近藤との3度目のタイトルマッチは中止となった。
2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005で瀧本誠と対戦、判定勝利を収めるが、試合後にDSEの榊原社長から、試合内容について苦言を呈された。
2007年12月31日、やれんのか! 大晦日! 2007において、同じGRABAKAに所属する三崎vs秋山戦にセコンドとして付き、その後の再戦騒動に巻き込まれた。菊田のブログでは、初めから複数戦の契約は無かったと主張している。
2008年3月5日、『戦極』旗揚げ戦戦極 第一陣でフィル・バローニと対戦予定であったが、バローニが右肩負傷で欠場となり、菊田も欠場となった。
2008年6月8日、戦極 第三陣で約1年半振りに試合を行い、クリス・ライスと対戦。腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。
2009年1月4日、戦極の乱2009で吉田秀彦と対戦し、2-1の判定勝ちを収めた。
2010年6月20日、SRC13でYasubei榎本と対戦し、右アッパーでダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負け[3]。
2010年10月24日、9年2か月ぶりのDEEP参戦となったDEEP 50 IMPACTでキム・イサクと対戦し、タオル投入によるTKO勝ちを収めた[4]。
人物 [編集]

特技はピアノ演奏。
一時期、雑誌「紙のプロレス」インタビューで、「天山広吉・小島聡はロクな死に方をしない、人間的にバカにした商売、騙して連れてきて金を取る」などプロレスラーやプロレスを貶める発言を繰り返し、高田道場やプロレスファンの怒りを買った。これには短期間だが、UWFインターナショナルや新日本プロレスに入門(一部関係者のコメントでは「体験入門程度のもの」)した際、人間関係で何かしらのトラブルが背景にあったということが定説となっている。後に、PRIDE.20で前述の経緯などから菊田に嫌悪感を持つアレクサンダー大塚との試合に勝利した後のリング上で「かつて批判したことはあるが、プロレスも格闘技も素晴らしいものだと思っている」と観客に訴えた。これは後に天山・小島を指したものではなく、プロレスラー全員を指して「ロクな死に方をしない」と言ったことが判明。あまりの問題発言に編集部で作為したのだと後のkamiproに真相が掲載された。
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ストーカー市川

ストーカー市川(ストーカーいちかわ、男性、1974年10月12日 - )は、日本のDRAGON GATE所属のプロレスラーで、営業の仕事もしている。本名は市川 寛二(いちかわ かんじ)。身長165cm、体重42kgぐらいとレスラーとしては極めて小柄な部類に属する。岐阜県各務原市出身であるが、前述のストーカー市川のギミックではフジテレビ出身としている。近畿大学卒業。通称「いっちゃん」「スト市」。血液型A型。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 タイトル
4 対戦したX(大物レスラー)
5 総合格闘技戦績
6 エピソード
7 外部リンク
来歴 [編集]

闘龍門の第2期生としてメキシコに渡り、1998年12月12日、現地にて神田裕之戦でデビュー。
日本に凱旋帰国後、「オレたちひょうきん族」のブラックデビルの格好がギミックの特徴であるストーカー市川となった。入場テーマは同番組のオープニングテーマでもあった「ウィリアム・テル序曲」。
闘龍門時代からお笑い部門担当として闘い続ける。闘龍門の弱さの象徴と言われるほどであるが、人気はあり、地方ではフロリダブラザーズよりあると言われていた。また、弱さの象徴ゆえに年に1勝すれば良い方である。
闘龍門時代に初代M2KとC-MAXの抗争時に抽選で選ばれたTARUと組んでマスカラ・コントラ・マスカラで奇跡的な1勝を直接挙げている(この時はC-MAX所属だったが後にC-MAXを解雇されている。また、これが唯一ユニットに所属していた期間である)。 エルヌメロウノが行われている間、最弱王決定戦のトーナメントにもエントリーされ(他は三島来夢・しゃちほこマシーンズ・TARUシート)1回戦で見事に負け決勝に進出したが、当時エゴイストキャラになったばっかりのマグナムTOKYOの乱入にあい、決勝は無効試合となってしまった。
フロリダブラザーズが現れてからはその座が危ぶまれていたが、負けたらキャラ返上の1vs2のコントラ・マッチでイナバウアー・ジャーマン・スープレックス・ホールドで奇跡とも呼べる勝利でキャラクターを守った(この後の大田区大会で吉江豊とのシングルが組まれたため結局勝っても負けても地獄であった)。同じく弱さを売りにしているKAIENTAI-DOJOのDJニラと仲が良く、タッグを組んだこともあるが二人まとめてフォールを奪われた。
普段は、試合で相手を追い込んだり、ラ・マヒストラルを決めると歓声だけでなく野次が飛ぶことがある。反面、リング上で倒れ、手足をヒクヒクさせるなどすると笑いが飛ぶ。
高山善廣、川田利明、天龍源一郎、秋山準、永田裕志、果ては女子プロレスラーのアジャ・コングなど、彼ほどいろんな大物選手と闘ったことがある選手も珍しい(大体の場合、相手がフィニッシュ・ホールドを決めようとするとセコンドからタオルが投入されてTKO負けというオチがつく)。この時、相手はいつも「X」とされる。高山と闘ったときはスポーツ新聞の裏面を飾ったほどである(「高山、宇宙人退治」という見出し)。
2006年に行われた天龍とのシングルでは、市川の急所攻撃→ジャーマン・スープレックス・ホールドで3カウントを取ったが、実は反則裁定を取られるという幻の1勝もある。アジャにはカンチョーをきめ、さらに前へのカンチョー(マンチョー?)を狙ったが、怒ったアジャに一気にやられた。
近年は登場機会がめっきり減っている。普段は営業の仕事もしており、ビッグマッチ前にはあのコスチュームのまま宣伝カーで周っていることが多い。
2006年11月12日、『スト市ボンバイエ』で戸澤アキラと引退を賭けた3本勝負に敗れ、引退が決定したが、新たに「ストーカー市川Z」と改名(改名といえるかどうかは微妙なところではあるが)し、現在も以前と変わらずお笑い部門担当兼営業として活躍している。
2007年5月にアメリカ遠征をしてドン・フジイと対決。現地でオープン・ザ・お笑い・ゲートベルト(略称O2G)を授与されたのを期に再び改名。“ハリウッド”ストーカー市川となった。
2007年11月9日、『スト市ボンバイエ2』が開催され、佐野直との3本勝負に敗れる。試合後、総合格闘技DEEPへの参戦を発表。
2007年12月12日、DEEP 33 IMPACTで滑川康仁と対戦。テイクダウンを奪ったり、ダウンから立ち上がるなど奮闘を見せたが、立ち上がり直後のフロントチョークで敗れた。試合後の会見で渡辺久江との対戦を熱望した。
2008年7月12日にフジイに羽交い絞めに、望月成晃に結婚式場のパンフレットで殴打されて失神する。その後7月20日にフジイと望月を襲撃、今までの市川ではなく、悪に目覚め、コスチュームが青くなったICHIKAWAに変貌した(元ネタはザ・グレート・サスケの別ギミック・SASUKE)。
その後はICHIKAWAのキャラの方向性に迷った結果、元に戻った。
2009年12月27日、福岡国際センター大会で「生き残り指名試合」に「X」として岡村社長を指名。「試合に勝ったら給料大幅アップ」を要求するも岡村社長から年上の女性と近々結婚することを暴露された。
得意技 [編集]

カンチョー
相手の尻に両の人差し指を突き刺す技。繰り出す前には「カンチョー!」と叫ぶ。どんな大物にも必ず決めているが、吉江豊には尻の脂肪が厚かったために効果はなかった。
スクリューカンチョー
ラ・マヒストラル
年に1・2回この技で勝利している。
735(ナミコ)
レイ・ミステリオの619と同じ技。結婚後、妻の名前をとってこのネーミングになった。
イナバウアー・ジャーマン・スープレックス・ホールド
フロリダブラザーズとの敗者キャラ剥奪マッチで見せた大技。90kgあるマイケルを完璧に投げきった。
トペ・コンヒーロ
トップロープ越しではなく、トップロープとセカンドロープの間をくぐるという離れ業を見せる。
オールドスクール
独特の見得を切りながらロープを渡るが、真ん中まで来ると踏み外して股間を強打することがお約束になっている。
タイトル [編集]

DRAGON GATE
OPEN THE お笑い GATE選手権 初代王者
対戦したX(大物レスラー) [編集]

vs アジャ・コング(2000年6月4日)
vs 新崎人生(2000年7月22日)
vs 青柳政司(2000年8月15日)
vs 嵐(2000年8月24日)
vs アレクサンダー大塚(2000年10月12日)
vs 大刀光(2001年3月17日)
vs ザ・グレート・カブキ(2001年5月12日)
vs 松永光弘(2002年2月24日)
vs 金村キンタロー(2002年5月19日)(2002年12月28日)
vs 高山善廣(2003年4月22日)
vs リッキー・フジ(2003年6月19日)
vs ザ・グレート・サスケ(2003年6月29日)
vs 齋藤彰俊(2005年3月13日)
vs 川田利明(2005年5月1日)
vs 吉江豊(2006年4月23日)
vs 鈴木みのる(2006年5月10日)
vs 秋山準(2007年3月25日)
vs 永田裕志(2007年7月1日)
vs 神取忍(2008年5月5日)
vs ザ・グレート・サスケ(2008年7月27日)
vs ネクロ・ブッチャー(2008年9月5日)
vs 越中詩郎(2008年11月16日)
vs 曙(2008年12月28日)
vs 佐々木健介(2009年3月22日)
vs ウルトラマンロビン(2009年7月8日)
vs アブドーラ・ザ・ブッチャー(2009年7月19日)
またX表記ではないものの、風香、菊タロー、北斗晶、中嶋勝彦、天龍源一郎などとも対戦している。
総合格闘技戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
1 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
0 勝 0 0 0 0 0 0
1 敗 0 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 滑川康仁 1R 2:20 フロントチョーク DEEP 33 IMPACT 2007年12月12日
エピソード [編集]

闘龍門出身者の中では数少ないレスリング経験者(他には"brother"YASSHI、ジャンピングキッド沖本、闘龍門練習生ではないが望月成晃ぐらいである)。
元々本人は闘龍門入団当初、ウルティモ・ドラゴンに「黒のショートタイツで、ストロングスタイル」と訴えていたが、ドラゴンから「何をバカなことを言っているんだ」と一喝され、「こういうコスチュームを作って来い」とその場でイラストを描かれた。しかし市川がいつまで経ってもコスチュームを作って来ないため、ドラゴンは「作って来ないとデビューさせないぞ」と怒鳴ったという。そのコスチュームこそ、ブラックデビルのコスチュームであった(週刊プロレスでのドラゴンのインタビューより)。
2002年に恋人と同棲していたことを岡村隆志社長に暴露され、「一勝すれば結婚」との条件を背負って戦い続ける。のちに結婚し役所に書類を提出しに行く姿がテレビ番組で放映された。闘龍門出身者の中で最初の既婚者となったが、2007年9月に離婚。
2003年夏に入籍し、2005年1月に正式にチャペルで挙式をするが、実際には2003年の入籍直後に岐阜の神社で式は挙げていた。
闘龍門時代、正規軍にもC-MAXにも所属したことのある唯一の選手。
メキシコ修業時代に堀口元気、神田裕之、新井健一郎が続々デビューし、もう一人別の2期生がデビューする予定だったが、病気で急遽日本に帰ることになり、穴埋めという形でストーカー市川がデビューした。
投稿者 格闘技の王子様 18:03 | コメント(0)| トラックバック(0)

超神龍

超神龍(スーパーシェンロン)はDRAGON GATEに登場する覆面レスラー。
初代の正体は666の忍。2代目の正体はAPEキマタで詳しくは木股大輔を参照。
経歴 [編集]

2006年12月19日中国の北京市海淀体育館でCIMA&B×Bハルクと組みデビュー。(対戦相手はマッスル・アウトローズの土井成樹&吉野正人&Gamma)
ネットなどでは超神龍の正体は『666の忍では?』との意見が飛んだ。また、新井健一郎はプロレスリング華☆激のKAZEだと暴露した。
2007年11月10日、スト市ボンバイエ2で、カツオVS超神龍のマスカラ・コントラ・カベジェラ戦(敗者は、マスク剥ぎか髪切り)が行われ、カツオが勝利し、敗者である超神龍は潔くマスクをとり、その正体が666の忍であることが判明し、今後はNEW HAZARDの一員として参戦することが決まった。
2008年1月11日に行われたDRAGON GATE NEXにて突如、2代目超神龍がデビュー(対戦相手はトザワ)。
その他 [編集]

初代は自称中国人で、試合後コメントも中国語だった。
2代目のマスク、コスチューム共に初代と大きく異なるものとなっている。試合中に自らマスクを脱ぐ、マスクを剥がれても素顔を隠す事なく戦う、さらにはマスク自体がシースルーになっていて素顔が見えるなど、マスクマンとして特異なポジションを築いている。
投稿者 格闘技の王子様 18:02 | コメント(0)| トラックバック(0)

CIMA (プロレスラー)

