2011年01月06日
ジェリー・ブラックウェル
ジェリー・ブラックウェル("Crusher" Jerry Blackwell、1949年4月26日 - 1995年1月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州ストーンマウンテン出身。
選手時代は主にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームで知られ、アメリカではAWA、日本では全日本プロレスを主戦場に巨漢レスラーとして活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]
ジノ・ブリット(後のWWWF世界タッグ王者ルイス・セルダン)のコーチを受け、1974年にプロレスラーとしてデビュー。カンザスシティのセントラル・ステーツ地区でマイク・ジョージらと対戦してキャリアを積み、1976年にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームでニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。巨漢の若手ヒールとしてバグジー・マグローなどとタッグを組んで頭角をあらわし、1978年の2度目のNYサーキットでは新WWF王者ボブ・バックランドとも対戦してネームバリューを高めた[1]。
1979年はアラバマ地区(テネシー州ノックスビルまでをサーキット・エリアとするサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)に進出。ジ・インベーダー(ボブ・オートン・ジュニア)とディック・スレーターをパートナーに、サウスイースタン・タッグ王座を2度に渡って獲得している[2]。その後、1980年よりAWAに登場。1981年にはイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)と悪役トリオを結成し、当時AWAで人気沸騰中だったハルク・ホーガンと抗争を展開。ホーガンの助っ人としてAWAに参戦したアンドレ・ザ・ジャイアントも巻き込み、スーパーヘビー級の肉弾戦を繰り広げた。
並行してNWA圏にも転戦し、1983年4月15日、ミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムでケリー・フォン・エリックからミズーリ・ヘビー級王座を奪取。1か月後にハーリー・レイスに敗れ短命王者となったが、1984年11月16日にレイスから奪回に成功。翌年8月に再びレイスに奪還されるまで、当時のNWAの実質的なナンバー2タイトルである同王座を死守した[3]。
その間、AWAでは悪徳マネージャーのシーク・アドナン・アル=ケイシーに感化され、アラブ人ギミックへの変身を果たした。シーク・アヤトーラ・ブラックウェル(Sheik Ayatollah Blackwell)を名乗り、ロレンス・オブ・アラビアことケン・パテラと偽アラブ人コンビ「ザ・シークス」を結成。1983年6月26日、ハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)を破りAWA世界タッグ王座を獲得した。同王座は翌1984年5月6日にザ・クラッシャー&バロン・フォン・ラシクに奪われるが、ジェリー・ローラー&ブラックジャック・マリガンなどの強豪チームを相手に1年間近く防衛を続けた[4]。王座転落後にパテラがWWFに移籍してからは、中東ギミックの先達アブドーラ・ザ・ブッチャーとも一時的にタッグを組んでいる。
1984年の下期、マネージャーのアドナンと仲間割れしてベビーフェイスに転向。リングネームも本名のジェリー・ブラックウェルに戻し、子供たちのヒーロー的存在となる。1985年にはWWFから移籍してきたサージェント・スローターとのコンビでロード・ウォリアーズやファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)とも抗争した。
WWF移籍の噂が何度となくあったが、その後も一貫してAWAに定着、体調を崩し1980年代後半からは試合出場を控えるようになったものの、最末期までAWAを支え続けた。1995年1月22日、肝炎のため45歳で死去[5]。
日本での活躍 [編集]
1970年代後半にWWWFに上がっていたが新日本プロレスに来ることはなく、日本には1977年の初来日以来、全日本プロレスの常連外国人として通算7回に渡って来日している。2回目の来日となる1979年の10月22日にはジャンボ鶴田のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に挑戦。1984年9月3日には、ジャイアント馬場の王座返上で空位となっていたインターナショナル・タッグ王座決定戦にブルーザー・ブロディのパートナーとして出場、鶴田&天龍源一郎に敗れるが、この試合は鶴龍コンビが初載冠を飾ったメモリアルマッチとなった。最後の来日はフィル・ヒッカーソンとのコンビで参加した世界最強タッグ決定リーグ戦の1988年大会。このときは川田利明のキック攻撃に激昂し、試合後に控え室へ殴り込む一幕も見られたという。
エース級の存在ではなかったものの、そのボリューム満点の体型から繰り出す肉弾攻撃は観客を大いに沸かせ、身長と体重の公称サイズが同じ(180cm、180kg)[5]というインパクトも手伝ってプロレスファンの認知度は高かった。また、アンコ型の巨漢ながらドロップキックをこなすなど、1980年代後半にバンバン・ビガロが登場するまではキラー・トーア・カマタと並んで「動けるデブ」の代表格だった[6]。
得意技 [編集]
ダイビング・ボディ・プレス
エルボー・ドロップ
ドロップキック
獲得タイトル [編集]
NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / バック・ロブレイ)
NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジ・インベーダー、ディック・スレーター)
NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
AWA世界タッグ王座:1回(w / ケン・パテラ)
CWAスーパーヘビー級王座:1回
選手時代は主にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームで知られ、アメリカではAWA、日本では全日本プロレスを主戦場に巨漢レスラーとして活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]
ジノ・ブリット