CIMA(シーマ、男性、1977年11月15日 - )は、日本のプロレスラー。DRAGON GATE所属。本名は大島 伸彦(おおしま のぶひこ)。大阪府堺市出身。血液型O型。3人兄弟の末っ子。
闘龍門の旗揚げメンバーであり、一期生でもある、DRAGON GATEの中心選手。「心臓バクバクするプロレス」をテーマに掲げている。
目次 [非表示]
1 経歴
2 リングネーム
3 得意技
3.1 打撃技
3.2 関節技
3.3 投げ技
3.4 飛び技
3.5 丸め込み技
4 タイトル
5 その他
6 入場曲
7 関連書籍
8 出演
8.1 Web
9 外部リンク
経歴 [編集]

中学生のころ、兄と見に行ったウルティモ・ドラゴンのプロレスを見て感動し、プロレスラーを目指す。高校生の頃は部活にも入らず、トレーニングとバイトの日々を送る。時にはバイトのために学校を休むことさえあった。貯まりに貯まったアルバイト代であるが、単身メキシコへ渡りドス・カラスから指導を受けたことによって、ほぼゼロになってしまう。その後、電話で母の声を聞きホームシックにかかってしまい日本に帰国するが、その後もプロレスのためのバイトとトレーニングを3年間続ける(この時非公認ではあるが、プロのリングでの試合も経験)。
また、メキシコ修行と前後してアマチュアプロレス団体最大手のJWA関西の門を叩きアマチュアプロレスデビュー。マスクマン「黄昏の暴風仮面 ミッキー隼野Jr」として当時から非凡な才能を発揮していた。元々「ミッキー隼野」選手はJWA関西にて一時代を築いたアマチュアプロレス界屈指の名選手だったため、そのJrの名を継いだことからもいかにJWA関西マットで期待されていた逸材であったかが分かる。なお、団体の意向により吉野正人選手同様にアマチュアプロレスJWA関西時代のキャリアについて公式に公表はされていない。
その後ウルティモ・ドラゴンが立ち上げるというプロレススクール『闘龍門』の記事を見て一念発起。その一期生に応募。一期生の枠4人のうち、すでに旗揚げ以前からウルティモ・ドラゴンと面識のあった黒木克昌(マグナムTOKYO)、藤井達樹(ドン・フジイ)、諏訪高広(SUWA)の3名が決定しており、最後の1人を決める際に、ウルティモ・ドラゴンが知人である三遊亭楽太郎の夫人に依頼して、選ばれたのがCIMAである。
C-MAXを一期生のSUWA、ドン・フジイとともに結成(その後TARUが加入し、4人体制に)、最年少ながらリーダーとなった。
CIMAは2000年に開催された第3回スーパーJカップにおいて、決勝で獣神サンダー・ライガーに敗れるが、準優勝となり、一躍日本のジュニア界にその名を知らしめることとなった。
その後、M2Kやイタリアン・コネクションと抗争を繰り返し、2004年闘龍門から独立したDRAGON GATEでも押しも押されもせぬエースとなっている。C-MAX解散後は後継軍団ともいえるブラッドジェネレーションを結成。ヒール集団として暴れまくるも、Gammaが加入してから徐々に確執が表面化し、ユニットは分裂。ROHのメンバーを加えて国際派BGを結成、その後BGを解消して、ドラゴン・キッドや横須賀享、斎藤了らとタイフーンを結成した。
2006年11月23日にGammaとの敗者髪切マッチに敗れ、丸坊主にされた。
2007年7月、神戸ワールド記念ホールで獣神サンダー・ライガーを破りオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取。2007年10月8日、ツインメッセ静岡でストーカー市川を破り、オープン・ザ・お笑いゲート王座を奪取して2冠王(?)となった。
2007年9月22日、大田区大会で行われた、オープン・ザ・ドリームゲート戦(対土井成樹)で首を負傷し、救急車で運ばれる。しばらくはそれを感じさせないファイトを繰り広げていたが、2008年4月頃から首が悪化。それでも出場を続けたが、5月5日の名古屋大会を最後に欠場。6月6日にリハビリマッチを行うも、半年以上欠場を余儀なくされた。6月29日の大阪府立体育会館第2競技場大会にて、鷹木信悟とB×Bハルクがオープン・ザ・ドリームゲート王座次期挑戦者決定戦にて60分時間切れドロー。これによりオープン・ザ・ドリームゲート王座返上を決意した。
2008年12月28日の福岡国際センター大会で復帰。オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座戦で獣神サンダー・ライガーと組んで王者組のYAMATO・サイバー・コング組に挑戦するもYAMATOのスリーパー・ホールドにより失神、TKO負けを喫した(同日所属ユニットTyphoonも解散)。
2009年1月には音信不通となり、ヨーロッパで再復帰に向けて極秘にトレーニングを積んでいたらしい。その間、ブログや週刊プロレスのコラム等も休止状態となっていた。また東京スポーツの一面では、失踪してるという記事が取り上げられていたが、現地2月10日にアメリカのWWEのトライアウトを受験し、シバのリングネームでSmackDown!のダーク・マッチで、ジェイミー・ノーブルと対戦したが敗れた。
その後、当初から復帰予定であった3月1日DRAGON GATEの大阪府立体育会館第2競技場大会で、Gammaに呼び込まれリングに登場。新ユニットWARRIORS-5の結成と3月5日後楽園ホール大会からの完全復活を宣言。
3月22日、両国国技館大会で吉野正人を破り、自身初のオープン・ザ・ブレイブゲート王座を獲得した。
2010年6月18日、大阪プロレスとの全面対抗戦でビリーケン・キッドを破り、大阪プロレス王座を奪取した。
リングネーム [編集]

CIMAが現在、過去に用いていたリングネーム
大島伸彦
シーマ・ノブナガ
SHIIMA
CIMA(現在も使用中)
シバ(WWE)
CIMAの名の由来は当時修行していたメキシコの人々がオオシマという発音がうまくできず、オッシーマとなってしまうことからとったもの。他に、当時兄が乗っていた車、日産のシーマがかっこ良かったからという説もある。
得意技 [編集]

他の選手と同じ技を使いたくないという拘りを持っているため、数多くの高度なオリジナル技を持っている。また、抗争相手の技にヒントを得て技を作ることもある。その際にも決してそのまま真似するのではなく、オリジナリティを加えて自分の技にしている。
打撃技 [編集]
ヴィーナス
相手をコーナーに座らせてのジャンピング・アッパー掌底。人魚をイメージした技らしいのだが、CIMAの勘違いにより、マーメイドではなくヴィーナスになった。相手のトペ・スイシーダなどの技を迎撃する時にも使われる。グーパンチ式で放つこともある。
串刺し式ジャンピングニー
コーナーにもたれた相手へのジャンピングニー。CIMAは片膝ではなく、両膝をぶつけていく。
バカタレ・ヘッドスライディング
膝立ちの相手にダッシュしてスピアーのように頭から突っ込む技。土井成樹の「バカタレ・スライディングキック」に対抗して作られた。
逆水平チョップ
打撃技として、たまに使用する。
トラース・キック
脚を伸ばして相手の頭を蹴り上げる技。形勢不利な場面で流れを変える時やフィニッシュ・ホールドへの布石として使用される。
各種キック
首の負傷から復帰後、使用するようになった。社長の岡村隆志直伝の空手キック。
関節技 [編集]
サソリ座固め
サソリ固めと似ているが、クロスした相手の足の間には自分の足を入れない。変形のリバース・ボストンクラブ。相手の足を4の字に固めてステップオーバーし、自身の膝裏で相手の曲げた足を引っ掛ける形で固める。技名はCIMAがさそり座であることから。
ターキー
一時C-MAXと共闘していたノーマン・スマイリーのルーマニアン・クラッチを伝授されたもの。V2アームロックを極めつつ、足で相手のもう片腕をアームロック状に極める。技名は首、両腕の3箇所を極めることからボウリングのターキー(3連続ストライク)に擬えたもの。
投げ技 [編集]


シュバイン
シュバイン
ドイツ語で豚という意味の落とし技。レスリングのタックルの要領で相手を担ぎ上げ、そのまま首から落下させる危険な技。担ぎ上げた後に相手の首を右手で持ち直し、危険度を調節出来る。ドンフジイと練習中に、タックルに行ったCIMAがたまたまフジイを持ち上げてそのまま頭から落としたことが誕生のきっかけと言われている。その後、より体重の軽い横須賀享を練習相手として完成させたといわれている説が一番有力であるが、それ以外にレスリング経験の練習生と練習で思いついた、また夢の中に出てきたなど、その開発経緯は諸説語られている。名前の由来はBUCK-TICKの今井寿、櫻井敦司らが結成したバンド「SCHWEIN」から。
現在では相手の足を交差させ、リストクラッチをし、さらに危険度が増したシュバイン・レッドライン(落とした後そのままフォールするシュバイン・レッドライン・ホールド)、担ぎ上げた状態のまま締め付けるシュバイン固め(CIMA曰くオリンピック級の技なので次に出すのは4年後)なる技も登場。雪崩式で繰り出すシュバイン・シュタイナーもここ一番で見せる。また、抱えたままロープにリバウンドして走ってから放つランニング式シュバインを披露した。
クロスファイヤー
クロスアーム式の変型パワーボム。相手の右膝裏から左手首を、左膝から右手首を取り、腕を完全にロックして持ち上げるため受身がまったく取れない。2005年秋ごろに開発した新技。最初は「浜松バスター」(静岡県浜松市の会場で初めて使われた技)という名前だったが、ファンの受けが悪く暫く「クロスアーム式変型パワーボム」と表記されていた。しかし威力は強く、獣神サンダー・ライガーからドリームゲートのベルトを奪還したのもこの技である。試合後ライガーに「あんなの人死ぬぞ!!」と言わしめるほどの威力を誇る。
2008年に行った吉野正人とのオープン・ザ・ドリームゲート王座戦ではクロスファイヤーで叩きつけた後、相手の腕を持ったま後方へ倒れ込み、両足で相手の首を挟み込む関節技クロスファイヤー・ナシエンテを披露した。
パーフェクトドライバー
相手の足を4の字に交差させた状態でみちのくドライバーIIの要領で相手を逆さに担ぎ上げ、マットに叩きつける技。TAKAみちのくとの抗争時、みちのくドライバーIIに対抗するために作られた。パーフェクトは当時のCIMAの入場曲のタイトルから(現在は同曲に歌詞をつけたアレンジ版を使用)。
ネジと橋
パーフェクトドライバーの要領で相手をクラッチし、フィッシャーマンズ・スープレックスのように後方に反り投げる技だが、本人曰く「パーフェクトドライバーとはまったくの別物」である。ビッグマッチでは雪崩式でも繰り出す。名前の由来は「ネジって、ブリッジ(橋)をきかせて投げる」から。
アイコノクラズム
コーナーに座らせた相手の両脇を抱え上げて、シットダウンパワーボムのような体勢で相手を前方に放り投げる技。技名の由来はBUCK-TICKの曲名から。相手の両腕を交差して投げるとゴリコノクラズムになる(ビデオ撮影時にゴリラのぬいぐるみを投げたことから発明)。
また、これらの技はヴィーナスから連続して出すことが多い。
サルモネラ
ジャンピング・パイルドライバーと同形の技。名前の由来は、彼が実際にサルモネラに感染した時あまりに辛かったことから。
ナカユビ
相手にフロントネックロックを仕掛けるように手をまわして飛びつき、そのまま相手の胴体を両足で締めるようにしてのDDT。開発当時、C-MAXと抗争を繰り広げていたYASSHIに対抗してこの技を開発した。技名の由来はBUCK-TICKの曲名から。長らく使用していなかったが、最近は、DDTクラッチのまま抱え上げ、落とす瞬間に両足で胴体を挟みこむ変型のナカユビを披露した。
ドラッグボム
パワーボムの要領で相手を担ぎ上げ、前方に相手を後ろ向きに一回転させながらマットに叩きつけるフェイスクラッシャーに近い技。日本逆上陸初期の頃に時折使用していた。
スーパードロル
変形バックブリーカー。相手の背後から両膝を揃えてジャンプして飛びつき、膝を背中に当てたまま後ろに倒れ込む。たまに相手の正面から飛びついて、胸にダメージを与える(ツープラトンで繰り出される場合が多い)。もともとはBlood Generation当時のツープラトン技。名前の由来は愛用するプロテインサプリメントから。
コバクニ
コーナーで両サイドのロープを掴んで体を水平に持ち上げ相手の頭を両足でキャッチし、ヘッドシザースホイップの要領で前方に回転しながら相手の頭をコーナーポストに打ち付ける技。小林邦昭との関係は不明。
エゴイスト・シュバイナー
マグナムTOKYOとの抗争時に、マグナムのエゴイスト・ドライバーに対抗して作られた技。持ち上げ方はエゴイスト・ドライバーと同じだが、相手の体を自分の体の正面ではなくサイドに落とす。B×BハルクのE.V.Oと形は同じだが、ハルクのデビューよりも前に使用していた。
飛び技 [編集]
マッドスプラッシュ
その昔いたラブマシーンというレスラーが使っていた飛び技。開脚式のフロッグスプラッシュもしくはスーパーフライと言える。スキーのモーグルでいう「コザック」のような形。ヴィーナス→アイコノクラズム→マッドスプラッシュの一連の流れがCIMAの初期フィニッシュパターン。しかし、最近は膝を悪くしており、年に数回、大一番のときにしか見せないほどになっている。
トカレフ
セカンドロープに片足、トップロープに片足を乗せた状態から、トップロープに両足を揃えて踏み切り、その反動で飛び、コーナーポストに逆さ吊りにした相手の顔面に向かって、隣のコーナーポスト最上段からミサイルキックを放つ。プロレスリング・ノアの丸藤正道に「From コーナー to コーナー」として技をパクられた(丸藤はスワンダイブ式で飛ぶなど若干の差異はあるが)事を根に持っており、その後From コーナー to セイム・コーナー(コピー禁止)というバリエーション技を開発した。しかしこれも丸藤にパクられてしまった。タッグパートナーと同時に行うトカレフ2丁拳銃という技もある。
コーナー to セイム・コーナー(コピー禁止)
コーナートップに相手を座らせて前かがみにさせ、後ろから背中にフットスタンプをしかける。
モナリザ・オーバードライブ
トカレフの前方回転ミサイルキック。ミサイルキックというよりも前転踵落としのような形になる。トカレフ同様スワンダイブでなくロープに昇るようにして飛ぶのがコダワリ。大一番でフィニッシュ・ホールドへの布石として出す技。技名の由来はBUCK-TICKのアルバム名。
トルニージョ
リング上で加速をつけてトップロープを越え場外の相手に体を預けていく飛び技。飛び越える際に両手でトップロープを掴み、それを利用して体を回転させながら相手にぶつかっていく。
ダイビングフットスタンプ
仰向けに倒れた相手の腹部めがけてジャンプし、両足で踏みつける技。単純に倒れた相手にしかける他、スワンダイブ式、リング内からロープを利用して、リング内の相手に、またツープラトンではロープに相手の腕をからませ、パートナーが足を抱えた状態で行ったり、カナディアン・バックブリーカーで抱え上げた相手めがけて行ったりと、かなりバリエーションは豊富。
メテオラ
座っている相手にトップロープからダイビングニーアタックを放つ新フィニッシュ・ホールド。2009年3月5日後楽園ホール大会での復帰戦にて日本初披露。「技のアイディア自体は前から考えていたが、以前は膝の状態が悪かったので使用しなかった。」とCIMAは語っている。
丸め込み技 [編集]
ブラド・シルク・ロード(元L.A.MART(エル・エー・マート))
ルチャリブレでトケ・エスパルダスと呼ばれる丸め込み技。卍固めのような状態から相手を前のめりに倒し、十字固めのような体勢で丸め込む技。技名はCIMAの入場時に着用するネックチェーンなどを作っているアクセサリーショップの名前から。
ドスカラス・クラッチ
ソラリーナと同型の技。相手の腕を極めた状態でのスモールパッケージホールド。
ホルヘ・クラッチ
横十字固めのような形で、さらに足首も取って固めるため、脱出が非常に困難な丸め込み技。相手の状態が仰向けから、うつぶせ→仰向け→十字固めのように移行するので、見た目も非常に華麗。
ホルヘ・コンプリート
ブラド・シルク・ロードから入るホルヘ・クラッチ。
タイトル [編集]

DRAGON GATE
オープン・ザ・ドリームゲート王座
オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座
オープン・ザ・ブレイブゲート王座
オープン・ザ・お笑いゲート王座
闘龍門
UDG王座
エル ヌメロ ウノ 優勝
その他
インターナショナルライトヘビー級王座
UWA世界6人タッグ王座
大阪プロレス王座
2006年プロレス大賞技能賞
2007年PWGバトル・オブ・ロサンゼルス(BOLA)優勝
その他 [編集]

2009年にタレントの益田エレニと結婚、2010年に第一子(長女)が誕生している。妻はギリシャ人の父を持つハーフで、その縁もあって結婚以降はギリシャ国旗と同じ水色を自身のパーソナルカラーにしている。
みちのくマットにおいてTAKAみちのくとの抗争時には、TAKAのパスポートを焼くという暴挙に出る。TAKAがDRAGON GATEに乗り込んできた時に行われた貴重品コントラ貴重品マッチでは、逆にパスポートを奪われている。
左膝が極端に悪く、首の骨もまっすぐになっていないほど痛めていたが、2009年には克服している。
クレイジーの初期、前髪をゼブラ模様にし、左目に大槻ケンヂのようなペイント、さらには黒のマニキュアをほどこしていた。
ウルティモ・ドラゴンのインタビューによると「顔で言ったら間違いなく善玉(ベビーフェイス)なのだが、それだと当たり前でインパクトも無くなってしまう。だから、ヒールにした」とのこと。しかし、現在はほぼベビーフェイスである。
趣味は洗車。
2002年に愛車でうどん屋に突っ込んでしまう。車は大破するが店員や客にケガはなく本人も軽傷で済んだ。その後、「うどん屋にトペ・スイシーダ」としてネタにされている。
メキシコ時代、練習後にシャワーを浴びていたら、着ていた服や靴を盗まれ、スパッツとサンダル一丁で合宿所代わりのアパートに帰る羽目になった。
阪神タイガースのファンとしても知られ、新井健一郎とともにテレビの阪神戦中継にゲスト出演したこともある。
対戦相手を罵倒する際に、TAKAみちのくを吉田、Gammaを菅本と本名を呼んでおちょくる。逆にTAKAには「大島伸彦くん、いや、ノーブちゃーん」とおちょくられる。
土井成樹に続き、ブレイブゲートとドリームゲートのシングル2階級制覇を達成した。
団体内で初のリアルグランドスラム(ドリーム、ブレイブ、トライアングル、ツイン、お笑いゲート)を達成した。
ノア参戦時、丸藤正道と初遭遇。試合後に太田一平、リッキー・マルビンと握手をしたものの丸藤とは大胸筋を動かしあった。
入場曲 [編集]

Scatman's World / スキャットマン・ジョン
Beauty & Stupid / hide with Spread Beaver
Perfect! / JESUS BELIEVE ME
I Like Cola / JESUS BELIEVE ME
Me GUSTA COLA / FIRST BLOOD(現在使用)
関連書籍 [編集]

『OH! CIMA』 CIMA著、新紀元社、2002年。ISBN 4-7753-0099-7 - ターザン山本監修、ドキュメントフォトブック。
『夢の扉の開き方』 CIMA著、東邦出版、2009年。 - 初の自伝。
出演 [編集]

Web [編集]
CIMA独占インタビュー! モッテコ書店 (2009年5月25日)
投稿者 格闘技の王子様 18:02 | コメント(0)| トラックバック(0)

ショーン・マイケルズ

ショーン・マイケルズ(Shawn Michaels、1965年7月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アリゾナ州チャンドラー生まれ、テキサス州サンアントニオ出身。身長186cm、体重102kg。左利き。本名はマイケル・ショーン・ヒッケンボトム(Michael Shawn Hickenbottom)。
1990年代から2000年代を代表するWWEのスーパースター。1988年から2度目の引退をした2010年まで、約20年以上WWEに在籍した。プロレスラーとして卓越した技術と圧倒的なカリスマ性、ド派手なパフォーマンスなどで絶大な人気を誇り、ベビーフェイスとヒール、シングルとタッグの両方で活躍した。ハートブレイク・キッド(The Heart Break Kid、略称HBK)、ショーストッパー=ショーの主役(The Showstopper)、ボーイ・トーイ(Boy Toy)、セクシー・ボーイ(Sexy boy)、アイコン(The Icon)、メイン・イベンター(The Main Event)、ミスター・レッスルマニア(Mr. WrestleMania)など多くの異名を持つ。最終所属はWWEのRAW。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 NWAAWA
1.2 WWFへ
1.2.1 ザ・ロッカーズ
1.2.2 The Heart Break Kid
1.2.3 DX1度目の引退
1.2.4 1998年-2001年
1.3 復活
1.3.1 2002年-2005年
1.3.2 2006年-2009年
1.3.3 2010年 2度目の引退
2 評価
3 必殺技・得意技
4 獲得タイトル
5 入場曲
6 その他
7 DVD(日本語)
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
来歴 [編集]

NWAAWA [編集]
18歳の頃にホセ・ロザリオに師事し、1984年9月8日に地元サンアントニオ地区のテキサス・オールスター・レスリングにてアート・クルーズを相手にデビュー。ポール・ダイヤモンドとのタッグチーム「アメリカン・フォース」でキャリアを積み、海外武者修行中だった冬木弘道と川田利明の「ジャパニーズ・フォース」との抗争も行われた[1]。
1985年、中西部のミズーリ州やカンザス州をサーキット・エリアとするNWAセントラル・ステーツ地区においてマーティ・ジャネッティとミッドナイト・ロッカーズ を結成し、セントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得[2]。その後ダラス地区などを転戦し、1986年にAWAに移籍(AWAでは当初「USエクスプレス」と名乗るプランもあった)。翌1987年1月、バディ・ローズ&ダグ・サマーズを破りAWA世界タッグ王座を獲得した[3]。同年夏にWWFと契約するが、ナイトクラブでの乱闘事件が元でわずか2週間で解雇される[4]。その後、ミッドナイト・ロッカーズはAWAに戻り、1987年12月にデニス・コンドリーとランディ・ローズの"オリジナル" ミッドナイト・エクスプレスを下し再びAWA世界タッグ王座を獲得[3]。なお、当時のAWAには後にマネージャーを務めるシェリー・マーテルや、後世に語り継がれる名勝負を残すことになるスコット・ホールも在籍していた。
WWFへ [編集]
ザ・ロッカーズ [編集]
1988年、チーム名をザ・ロッカーズに改めWWFと再契約。立体的な空中戦と合体攻撃を武器に、後のライバル "ヒットマン" ブレット・ハート率いるハート・ファウンデーション(ブレット&ジム・ナイドハート)、ツイン・タワーズ(ビッグ・ボスマン&アキーム)、ファビュラス・ルージョーズ(レイモンド・ルージョー&ジャック・ルージョー)、ブレイン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)、リズム&ブルース(ホンキー・トンク・マン&グレッグ・バレンタイン)、デモリッション(アックス、スマッシュ&クラッシュ)、パワー&グローリー(ハーキュリーズ&ポール・ローマ)、オリエント・エクスプレス(タナカ&カトー)、ナスティ・ボーイズ(ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグス)などのチームと抗争を繰り広げ、女性や子供の観客を中心にアイドル的な人気を集めた。
1991年1月には、当時のWWFの日本での提携団体だったSWSに初来日。3月の再来日では同月30日に行われた『レッスル・フェストin東京ドーム』に出場し、ハート・ファウンデーションと対戦している(メインイベントは天龍源一郎&ハルク・ホーガン対リージョン・オブ・ドゥーム)[5]。
The Heart Break Kid [編集]
1991年11月27日、サバイバー・シリーズにおける同士射ちで相棒のマーティ・ジャネッティと仲間割れ。翌1992年初頭のブルータス・ビーフケーキのインタビュー・コーナー "バーバーショップ" で一旦は和解したかに見えたが、不意をついて放ったスウィート・チン・ミュージックでジャネッティをKO。以降、鏡を携えたセンセーショナル・シェリー(入場曲 "Sexy Boy" の初期ボーカルも担当)をマネージャーに、生意気な自惚れ男のギミック "ボーイ・トーイ" またの名を "ハート・ブレイク・キッド" としてヒールのシングルプレイヤーに転向した(ハート・ブレイク・キッドのネーミングは、"ミスター・パーフェクト" カート・ヘニングの考案による[6])。
ヒールターン後はティト・サンタナとの連戦を経てブレット・ハートとの抗争を開始し、1992年7月にブレットの保持するIC王座に挑戦。この試合はWWE史上初のラダー・マッチで行われたが、タイトル奪取には至らなかった。その後、同年10月27日にブリティッシュ・ブルドッグを破り同王座を獲得[7]、初のシングルタイトル載冠を果たした。
サバイバー・シリーズではブレットのWWF世界ヘビー級王座に挑戦するがシャープシューターで敗退。1993年3月のRAWではマーティ・ジャネッティにIC王座を奪われるも、短期間で王座を奪還する。同時期、マネージャーのシェリーと決別し(ジャネッティの急襲をシェリーを盾にして防いだことによる[8])、ボディーガードとして新しくディーゼルを雇っている。
そうした中、WWFを一時離脱。王座防衛を行わないことが理由とされたが、ステロイドが原因という噂もあった(本人は否定)。WCWとの接触も噂されるも、ほどなくして復帰。当時WWFと提携していたメンフィスのUSWAにも参戦している。11月のサバイバー・シリーズではハート・ファミリー(ブレット、オーエン、ブルース&キース・ハート)(w / スチュ・ハート)を相手に主将を務めた。
ショーンが離脱中の1993年9月27日、空位のIC王座を争うバトルロイヤルに勝ち残ったレイザー・ラモンとリック・マーテルの間で王座決定戦が行われ、ラモンがマーテルを下して新王者になった[9]。しかし、復帰したショーンはこれを認めずに互いに王者を主張し合った。真の王者を決めるべく行われたのが、1994年のWrestleMania Xでのレイザー・ラモンとのラダー・マッチである。試合には敗れたものの、双方ともに実力を出し切ったこの試合はショーンの大ブレイクにつながった。同年8月28日、ボディーガード役のディーゼルとのコンビでザ・ヘッドシュリンカーズ(ファトゥ&サムゥ)を破り、ロッカーズ時代には果たせなかったWWF世界タッグ王座獲得を実現[10]。しかし翌日のサマースラムでのIC王座を掛けたディーゼルvsレイザー・ラモンにおいて、誤ってディーゼルにスウィート・チン・ミュージックを見舞ってしまう。これが原因で2人の間に亀裂が生じ、11月のサバイバー・シリーズでのディーゼルの裏切りを誘発することとなった。
これがWrestleMania XIでの遺恨に繋がる。翌1995年、ロイヤルランブルでの優勝を経てWrestleMania XIにてディーゼルの持つWWF世界ヘビー級王座に挑戦したが敗退。この際、新しいボディーガードとしてサイコ・シッドを雇うが敗北の翌日に襲撃され、しばらくの休養に入る。
その年の5月にベビーフェイスとして復帰。7月のイン・ユア・ハウスにてジェフ・ジャレットを破り、3度目のIC王座獲得に成功。8月のサマースラムではレイザー・ラモンとの再度のラダー・マッチにも勝利した。この時期にはクリックのリーダーとして舞台裏での影響力を強め、10月のイン・ユア・ハウスではディーン・ダグラスに王座を明け渡すことを拒否し、負傷による王座返上にアングルを変更させ、同日に仲間のレイザー・ラモンに王座を獲得させている。その後はオーエン・ハートらと抗争したがサバイバー・シリーズの翌日にオーエンにエンズイギリを食らい脳震盪を起こすストーリーを設け、短期間ながら欠場する。ちなみに、布石としてナイトクラブにおいて襲撃されるストーリーもあった。
1996年にはロイヤルランブルに一番手として登場し史上初となるロイヤルランブル連覇を達成。WrestleMania XIIにおいてWWF世界ヘビー級王者ブレット・ハートとWWF史上初のアイアンマン・マッチで対戦。入場シーンでは会場のアローヘッド・ポンドの屋外最頂部から滑車を使ってロープを滑り降りるという破天荒な入場パフォーマンスをやってのけた(この入場シーンの映像はショーンのハイライトを振り返る上で必ずと言っていいほど流される)。試合は後にショーンが「自分の現役生活でも最高の試合」と評するほどの激闘となり、延長戦の末勝利。初のWWF世界ヘビー級王座奪取を果たした[11]。しかし、この時の経緯を巡りブレット・ハートは激怒し、彼との間に大きな確執を残すこととなった。また、同年5月19日にはMSGのリング上でカーテンコールを行い、後々に影響を及ぼしている。
名実ともにWWFの頂点に立ったショーンは、ブレットが長期休養を取ったこともあり、マンカインド、ベイダー、ブリティッシュ・ブルドッグらを相手に防衛を重ねるが、サバイバー・シリーズでサイコ・シッドにWWF王座を奪われた。翌1997年1月19日、地元サンアントニオのアラモドームに6万人超の観客を集めたロイヤルランブルで王座を奪回するが、この試合で膝を痛め王座返上し、WrestleMania 13には不出場。しかし、これは直前にブレットが契約更改でビンス・マクマホンから高額な契約金を引き出したことに対しての試合ボイコットであった、という説もある。
復帰後の5月25日には、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンと組んでオーエン・ハート&ブリティッシュ・ブルドッグからWWF世界タッグ王座を獲得。この年のサマースラムでは、ブレット・ハート対ジ・アンダーテイカーのWWF世界ヘビー級王座戦のゲストレフェリーを務めた。この試合の決着はショーンのテイカーへのイス攻撃誤爆によってブレットが勝利を奪った。これがきっかけとなりアンダーテイカーとの抗争が勃発、10月のバッド・ブラッドにて初のヘル・イン・ア・セルが行われた。試合は金網の外側にも及び、天井での攻防の末に5メートルしたに落下するなど激闘となり、結末はケインの乱入によってテイカーが敗北を喫した。この抗争の最中、9月20日のイギリス・バーミンガム大会において、ブリティッシュ・ブルドッグからWWFヨーロピアン王座を獲得[12]、これによって初のグランドスラムを達成している。
DX1度目の引退 [編集]
1997年秋、再度ヒールターンしてハンター・ハースト・ヘルムスリー、チャイナらとD-ジェネレーションX(略称DX)を結成。ブレット・ハートをリーダーとしたハート・ファウンデーションと抗争を繰り広げた。同年11月、モントリオールで開催されたサバイバー・シリーズにおいて、すでにライバル団体WCWへの移籍が決定していたブレットのWWF世界ヘビー級王座に挑戦。しかし、ショーンがブレットの必殺技のシャープ・シューターを繰り出した瞬間、突如としてショーンの勝ちが宣告される不可解な事件が起こる(モントリオール事件を参照)。結果的にショーンは王者に返り咲き、最大のライバルであったブレットはWWFを去ることになったが、DXは相変わらずの下品で下劣な行為に走っていた。この時期、WWFはライバル団体WCWとの視聴率戦争で苦戦を強いられており、それまでのニュー・ジェネレーション路線から、より過激なアティテュード路線への方針転換の過渡期を迎えていた。DXは、その始まりの象徴的な存在でもあった。
この頃から長年に渡るハードな受身が災いし、持病の椎間板ヘルニアが悪化。そうした中、ロイヤルランブルでジ・アンダーテイカーを相手に棺桶戦を行い、王座防衛こそしたがケガはよくならず、様々な治療やリハビリを試みたがこの時点では回復は困難と見られ、1998年3月29日、WrestleMania XIVでのWWF世界ヘビー級王座を賭けたストーン・コールド・スティーブ・オースチン戦を最後に一度は引退した。なおストーリー上では、DXに加入して試合の特別立会人を務めたマイク・タイソンが、試合中にショーンを裏切りオースチンの勝利をアシスト、試合後にショーンがタイソンを問い詰めて張り手を放つも、タイソンから反撃のフックを浴びてKOされ、そのダメージが原因で離脱という形になった。
1998年-2001年 [編集]
引退後は故郷サンアントニオに戻り、プロレスリング・スクール兼WWFファーム団体のTWA(Texas Wrestling Academy)を設立し、後進の育成に励んだ。TWAには若手時代のタッグパートナーでありAWAやWWFでも活動を共にしたポール・ダイヤモンドもヘッド・インストラクターとして協力しており[13]、卒業生にはブライアン・ケンドリック、ポール・ロンドン、ランス・ケイド、ブライアン・ダニエルソンなど後にWWEで活躍する選手も多い[14]。
また、この時期にはストーリー上WWFのコミッショナーに就任して、テレビにも時折出演。ビンス・マクマホンのコーポレーション[15]に一時的に所属したり、ザ・ロックとトリプルHのアイアンマン・マッチのレフェリーを務めたりしたこともあった。1999年11月23日に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念大会では、特別レフェリーとして久々の来日も果たしている。私生活においては、親友ケビン・ナッシュの紹介で出会った元ナイトロ・ガールズのレベッカ・カーチと結婚した。
復活 [編集]
2002年-2005年 [編集]
2002年、nWoの新メンバーとしてケビン・ナッシュがショーンを連れてくる形で衝撃の復帰を果たしたが、スコット・ホールが不祥事を起こし離脱、ケビン・ナッシュも負傷休場してしまいnWoが崩壊してしまう。その後、ヴェンジャンスにてトリプルHに間接的にD-Generation Xの再結成を呼び掛ける。一時は再結成かと思われたがRAWにおいてショーンを裏切る恰好で抗争が始まり、サマースラムでのトリプルH戦(団体未公認試合)でついにリングへの復帰を果たし見事勝利するが試合後、トリプルHにハンマーで襲撃される。さらに抗争は続きサバイバー・シリーズで初のエリミネーション・チェンバー・マッチで初の世界ヘビー級王座をトリプルHを倒し獲得。年末のアルマゲドンでは決着戦としてスリー・ステージ・オブ・ヘル・マッチが行われ1勝2敗で王座を失った。2003年に入りクリス・ジェリコは自分が次のショーンであり、それ以上だと主張、ロイヤルランブルでは一番手で登場したマイケルズを二番手のジェリコが試合開始前に乱入、何もさせないまま退場させてしまう。抗争の決着は、WrestleMania XIXでクリス・ジェリコと共に好試合を演じ勝利した。試合後二人は抱擁を交わすがジェリコはショーンに金的を食らわす形で因縁の継続を示唆した。
2003年は世界ヘビー級王者トリプルH、あるいはその派閥エボリューションとの抗争を続け、年末からはトリプルHとの試合を繰り返し、ロイヤルランブルでは世界ヘビー級王座を賭けたラストマン・スタンディング・マッチで決着を計るが血まみれの末に引き分けとなった。同じロイヤルランブルでの覇者クリス・ベノワが王座への挑戦権を得た上に王座挑戦権の死角をつき、当時SmackDown!所属ながらRAWの最高王座に挑戦を表明したため二人の抗争に割り込む形となった。WrestleMania XXではトリプルH、ベノワとレッスルマニア初の三つ巴戦のメインイベントになりクリス・ベノワが戴冠した。翌月のバックラッシュでの再戦ではモントリオール事件がテーマとなり、ブレット・ハートと関係が深いベノワのシャープシューターにショーンがタップアウトした。以降はトリプルHとの抗争に戻り、バッドブラッドでは世界ヘビー級王座戦を差し置いてノンタイトル戦であるショーン・マイケルズ対トリプルHのヘル・イン・ア・セルがメインイベントとなる。試合は50分に迫る壮絶な激闘となり、お互いの必殺技をキックアウト。最後は合計3発のペディグリーを浴びて敗北、完全決着に至った。翌日のケインの襲撃を期に長期欠場に入った。復帰後はケイン、あるいはエッジと抗争。

2005年のロイヤルランブルにおいてカート・アングルを敗退させて以降、SmackDown!所属のスーパースターであるカート・アングルとの抗争を開始し、WrestleMania 21の番組対抗戦で対決、柔軟な試合をするもアンクル・ロックにタップアウトした。WrestleMania 21以降は一時復活したハルク・ホーガンとチームを組み、バックラッシュまでモハメド・ハッサン、デバリの嫌米チームと抗争。6月に行われたドラフトでカートがRAWへ移籍し、ヴェンジャンスで再戦しスーパーキックを見舞い雪辱を果たした。7月4日の独立記念日に開催されたRAWでのマイケルズ&ホーガンvsカート&クリス・マスターズ戦の試合終了後、突如ホーガンにスウィート・チン・ミュージックを浴びせヒールに転向。以降ホーガンとの抗争を開始する。サマースラムのメイン戦でホーガンとのICON対決には敗れたが、再びベビーとなった。秋からは同じくベビーターンしたリック・フレアーと組み、マスターズと抗争を開始。マスターズとの抗争を終え、USAネットワークに戻ったRAWでカートとのアイアンマン・マッチを行い、スウィート・チン・ミュージックを浴びせてフォールするが3カウント直前で時間切れ引き分けとなり、カートに延長戦を呼びかけるがカートが拒否して立ち去った。その後のサバイバー・シリーズでのSmackDown!との番組対抗の一連の抗争ではRAWの主将を務めたが、チームは敗れた。

2006年-2009年 [編集]
2006年からは、モントリオール事件についても語られているブレット主演のDVDの発売の際にビンス・マクマホンがブレットを批判するマイクパフォーマンスをしているところにショーンが現れ、「俺はアンタとグルになってブレットをハメた。だが、俺もアンタももういい年こいてるんだから過去のことをいつまでも言わずに前に進め」と発言したことがビンスの怒りに触れ、ビンス、シェイン・マクマホンと抗争開始。Saturday Night Main Eventでのシェイン戦は、シェインがショーンに対してシャープ・シューターを出した瞬間にビンスがゴングを要請して試合が決着するという、モントリオール事件を再現するアングルが組まれた。WrestleMania 22ではビンスとのストリート・ファイト戦が組まれた。最後は特大のハシゴ上空からの数年ぶりにDXチョップをした後にダイビング・エルボー・ドロップをビンスに叩き込み、スウィート・チン・ミュージックで完全粉砕した(同日、別試合でトリプルHもDXチョップをした)。以後もマクマホン親子との抗争は続き、7月、トリプルHと組み、9年ぶりにD-Generation Xを再結成した。相手を小馬鹿にし、時には下品に、時に過激なやり方で翻弄するパフォーマンスを披露し、マクマホン親子の手下であるスピリット・スクワッドやウマガに勝利、最後はビッグ・ショーとマクマホン親子とハンディキャップ・ヘル・イン・ア・セルで、「ビンスのケツにキスする会」を行っているビンスに対して、失神しているビッグ・ショーの尻を丸出しにしてビンスの顔を突っ込ませ、最後はスレッジ・ハンマーで殴打して勝利した。以降はDXを排除するためにタッグを組んだエッジとランディ・オートンのレイテッドRKOを相手に抗争するが翌年のニュー・イヤーズ・レボリューションでの戦い中で、トリプルHが脚を負傷してしまうアクシデントに見舞われる。この事態にDXのストーリーは急遽中止となった。
2007年のロイヤルランブルでは激闘の末、ジ・アンダーテイカーに優勝を奪われた。その後のジョン・シナの持つWWE王座への挑戦権を獲得。WrestleMania 23では負傷で出場できない相方トリプルHのために入場曲にDXのテーマ曲を使用して挑んだが、惜しくも王座奪取はならなかった。 同年、ランディ・オートンに頭を蹴られ(本当は足の怪我)欠場していたが、ノー・マーシーの翌日のRAWで復活した。その後はオートンと抗争。スウィート・チン・ミュージックを幾度となく叩き込むが、サバイバー・シリーズでの王座に挑む条件としてオートンの希望であるスウィート・チン・ミュージックの使用を禁止、ショーンの希望である反則裁定無しのルールのもと行われ、巧みな関節技を駆使して追い詰めながら一瞬の隙を突かれRKOに沈む。その後は、Mr.ケネディと抗争した。
2008年、ロイヤルランブルでアンダーテイカーと共に1番手として出場したが、Mr.ケネディに落とされた。 WrestleMania XXIVでは、ビンスにより試合に負けたら即引退を課されていたリック・フレアーと対戦。「子供の頃からの憧れであるフレアーを引退に追い込みたくない」と乗り気でなかったショーンにフレアーが活を入れる形で勝負、そしてこれに勝利し、フレアーを引退へと導いた。翌日の引退式典で涙の抱擁をかわした。 その後はバティスタやクリス・ジェリコにフレアーを引退させたこと責められる恰好で抗争する。特にジェリコとの戦いは私闘に発展していった。サマースラムでの今後の進退発表の場でジェリコに自分の実妻に対して結果的に拳を見舞われ激しく憤る。それはアンフォーギヴェンでの非公認試合にまで発展し、狂騒ともいえる内容になった。試合には勝利したが、ジェリコが同日の王座戦に出場し王者になったことで、今度は王座に照準を定める。決着はノー・マーシーでのラダー・マッチ形式世界ヘビー級王座となった。惜しくも王座獲得はならなかった。サバイバー・シリーズでチームJBLなどとの抗争で主将を務め勝利するなど番組の中心として活躍するが、アルマゲドンにて景気悪化の煽りを受け破産状態になったと「告白」、JBLの"従業員"となって彼の試合に介入、観客からブーイングを浴びると共にトリプルHとの仲も微妙になり、悩めるベビーフェイスとして葛藤の日々を続けた。
しかし2009年のノー・ウェイ・アウトで行われた、マイケルズが勝ったら今までの報酬が全て支払われるが負ければHBKやショーン・マイケルズの名前の権利がJBLに奪われるという "オール・オア・ナッシング" マッチに勝利し、ハート・ブレイク・キッドが復活した。
2月のRAW放送ではそれまで無敗を誇っていたウラジミール・コズロフをスウィート・チンで下すなど破竹の快進撃を続け、「ミスター・レッスルマニアの誇りに懸けてWrestleMania XXVでアンダーテイカーのレッスルマニア無敗記録(16勝0敗)を破る!」と宣言。
その後のSmackDownにおいてテイカーの入場衣装と似ている白い衣装を着て現れ、「俺はテイカーを尊敬しているが恐れてはいない。たしかにお前はレッスルマニアで16勝無敗かもしれないが、俺はミスター・レッスルマニアだ!テイカーは暗黒より生まれた邪悪な力だが、俺は天界より生まれし聖なる力だ」と宣言して挑発。その後のRAWとSmackDownにおいてもあの手この手でテイカーを挑発、翻弄して迎えたWrestleMania XXVでは激闘の末に敗れ、テイカーの無敗記録を止めることはできなかった。このWrestleMania XXV後は長期休養に入った。
その後8月のRAW放送においてランディ・オートン率いるレガシーのコーディ・ローデスとテッド・デビアスとのハンディキャップマッチに敗れたトリプルHが「テキサスに電話を一本かけるか」とDXの復活を示唆。翌週テキサスに飛び、とある会社の食堂でシェフをしていたショーンを発見する。ショーンは「俺はWWEに復帰する気はない。会社はシェフとしての俺を尊敬してくれてる」と言ったが直後に上司に罵倒され、スウィート・チンで撃沈。DXが再結成した(このスキットは映画『レスラー』のパロディ)。 再結成後はレガシーのローデス&デビアスと抗争。サマースラムではDXが勝利するが、モントリオールで開催されたブレーキング・ポイントでは史上初の試合形式であるサブミッション・カウント・エニウェア・マッチで闘い、モントリオール事件を根に持つ観客から "You screwed Bret!" のチャントが湧き起こるなかでローデスの鉄柱4の字固め、デビアスのミリオンダラー・ドリームのダブル攻撃に屈してしまい、DXとしては初めてのタップアウト負けを喫した。3度目の対戦となるヘル・イン・ア・セルでは勝利し、決着がついた。
12月に開催されたTLCでのTLC戦でクリス・ジェリコ&ビッグ・ショー組に勝利し、DX初の統一タッグ王者となる。
2010年 2度目の引退 [編集]
2010年1月4日のRAWで12年ぶりにWWEに復帰したブレット・ハートに呼び出され、モントリオール事件以来、確執が続いていると思われた両者が握手をして抱き合い、和解した。
翌週の1月11日のRAWのゲストホストを務めたマイク・タイソンに対してWrestleMania XIVでタイソンがDXを裏切ってマイケルズを引退に追い込んだ件の和解を求めたが拒否され、そこにDXによってRAWを追放されたクリス・ジェリコが割り込み、同日のメインイベントとしてDXvsジェリコ&マイク・タイソンのタッグ戦が実現。しかし、試合中にタイソンが自分の着ていたTシャツを脱ぐとその下にはDXのTシャツを着ており、ジェリコを裏切ってフック一撃でKOし、DXが勝利。WrestleMania XIVでタイソンがマイケルズを裏切ってKOした後にオースチンのTシャツを着た場面を思い起こさせる決着で、試合後はタイソンとタイソンの息子と共に勝利を喜び合った。
2009年12月14日のRAWにおける2009年度WWEのスラミー賞授与式典において、WrestleMania XXVのショーン・マイケルズ対ジ・アンダーテイカー戦が年間最高試合に選ばれ、受賞スピーチにてショーンが「俺はミスター・レッスルマニアだ! 次こそ俺はテイカーをレッスルマニアで倒せる! 俺とレッスルマニア26で再戦しろ!」と発言して以降、レッスルマニアでのアンダーテイカーへのリベンジに執念を燃やすようになる。
2010年1月18日のRAWに現れた世界ヘビー級王者ジ・アンダーテイカーはショーンに対して、「たしかにお前はレッスルマニアで俺に挑んできた者の中でミスター・レッスルマニアに相応しく最も俺を追い詰めたが、それでも俺はお前を倒した。俺がもう一度お前に勝って何を得られると言うのだ? レッスルマニア26での再戦はしない。その代わりに今夜お前と戦ってやる」と返答。それに対してマイケルズは「今夜ではなくお前のレッスルマニア無敗記録を破らなければ、俺のミスター・レッスルマニアとしての誇りが許さない! お前が俺との再戦を望まないなら、俺はロイヤルランブルで優勝してレッスルマニア26でお前の世界ヘビー級王座に挑戦する!」と宣言。
翌週のRAWにてDXの相棒であるトリプルHに対して「俺達は友達だろ? 今年だけでいいから俺に優勝を譲ってくれ」と言うが、「お前の気持ちは痛いほど分かるが、WWEの全てのレスラーがレッスルマニアのメインイベント出場と世界王座を欲しがってるし、その目標を持たない奴はWWEから去るべきだ」と拒否され、納得こそしたものの、以降はギクシャクした関係になる。そしてロイヤルランブルで18番手として登場し、相棒のトリプルHを退場させるなど非情に徹するものの、30番目に登場したバティスタに落とされ、失格した直後は制止してきたレフェリーに八つ当たりのスウィート・チン・ミュージックを浴びせた。翌日のRAWでは完全に意気消沈してモチベーションを失い、エリミネーション・チェンバーでのWWE王座戦出場出場を懸けたランディ・オートンとの一戦では優勢に戦いながらも一瞬の隙を突かれて敗れた。試合後に心配して声をかけてきたトリプルHに対して、「テイカー以外に戦うべき相手なんていない」とだけ答えて去った。
2月8日のRAWでは、統一タッグ王座の防衛戦の試合前にトリプルHに対して「俺達はまだDXとしてレッスルマニアに出場したことがないから、レッスルマニア26では統一タッグ王座の防衛戦をやろうぜ!」と持ちかけるも、「俺はエリミネーション・チェンバーでのWWE王座戦に勝ってレッスルマニアのメインイベントに出場するつもりだから、お前とのタッグ戦をやるためにチェンバー戦にわざと負けるわけにはいかない」と拒否され、同日の防衛戦では自暴自棄になったショーンが勝利目前にブラインドタッチで勝手に交代した隙を突かれてビッグ・ショー&ザ・ミズに敗れて統一タッグ王座を奪われる。試合直後にテイカーが所属するSmackDown!のゼネラルマネージャーのセオドア・ロングに対して「エリミネーション・チェンバーでSmackDownの世界ヘビー級王座戦に出場させてくれ!そこで俺が世界王者になってレッスルマニア26でテイカーと防衛戦ができるなら俺はDXを捨ててSmackDownに移籍してもいい!」とまで必死の形相で懇願するが、既に出場メンバーが決まっていると拒否され、かけつけたトリプルHに「テイカー戦にこだわってDXとお前のキャリアまで捨てるのか!?」と問い詰められると、「俺のキャリアはもう終わりだ」と吐き捨ててロングGMにスウィート・チン・ミュージックを浴びせて立ち去った。
2月21日のエリミネーション・チェンバーで行われたエリミネーション・チェンバー・マッチ方式での世界ヘビー級王座戦 にて、アンダーテイカーの世界王座防衛目前でリング下から突如としてショーンが乱入してテイカーにスウィート・チン・ミュージックを浴びせてテイカーを王座から陥落させた。翌日のRAWでテイカーに対して「俺に復讐したいだろ? ならレッスルマニア26で俺と再戦すればいい」と語ると、テイカーが「いいだろう。しかし一つ条件がある。俺に負けたら現役を引退しろ!」と返答し、ショーンが「勘違いするな。最初から俺はレッスルマニアでお前を倒すことにすべてを懸けてるんだ!」と応じたため、再戦が実現。
3月1日のRAWの冒頭でリングに上がったショーンは「控え室にいる連中が“引退を懸けてテイカーの無敗記録に挑むなんてクレイジーだ”と小声で話してやがる。だが、この地球上の誰もが知ってる通り俺はミスター・レッスルマニアだ! 俺がレッスルマニアでテイカーに勝てないと思う奴は叩き潰してやるから今すぐ出て来い!」とマイクアピールすると、親友のトリプルHが登場し、ショーンは呆然としながら「15年来の親友のはずのお前が俺を信じないのか!?」と詰め寄ると、トリプルHは「お前がレッスルマニアでテイカーに勝てるかだって? 絶対に勝てる!! 観客やテレビカメラのことは忘れて俺の目を見てよく聞け! 俺は今まで15年以上も数々の強敵と戦ってきたが、間違いなくお前が最強だ!! 控え室の連中やファンから勝つと信じてもらえなきゃ不安か? そんなものが無くても、あの祭典の夜に立ったお前は“真のミスター・レッスルマニア”だ!! 俺達はレッスルマニアに向けて別々の道を歩むが確信を持って言えるのは、DXは決して死なない!! だが、これから祭典まで俺達はタッグを組めなくなる。だから俺は今夜WWE統一タッグ王座戦の再戦権を行使した。俺はタッグ王座奪回にこだわってるわけじゃない。タッグ王座を獲得したら30日以内に防衛戦を戦わなければならない。だから28日後、つまりレッスルマニア26翌日のRAWで、テイカーに勝って現役続行してるお前と一緒にタッグ王座防衛戦をやってDX流の祝勝会をやろうぜ!! 俺がお前とタッグ王座獲得を目指すのは、お前が絶対にレッスルマニアでテイカーに勝つと信じている証だ!!」と熱い友情と信頼を示し、ショーンも承諾したため同日のメインイベントでビッグ・ショー&ザ・ミズとの統一タッグ王座戦での再戦が実現。試合はDXが息の合った連携で優勢に進め、勝利を目前とした瞬間にタイタントロンにテイカーが映り、ショーンに向かって白目を剥いて睨みつけて心理戦を仕掛けられ、その隙を突かれて丸め込まれて3カウントを奪われて敗北、統一タッグ王座奪回はならなかった。
3月28日、WrestleMania XXVIでアンダーテイカーのレッスルマニア無敗記録とショーンの現役引退を懸けた反則裁定無しの試合が行われた。この試合はWWE王座戦と世界ヘビー級王座戦を差し置いてメインイベントとして行われ、前年の対戦に勝るとも劣らないプロレス史上最高の名勝負を繰り広げた。終盤、アンダーテイカーの必殺技ツームストーン・パイルドライバーを浴びてもショーンはキックアウト。テイカーが首を掻き切るポーズでもう一発ツームストーンを放つ意思を示そうとしたが、敗れれば引退することになるショーンに対してトドメを刺すことを躊躇する。しかし、ショーンは「情けは無用だ!」とばかりにテイカーの代名詞である首を掻き切るポーズで挑発して張り手を浴びせ、激怒したテイカーのジャンピング・ツームストーン・パイルドライバーを浴びて敗北、引退が決定する。
翌日のRAWの放送で、引退セレモニーが行われ、ファンへの感謝を述べた。ファンは「Please, don't go!」「One more match!」など留意を促すチャントを何度も飛ばし、ショーンへの敬意を表すために顔を見せたアンダーテイカーに対して途中までブーイングを浴びせるなどした(極悪ヒールを演じていてもブーイングをほとんど浴びないアンダーテイカーにブーイングが飛ばされるのは異例のこと)。そして番組の最後でトリプルHと抱き合い、DXが3度目の終焉を迎えた。
以降もテレビに出演したり、地元サンアントニオでのRAWのバックステージに遊びにきたりと、元気な姿を見せている。
評価 [編集]

派手なパフォーマンスが注目されがちであるが、身体能力と受身技術は非常に高く、リック・フレアーらの前世代のマットレスリング技術を継承している数少ない一人である。また、相手や状況によって様々なファイトスタイルを選ぶことができ、飛び技やラフファイト(特にラダー・マッチに関しては当代の第一人者の一人と言われる)からサブミッションまで、あらゆる局面に巧みに対応することができる稀有なレスラーである。レッスルマニアなどの大舞台でも、極めて高いパフォーマンスを安定して残しており、リック・フレアーが彼を「Mr.レッスルマニア」と呼ぶのにも頷ける。キャリア末期は故障の蓄積や身体能力の衰えもあり、かつてのようなスピードや跳躍力をメインにした試合の組み立てはしなかったものの、レスリングテクニックと華やかなパフォーマンス、そしてここぞという時に見せる華麗かつ大胆な飛び技は健在だった。
必殺技・得意技 [編集]



スウィート・チン・ミュージック


ダイビング・エルボー・ドロップ


ムーンサルト・アタック
スウィート・チン・ミュージック
基本は対角線上で行う、助走付きのトラース・キック。マイケルズの代名詞的な技として知られている。蹴る前、相手がダウンしている時に対角線コーナーで右足で思い切り足踏みをするアピールを行う。その際に観客はショーンが足踏みをするタイミングに合わせて足踏みする数を数える。その際、実況アナウンサーは「Tune up the band!(バンドの用意ができた!)」というフレーズを発する。
他にもカウンターや咄嗟に出すこともあり、ダイビング技を行おうとした相手にタイミングよく決めたりなど、そのパターンも豊富である。
フライング・フォアアーム
主に相手にロープに振られた後、カウンターで出す。ヒット後、ヘッドスプリングで立ち上がるのが定番ムーブ。Boy Toy時代(1992年のヒール転向直後)のライバル、ティト・サンタナも得意としていた。
ムーンサルト・アタック
その名の通り、立っている相手に対して放つムーンサルトプレス。若きころから長年にわたって、愛用している技の一つであり、現在でもレッスルマニアなどの大舞台では使用している。コーナー最上段から場外にいる敵に対して放っていったり、時には、実況席に倒れている相手に向かって使用する。
ダイビング・エルボー・ドロップ
リング外の、アナウンサーテーブルに相手を寝かせた状態でコーナー最上段から飛ぶこともある。時には実況席に倒れている相手にコーナー最上段から放つこともある。
リバース・アトミック・ドロップ
主に、走ってきた相手にカウンターで仕掛けるパターンと下記にあるとおり、フィニッシュへのコンビネーションで使う二種類がある。
変形足4の字固め
ジェイミー・ノーブルから教わった技である。時にはフィニッシュ・ホールドとしても効果を発揮していた
ドロップキック
若手のころに好んで使用していた技で、現在はほとんど使っておらず、ハウス・ショーのみでしか見ることができない。
逆水平チョップ
若いころから好んで使っている技で、一発浴びせる度に「woooooo」と観客が叫んでいた。
フィニッシュへのコンビネーション
以下のコンビネーションでフィニッシュへとつなげるのが定番である。(1)フライング・フォアアームで相手もろともダウン、(2)ネックスプリングで即座に立ち上がる、(3)起き上がった相手に対してパンチ、リバース・アトミック・ドロップを繰り返す、(4)スクープスラムでリング中央にダウンさせる、(5)コーナーに上りダイビングエルボー、(6)足を踏み鳴らしリズムを取ってから、助走してスウィート・チン・ミュージック。(マイケルズと対等に闘える実力を持ったレスラーには、最後の助走付きのスウィート・チン・ミュージックを回避されることが多い。回避された場合、マイケルズは相手の隙を突き、近い間合いから助走なしのスウィート・チン・ミュージックで仕留める)
獲得タイトル [編集]

WWF / WWE
WWE王座 : 3回
世界ヘビー級王座 : 1回
インターコンチネンタル王座 : 3回
WWF欧州王座 : 1回
WWFタッグ王座 : 3回(w / ディーゼル×2、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン×1)
世界タッグ王座 : 1回(w / ジョン・シナ)
WWE統一タッグ王座 : 1回(w / トリプルH)
ロイヤルランブル優勝(1995年、1996年)
グランドスラム達成(1997年)
NWA
NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / マーティ・ジャネッティ)
AWA
AWA世界タッグ王座:2回(w / マーティ・ジャネッティ)
CWA
AWA南部タッグ王座:2回(w / マーティ・ジャネッティ)
その他
TASWテキサス・タッグ王座:2回(w / ポール・ダイヤモンド)
TWAヘビー級王座:1回
入場曲 [編集]

Sexy Boy
現在は自らのボーカル。当初はマネージャーを務めていたセンセーショナル・シェリーがボーカルのバージョンだった(現バージョンでは喘ぎ声のみ)。
Break It Down
その他 [編集]

1996年、PWI500(ProWrestlingIllustrated誌が選ぶプロレスラーベスト500)で1位に選出。
1997年にはヨーロピアン王座の獲得によりWWE史上初のグランドスラム(IC王座、欧州王座、WWFタッグ王座、WWF王座を獲得)を達成。
WWEでは初のグランドスラム、ラダー・マッチ、ヘル・イン・ア・セル、エリミネーション・チェンバー、ロイヤルランブルで一番手での優勝に連覇とパイオニアとしての話題に事欠かない。
2005年秋に自伝『Heartbreak & Triumph』を発売。
自称、物凄い音痴。入場曲『Sexy Boy』は自ら歌っているが、かなり編集され、聞ける所までになったと言っている。
ケビン・ナッシュ、スコット・ホール、ショーン・ウォルトマン(1-2-3キッド、Xパック)、トリプルHとは団体の垣根を超えた親友の間柄にあり、正式なユニットではないが「KLIQ」(クリック)と呼ばれる。
若手時代は気難しい性格の持ち主として有名で、周りとの衝突が絶えなかったが、信仰に目覚めてからは面倒見のいいベテランとして評価されるようになった。
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ジョン・レイフィールド

ジョン・チャールズ・レイフィールド(John Charles Layfield、1969年11月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、証券アナリスト、投資家。元WWE所属。
目次 [非表示]
1 概要
2 プロフィール
2.1 デビュー前後
2.2 WWFタッグ王者
2.3 JBLギミックの誕生
2.4 トップヒールとしての活躍
2.5 引退と復帰
2.6 総合格闘技団体の立ち上げ
3 必殺技
4 人物像
4.1 故郷愛
4.2 保守派
4.3 スタン・ハンセンへの敬意
4.4 バックステージの武闘派
5 獲得タイトル
6 入場曲
7 外部リンク
概要 [編集]

アメリカ合衆国テキサス州スイートウォーター出身だが現在はギミック上ニューヨーク在住を強調している。ブラッドショーもしくはジョン・ブラッドショー・レイフィールド (John "Bradshaw" Layfield) のリングネームで知られ、番組などでは頭文字を取ってJBLと略されることが多い。なおこのJBLという愛称は元アメリカ合衆国大統領リンドン・ベインズ・ジョンソンの通称であるLBJに掛けられている。
リング外では証券取引をギミックではなく実際の副業としており、証券アナリストとして多数のラジオ番組やテレビ番組に出演し、著書も出版している。夫人も証券アナリストであり、テレビの経済番組に定期的に出演している。WWEのドイツ遠征の際、ナチス式敬礼のパフォーマンスを行ったためにCNBCの番組を降板したこともあった。
プロフィール [編集]

デビュー前後 [編集]
大学時代はアメリカンフットボールの選手として活躍。ダラスでブラック・バートの指導を受け、1992年にジョン・ホークの名でデビュー。
1996年、ジャスティン "ホーク" ブラッドショーの名でWWFに入団、その後バリー・ウインダムとニュー・ブラックジャックスを結成してブラックジャック・ブラッドショーに改名。1997年には全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦するも、1998年にタッグ解散。
WWFタッグ王者 [編集]
同年秋からブラッドショーとしてファルークとアコライツを結成し、1999年にはWWF世界タッグ王座を2度獲得。
2000年には新ギミックとして、酒とポーカーを好み、金かビールをもらえばどんな相手でも用心棒を引き受ける、APA(Acolytes Protection Agency、アコライツ警備保障)をファルークと共に開業。2001年にタッグ王座を取得している。
JBLギミックの誕生 [編集]
2002年の2リーグ制発足によってRAW所属となりファルークとのコンビを一旦解散。当初はプッシュを受けていたがその後暴力事件を起こしハードコア要員に格下げされてしまう。
腕を負傷し欠場した後はSmackDown!で復帰しファルークとAPAを再結成。トレードマークの長髪を切り、髪も黒から本来の金髪に戻す。
2004年にファルークと別れ、株で成功した嫌味な証券アナリストにギミックを変更してシングルプレーヤーに転向、ジョン・ブラッドショー・レイフィールドに改名。同年The GREAT AMERICAN BASH 2004でエディ・ゲレロとのテキサス・ブルロープ戦で勝利しWWE王座を獲得。その後はオーランド・ジョーダン、ダグ・バシャム、ダニー・バシャムと共にチーム「JBL's・キャビネット」を組織し、いわゆるヘタレ系ヒールとしてジ・アンダーテイカー、ビッグ・ショー、カート・アングルらの強豪をあの手この手で避け、WWE王座を長期保持。2005年のWrestleMania 21でジョン・シナに敗れるまで、ディーゼル以来過去10年間でのWWE王座最長保持記録を打ち立てた。
トップヒールとしての活躍 [編集]
その後もレスリング・ゴッドと自称し、SmackDown!のトップヒールとして活躍。RAWからSmackDown!に移籍してきたバティスタと世界ヘビー級王座をめぐって抗争を繰り広げた。結局、王座獲得ならずその上、レイ・ミステリオとのシングルマッチで負けてしまい、MNMのフィクサー、ジリアンを雇う。RAWとSmackDown!が抗争した際はSmackDown!側の主要レスラーとして活動し、Survivor Series 2005でのSmackDown!側の代表レスラーの一人として5対5の生き残り戦に出場した。
2006年に入ってブギーマンと抗争した後、WrestleMania 22でクリス・ベノワに勝利し、US王座を獲得した。US王座獲得後、WrestleMania 22で世界ヘビー級王座を獲得したミステリオを挑発。Judgment Day 2006で世界ヘビー級王座戦を戦うが敗戦。5月26日に開催されたSmackDown!でボビー・ラシュリーに敗れてUS王座を奪われ、同日のメイン戦で自身のSmackDown!追放を賭けてミステリオと世界ヘビー級王座戦を行うが敗れ、SmackDown!から追放された。しかし、6月11日のECWワンナイト・スタンドに登場してSmackDown!復帰を宣言し、ECWに移籍したタズに代わる解説者としてSmackDown!に復帰した。
引退と復帰 [編集]
腰の怪我の悪化により、ミステリオとの試合を最後に選手としてはいったん引退し、実況席で解説者を務めていたが、元相棒のロン・シモンズ(ファルーク)がその後WWEに復帰したこともあり、ショーン・マイケルズのように現役に復帰することを待ち望むファンの声が高まっていた。
2007年12月16日のアルマゲドンで、試合中のクリス・ジェリコが実況席に勢いよくぶつかってきたのを根に持ち、その試合の最後に乱入してジェリコの頭を蹴り飛ばした。そして12月21日放送のSmackDown!で「RAWに移籍しY2Jを倒す」と宣言し、実際にRAWへ移籍して、選手として復帰を果たした。翌週のイラクからの放送でY2Jにクローズラインを決めた。その後は証券アナリストギミックとして幾度か王座戦線に絡み、2008年のアルマゲドンでは大不況で経済的窮地に陥ったショーン・マイケルズを従業員に雇うなどのエピソードを経て、2009年3月にCMパンクからIC王座を奪取。2009年のレッスルマニアでレイ・ミステリオに史上最短21秒でIC王座を奪われ、そのまま逆ギレして「I quit!(やめてやる!)」と捨てセリフを残し、そのまま引退した。実際の引退の要因は古傷の悪化および投資業の多忙化で、レッスルマニア翌日には自身のブログでファンに対する感謝のコメントと「エディ・ゲレロがいない今、レイを引退試合の相手に選ぶのは当然だ」と綴った。
また、2008年WWE殿堂入り式典ではブリスコ兄弟(ジャック・ブリスコ&ジェラルド・ブリスコ)のインダクターを努めた。
総合格闘技団体の立ち上げ [編集]
引退後はビジネスに専念するとされていたが、総合格闘技団体Vyper Fight Leagueを立ち上げた。自らも選手として参戦する模様となっていたが、Vyper Fight Leagueは数回のイベントを開催した後、ウェブサイトは閉鎖され、現在は活動していない。
2007年11月から自身の名前を冠したLayfield Energyという栄養補給ドリンクを販売している。
必殺技 [編集]

クローズライン・フロム・ヘル
ランニング式のクローズラインだが対戦相手が強烈にマットに叩きつけられたり一回転するほどの威力を持ち、現役時代は屈指の使い手として認知されていた。元々は尊敬するスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを模倣したもので、アメリカ式の「倒す」クローズラインと、ハンセンの「殴る」ラリアットを組み合わせたものになっている。
パワーボム
足の間に敵の頭を捕らえたあとに、余裕の表情で手でロングホーンの角を真似したり、タバコをふかす仕草をする。
ビッグ・ブート
軽量級相手の時にブートでダウンさせ、立ち上がったところを上のいずれかの技で仕留めるパターンがある。
ラスト・コール
株用語から。いわゆるブロック・バスター。アバランシュ・プレスのように相手を横抱きにして、そのまま後ろに反り投げる。
人物像 [編集]

故郷愛 [編集]
ギミック上、故郷テキサスを小バカにしていたが、実際は非常に郷土愛の強い人物である。入場時にはボンネットに牛の角を装着したストレッチド・リムジンを使用する。ブラッドショー時代はテキサスで興行を行う度に同じくテキサス出身のストーン・コールド・スティーブ・オースチンと共に大暴れしていた。
保守派 [編集]
政治的には共和党支持を公言する保守派である。また米軍への慰問にも積極的で2003年以降WWEが行っているアフガニスタン・イラク駐留軍への慰問興行には必ず参加している。日本興行の際にも在日米軍基地への訪問をしている。
スタン・ハンセンへの敬意 [編集]
同郷のスタン・ハンセンを尊敬しており、ブラッドショー時代はハンセンのようなテキサンスタイルのコスチュームで入場。ハンセン同様、テキサス・ロングホーンのパフォーマンス(片手の人差し指と小指を突き立てて雄叫びを上げる)を行うこともあった。
レスリングのスタイルにもハンセンの影響は強く、エルボー・ドロップのフォームやサッカーボールキック(リング上に座り込んだ相手選手の背中に思い切りインステップキックを叩き込む)のフォームはハンセンのそれに酷似している。またフィニッシュムーヴもハンセン同様、ロープに飛んでからの喉元へのラリアットを用いているが、これはアメリカの実況アナウンサーにもアメリカにおいて一般的な呼称である「クローズライン」ではなく、ハンセンのフィニッシュムーヴと同じ名称である「ラリアット」として実況される。
バックステージの武闘派 [編集]
普段は温厚でまじめな性格だが武闘派としても知られ、バックステージにおいては問題行動を起こした選手の制裁役を受け持つことでも有名。
投稿者 格闘技の王子様 16:10 | コメント(0)| トラックバック(0)

マイク・ポルクロペック

マイク・ポルクロペック(Mike Polchlopek、1965年12月27日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー、総合格闘家。テキサス州オースティン出身。バート・ガン(Bart Gunn)、マイク・バートン(Mike Barton)などのリングネームで知られる。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 戦績
4.1 総合格闘技
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

1991年にブレット・コルト(Brett Colt)のリングネームでデビュー。フロリダ州のインディー団体IWFで師匠のブラックジャック・マリガン同様のカウボーイ・ギミックで売り出され、キップ・ウィンチェスターことモンティ・ソップとのタッグチーム、ロング・ライダーズで人気を獲得した。
1993年にソップと共にWWF(現・WWE)と契約。WWF入りに伴いリングネームおよびチーム名を変更し、ソップはビリー・ガン、自身はバート・ガンと名乗る。兄弟ギミックも与えられ、スモーキン・ガンズとしてタッグ戦線で活動した。
1996年にスモーキン・ガンズを解散。ボブ・ホーリーとのニュー・ミッドナイト・エクスプレスを経て1998年にはWWF主催の格闘技トーナメント"WWF Brawl for All" で優勝するなど活躍したが、1999年1月に解雇された。
前述のトーナメントでスティーブ・ウィリアムスを「ゴールデンレフト」で破った実績を評価され、解雇前の1998年11月から全日本プロレスに登場し、ジョニー・エースとのコンビで世界タッグ王座を獲得した。その後は主にジム・スティールとタッグを組み、IWGPタッグ王座に挑戦するなどの活躍を見せる。2002年にはチャンピオン・カーニバルで天龍源一郎を倒すものの武藤敬司に敗れ惜しくも準優勝。
全日本プロレスを退団したあとは新日本プロレスへ移籍した。またTNAにも2003年まで所属していた。その後、パートナーであったスティールの怪我などもあり、しばらく表舞台から離れ総合格闘技向けの練習を重ね、2006年の無我ワールド・プロレスリングへの参戦で久々の登場を果たした。
2006年6月17日、Rumble on the Rock Beatdownのメインイベントでウェズリー・コレイラと対戦し、TKO勝ち。同年11月5日にはPRIDEに出場。「PRIDE 武士道 -其の十三-」で美濃輪育久と対戦し、判定負けを喫した。
得意技 [編集]

ゴールデンレフト(左ボディブロー)
ヘル・ベント(変形デスバレーボム)
バートバッシュ(レイザーズ・エッジ)
バートン・カッター(ダイヤモンド・カッター)
バートン・レース(スピアー)
バートン・スパイク(インプラントDDT)
バートン・ディザスター(倒れ込み式高角度パワーボム)
※バートン・ディザスターはかつて、ラストライドやバートンバスターという名称で使用していた
獲得タイトル [編集]

全日本プロレス
世界タッグ王座 : 1回(w / ジョニー・エース)
チャンピオン・カーニバル準優勝 : 1回(2002年大会)
WWF
WWF世界タッグ王座 : 3回(w / ビリー・ガン)
NWA世界タッグ王座 : 1回(w / ボンバスティック・ボブ) ※ブッカー兼マネージャーのジム・コルネットがWWFで復活させたタイトル
Brawl for All 優勝
インディー
IWFタッグ王座 : 2回(w / キップ・ウィンチェスター)
PCWアメリカス・ヘビー級王座 : 2回
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ビリー・キッドマン

ビリー・キッドマン(Billy Kidman、1974年5月11日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラーである。ペンシルベニア州アレンタウン出身。本名はピーター・ジェイコブ・グルーナー(Peter "Jacob" Gruner)。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 WCW
1.2 WWF/WWE
1.3 WWE解雇後
1.4 プロレス復帰
2 得意技
3 タイトル歴
4 入場曲
5 その他
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

ザ・ロックやヨコズナ、近年ではバティスタやウマガといったスター選手を多く輩出しているワイルド・サモアン・トレーニングセンターで鍛えられ、1994年にプロレスデビュー。WCWに入るまでは、エース・ダーリングをパートナーに、ECWAやUSWA(以前はCWA)の団体でタッグ王座を獲得し、TWWFではシングルでクルーザー級王座にも載冠した。
WCW [編集]
プロレスラー養成所のWCWパワープラント卒業後、WCWのライトヘビー級の中心選手として活躍。レイヴェンの軍団フロックに所属していたこともある。1998年、フベントゥ・ゲレーラを破りWCW・クルーザー級王座を獲得し、同階級で活躍する。フロック脱退後はフィルシー・アニマルズに所属し、またニューブラッド軍としても活躍する。レイ・ミステリオ、コナンをパートナーに、WCW・タッグ王座を獲得するなどタッグ戦線でも結果を残す。フィルシー・アニマルズの女子マネージャーが、後に妻となるトリー・ウィルソンである(2006年10月離婚)。同団体ではハルク・ホーガンとも抗争した経験を持つ。レイ・ミステリオとWCW・クルーザー級タッグ王者を獲得したが、同団体が崩壊。
WWF/WWE [編集]
WCW崩壊によりWWEへ移る。ECW/WCW連合軍アライアンスのメンバーとして活動。アライアンスのメンバーは入場時にほぼ全選手ブーイングで迎えられるが、キッドマンだけは試合内容でも好ファイトを見せ歓声が飛んでいた。その後WWEで初めて行われたWCWクルーザー級王座戦でグレゴリー・ヘルムズに勝利する。その後アライアンスが消滅すると、ミステリオやTAJIRI、ジェイミー・ノーブルといったライバル達と死闘を繰り広げ、幾度となくクルーザー級王座を奪取し、WWEのクルーザー級全盛期を支える。
2003年3月、試合中にシューティングスタープレスを失敗したため、首と肩を負傷してしまった。7月11日にWWEディーヴァのトリー・ウィルソンと結婚した。
2004年7月7日に、ポール・ロンドンと組み、お互いクルーザー級でありながらダッドリー・ボーイズを破りWWEタッグ王者を獲得した。しかし同年8月のチャボ・ゲレロ戦にて、得意のシューティングスター・プレスを放った際に、チャボの顔にシュートで膝を直撃させてしまい、チャボはその後戦線離脱。このトラウマから、キッドマンはSSPが出せなくなってしまう(実際はWWE側から禁止されたからである)。2005年7月8日WWEを解雇された。
解雇されてしばらくすると、カリスマ性の欠如と負傷欠場が多かったことが解雇の理由である、という噂が流れていた。しかし、キッドマンはイギリスの新聞社のインタビューでこれを否定。本人は、飛行機の座席がエコノミークラスであることに異議を唱えたために解雇されたとしている。
WWE解雇後 [編集]
解雇後は数度インディー団体に登場している。TNAのバックステージ訪問の噂が何度か流れたが、契約には至らなかった。「2006年7月WWEのダーク・マッチに日本人の覆面レスラーのギミックとして試合をしたと言われているが、こちらも契約にはいたらなかった。その後もICW等のインディー団体に出ているようである。
プライベートではWWEディーヴァのトリー・ウィルソンと結婚していたが、2006年10月にトリーが自身のブログで離婚を発表した(ページ自体はすぐに削除)。離婚の原因の一つはトリーのロードであるらしい。
プロレス復帰 [編集]
2007年になり、プエルトリコのWWCでレスリングをしていた記録の存在が明らかになり、本格的にプロレス界へ戻ってくるのではないかと見られていた。この時のレスリングタイツには「男気」という文字が刻まれていた。
2月末にキッドマン自身がラジオ放送で、2007年4月中に来日の予定があることを明かした。しかし、4月に入っても参戦についての情報が無いため、この件については謎に包まれていたが、ICWという団体の日本ツアーで、4月12日 - 20日の間に来日し、日本にある複数の米軍キャンプ地で黒いドラゴンマスクギミックとして試合していることが判明。なお、実際この試合を見た人のブログによると、身体は全盛期時代のスマートな体に比べ、ぽっちゃりとしたヘビー級の体型になり、空中技は得意のシューティングスタープレスは出すことが出来ずに、ドロップキックしか見せなかったそうである。
2007年6月3日、ニューキャッスルで行われたAWFとWSWの合同興行で、ブライアン・ダニエルソンからWSW・ヘビー級王座を奪取。フィニッシュはシューティングスタープレスではなく、セカンドロープからのBKボムであった。インディー団体のチャンピオンとしての活躍が期待される。7月8日には、テキサスにてショーン・ウォルトマンと組みTNAから剥奪されたNWA世界タッグチーム王座を3WAYマッチで戦うが、惜しくも奪取には失敗した。
9月15日、WWEの傘下団体であるFCWに登場したが、FCW王者ハリー・スミスに敗れた。その後も継続参戦を続け、同年12月にFCWのトレーナーとなり、主にテクニカル面の指導を担当している。
得意技 [編集]

シューティング・スター・プレス(WWE) / The Seven Year Itch(WCW)
コーナートップから、バック宙をするように前方へ飛び上がり、リング上でダウンしている相手に交差するようにボディ・プレスを決めるという難度の高い後方270度回転ボディ・プレス。ただし、難易度が高いが故に失敗して垂直落下になったことが何度もある。
キッドマンのアイデンティティーとも言うべき技だが、失敗してチャボ・ゲレロ・ジュニアを負傷させた経験を持つ。トップロープから場外に立つ相手に繰り出すなどのバリエーションも存在する。
BKボム
両手で相手の首を掴んで持ち上げ落とすスパインボム(スパイン・バスターからパワーボムの様にフォールカウントに入る)。
WCW時代には雪崩式も繰り出していた。
キッドマンカゼ
前述のスプリングボード・シューティングスタープレス。由来はカミカゼと思われる。
キッド・ファクター(別名:Kファクター)
いわゆるXファクター。主に相手のパワーボムを返すときに使用。
キッド・クラッシャー
クリスチャンのアンプリティアーと同型。WCW時代にフィニッシャーとして使用していた。
ドロップキック
上記参照。体重が増加したのでダイビング技が不得意になってしまったのではないかと騒がれている。
タイトル歴 [編集]

CWA
CWA・タッグチーム王座 :1回(w / エース・ダーリング )
ECWA
ECWA・タッグチーム王座 :1回(w / エース・ダーリング )
ECWA・ホール・オブ・フェイム (2004年度)
TWWF
TWWF・クルーザー級王座 :1回
USWA
USWA・タッグチーム王座 : 1回(w / エース・ダーリング )
WCW
WCW・クルーザー級王座 :3回
WCW・クルーザー級タッグ王座 :1回(w / レイ・ミステリオ)
WCW・タッグ王座 :2回(w / レイ・ミステリオ×1、コナン×1)
WWE
クルーザー級王座 :4回
WWEタッグ王座 :1回 (w / ポール・ロンドン)
WSW
WSW・ヘビー級王座 :1回
PWI (Pro Wrestling Illustrated)Top 500 Wrestlers
1997年 202位 (1位はディーン・マレンコ)
1998年 132位 (1位はスティーブ・オースチン)
1999年 31位 (1位はスティーブ・オースチン)
2000年 72位 (1位はトリプルH)
2001年 38位 (1位はカート・アングル)
2002年 53位 (1位はロブ・ヴァン・ダム)
2003年 78位 (1位はブロック・レスナー)
2004年 92位 (1位はクリス・ベノワ)
2005年 105位 (1位はバティスタ)
2006年 ランク外 (1位はジョン・シナ)
2007年 ランク外 (1位はジョン・シナ)
入場曲 [編集]

You Can Runは、WWE所属のコンポーザーであるジム・ジョンストンがキッドマンの入場曲として書き下ろした楽曲のひとつであり、彼が退団するまで使用された。Lorddikim Allahが歌っているという説が有力だが、詳しいことは分かっていない。アルバム「WWE ThemeAddict:The Music Vol.6」に収録されている。
その他入場曲
Kid Krusher
Mortal Wound
Extreme Impact
Extreme Impact (V2)
なお、WWE退団後の入場曲は不明。
その他 [編集]

人気キャスターのジェイ・レノとNBAのカール・マローンをWCWに参戦できるように、鍛え上げた。
キッドマンとミステリオのタッグは、WCW・タッグ王座を獲得した歴代王者チームの中で、最軽量(合計360ポンド)という記録を持つ。
フジテレビにて放送されていた『WWEスマックダウン』にて、担当アナウンサーの千野志麻がキッドマンのファンであった(「私のビリー」というのが口癖)。そのため番組内での登場回数は多く、ガレッジセールからもネタにされた。
投稿者 格闘技の王子様 20:27 | コメント(0)| トラックバック(0)

トリー・ウィルソン

トリー・ウィルソン(Torrie Wilson、1975年7月24日 - )は、アメリカ合衆国の女子プロレスラー、ディーヴァ。本名はビクトリア・アン・ウィルソン(Victoria Anne Wilson)。アイダホ州ボイシ出身。アメリカのプロレス団体WWEに所属していた。雑誌『PLAYBOY』の表紙を2003年、2004年の2度にわたり飾ったことがある。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 入場曲
4 外部リンク
来歴 [編集]

プロレスラーになる以前は1997年からフィットネスのモデルとして活躍しており、既に名前も知られていた。ビクトリアはフィットネスモデル時代からの知り合いである。
プロレス界に入ったきっかけは、1999年にWCWからスカウトされたことによる。WCWではリック・フレアーの息子であるデビッド・フレアーや、ビリー・キッドマン、シェーン・ダグラス、ケビン・ナッシュなどのマネージャー役を務める。2000年12月にWCWから解雇されたが、翌月の2001年1月にWWE(当時WWF)入りする。WCW出身であったことから、WWFとWCW/ECW連合軍(アライアンス)の抗争ストーリーが展開されていたときにはアライアンスに所属し、同じくWCW出身のステイシー・キーブラーとタッグを組んでいた。
アライアンスのストーリーが終了後、スマックダウンにてタジリのアングル上の恋人となり、マネージャー役を務めた。後にビリー・キッドマンとタジリが抗争するストーリーが展開されるが、ストーリーはトリー・ウィルソンがタジリから去ってアングル上ビリー・キッドマンと恋人になることで決着する。しかしキッドマンと恋人関係でありながら、メイヴェンと恋人関係であったりと謎である。ビリー・キッドマンとはこのストーリー以前から実生活においても恋人関係であった。
2002年、トリーの実の父親がWWEに登場。アングル上ドーン・マリーが父親の愛人となり、抗争ストーリーを展開した。2004年にはケンゾー・スズキがトリーにほれ込み、それに嫉妬したヒロコと抗争するというストーリーが展開された。両者は2005年2月にさいたまスーパーアリーナで行われたスマックダウンの収録において対戦している。下着姿になったほうが負け、というルールの試合において勝利し、ヒロコはリング上で下着姿になった。
2005年のグレート・アメリカン・バッシュにてメリーナに敗北の後、キャンディスと共にRAWに移籍した。 当初は新人であったアシュリーを虐めるキャラとしてヒールターンを果たしていたが、抗争中にキャンディスとビクトリアに裏切られる形でトリッシュ・ストラタスチームに加入しベビーターンする。
プライベートでは、2003年にビリー・キッドマンと結婚したが、2006年10月に離婚。
2007年6月11日、ドラフトによりRAWからスマックダウンに移籍・復帰。ペットのクロエも同じく「移籍」した。移籍後はジミー・ワン・ヤンのマネージャーとして、カウボーイ姿で活動していた。
2008年、腰の痛みなどから自らWWEを退団した。
2009年、レッスルマニア25のミスレッスルマニアバトルロイヤルに出場し、一夜限りの復帰を果たした。
得意技 [編集]

DDT
Xファクター
Xパックのフィニッシャーと同様の技。
スティンク・フェイス
入場曲 [編集]

Lo-Fi Groove
Shadows
Need A Little Time
A Girl Like That (Eleventh Hour)
投稿者 格闘技の王子様 20:26 | コメント(0)| トラックバック(0)

エーミィ・ダーマス

エーミィ・ダーマス(Amy Dumas、1975年4月14日 - )は、アメリカ合衆国の女子プロレスラー、ディーヴァ、現在はバンドThe Luchagorsのボーカリスト。ノースカロライナ州サンフォード出身。身長168cm、体重61kg。アメリカのプロレス団体WWEに所属していた。リタ(Lita)のリングネームで知られている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 タイトル履歴
4 入場曲
5 その他
6 外部リンク
来歴 [編集]

1998年にノースカロライナ州を拠点とするプロレス団体、オメガ・レスリングにてプロレスデビュー。オメガ・レスリングには、後のハーディー・ボーイズ、シャノン・ムーア、グレゴリー・ヘルムズ、クリストファー・ダニエルズなども所属していた。 1999年にECWに移籍。リングネームをアンジェリカとして、女子マネージャー役としての登場であった。1999年の年末にはWWE(当時WWF)に移籍し、現在のリングネームリタを用い始めた。
WWFの番組にはルチャードであるエッセ・リオスのマネージャー役としての登場であった。最初はマネージャー役のみでの登場だったが、女子レスラーとしての活動も開始する。その後、ディーン・マレンコとのストーカー的なアングル(実生活で恋人同士であったマット・ハーディーとリタを番組内でも恋人同士として扱うためのストーリー)を経て、ハーディー・ボーイズに加入、3人でチーム・エクストリームを結成した。チームメンバーのマット・ハーディーとは実生活の恋人だけでなく、アングル上においても恋人同士となる。チーム・エクストリームは2001年の年末に喧嘩別れをして解散、マット・ハーディーとジェフ・ハーディーの兄弟対決ストーリーへと続き、リタはマット・ハーディーとはギミック上のみ破局する。しかし、翌年の2002年1月20日、マット・ハーディーがRoyal Rumble 2002のロイヤルランブル・マッチに参戦した際にリタ同伴で登場。2月17日に行われた次大会、No Way Out 2002では、WWFタッグ王座第一挑戦者決定戦に3人そろって仲良く参戦(リタはあくまでマネージャーであり、試合参戦はしていないが)し、何事もなかったかのようにチーム・エクストリームは復活している。
ハーディー・ボーイズのマネージャー的な役割と並行して、女子王座戦線の主役として活動していたが、FOXのテレビ番組ダーク・エンジェル撮影中に首を負傷し、WWEから長期離脱する。選手としての復帰までの間、ジョナサン・コーチマンと共に、RAWの別番組「Sunday Night HEAT」の解説を務めたり、自伝を出版したりした。なお、リタの怪我による欠場と、マット・ハーディーのSmackDown!移籍によるハーディー・ボーイズの事実上の解散で、チーム・エクストリームも徐々にフェードアウトしていった。そのため、破局や解散といったストーリーは描かれておらず、のちのストーリーへの展開に一役買うことになった。
2003年4月21日、HEATの解説を務める傍ら、怪我の回復具合とトレーニング再開をファンに報告するためRAWに出演する。しかし、GMエリック・ビショフが登場。さんざんセクハラされたあげく、クビを宣告されるという悲惨な目に遭ってしまう。しかし、共同GMのストーン・コールド・スティーブ・オースチンによって再雇用され、失業は免れた。 そして怪我も癒え、満を持して9月15日のRAWでモーリー・ホーリーとゲイル・キムからトリッシュ・ストラタスを救援する形で復帰する。そのままトリッシュ・ストラタスとのタッグで活動しつつ、女子王座挑戦権を獲得しモーリー・ホーリーと抗争した。11月16日、Survivor Series 2003でモーリー・ホーリーの王座に挑むものの敗れた。翌日のRAWでは、マット・ハーディーがSmackDown!より移籍してきてリタにプロポーズ、かと思ったら、直後の試合でマット・ハーディーにフラれ、あげくエリック・ビショフにクビを宣告される(どちらもギミック上での話)という悲惨な目に遭った。このクビはクリスチャンがすぐに取り消し、事なきを得た。翌週11月24日のRAWでは、ビクトリアと番組史上初のディーヴァによる金網戦を行っている。この試合は、マット・ハーディーの妨害により敗れた。度重なるマット・ハーディーからの嫌がらせで傷心のリタに対し、クリスチャンが優しく慰めてくれた、かと思ったら、それはクリス・ジェリコとクリスチャンのどちらが先に女を落とせるかという賭け事に巻き込まれただけであり、結局フラれたような形となり、そのまま同じような境遇にあったトリッシュ・ストラタスと共に、クリス・ジェリコとクリスチャンを相手に抗争に入った。そしてそのままクリス・ジェリコとクリスチャンがトリッシュ・ストラタスを巡る抗争に入ったため、トリッシュ・ストラタスとのコンビはなくなった。
2004年には、リタを巡ってのケインとマット・ハーディーの抗争、その後のアングル上での結婚、妊娠、ジーン・スニツキーの攻撃による流産(当初は流産はストーリーにはなかったが、ケインがスニツキーの攻撃を受けた際に、受け止めきれずに勢いあまってリタに覆いかぶさるように倒れてしまったために急遽追加したもので、これにより妊娠ストーリーは予定より早く終了した)、その後の復讐と続き、そしてトリッシュ・ストラタスとの抗争へと続いた。12月6日のRAWでは、トリッシュ・ストラタスを倒して自身二度目となる女子王座を獲得している。
2005年に入り、エッジと不倫しケインとアングル上離婚する。WWE入団以来一貫してベビーフェイスであったが、この時ヒールにターンする。このエッジとの不倫はもともと実生活においての実際の出来事。このことが原因で、チーム・エクストリーム時代以来実生活での恋人であったマット・ハーディーと別れることとなる。エッジとは、2005年6月にアングル上の結婚をする。そして、ケイン、マット・ハーディーとの抗争を繰り広げ始めた。その際、彼女の事を「HO(日本語で「娼婦」という意味、字幕では「アバズレ」。)」とチャントするのが恒例となっていた。
ヒールターンしてからは、エッジというトップヒールがずる賢く試合に勝利するためのアシスト役に収まることが多くなり、試合をする回数が圧倒的に減った。トリッシュ引退及び自身の引退試合を除くと、ルチャ系の技を全く使わずに試合をしていた事になる。
その後はトリッシュの引退によりベビーターンしたミッキー・ジェームスと抗争を続けていたが、2006年11月26日Survivor Series 2006において引退。しかし、盛大に祝福されながら引退したトリッシュとは対称的に観客から大ブーイングされた挙句、クライム・タイムに下着を盗まれる等、いくらアングルとはいえあまりにも惨めな引退となってしまった。
もちろんショー終了後、エッジやカリートらに祝福され、引退パーティーをした。
引退後は、パンクロックバンドThe Luchagorsのボーカルとして活動している。
2007年12月10日、トリッシュ・ストラタスと共にRAW15周年記念特別番組に登場し、元気な姿を見せた。ちなみにこの時は引退試合と打って変わって、観客から大声援を受けた。
得意技 [編集]

リタDDT
高速でスイングしながら落とすDDT。復帰後は使用する回数が減った。
ツイスト・オブ・フェイト
ハリケーン・ラナ
ムーンサルトプレス
大抵のディーヴァはレスリング技術が乏しく、空中技とは無縁なのだが、彼女のようにルチャ系の技を使いこなすディーヴァは非常に珍しい。
タイトル履歴 [編集]

WWE
WWE女子王座 : 4回
入場曲 [編集]

LoveFuryPassionEnergy (Boy Hits Car)
It Just Feels Right
その他 [編集]

得意技であるハリケーン・ラナはリタが使うことで『ハリケーン・リタ』と呼ばれたことがある。また日本語で訳したときの文字に誤りがあり『リタケーン・ラナ』『リタケーン・リタ』になったこともある。
投稿者 格闘技の王子様 20:25 | コメント(0)| トラックバック(0)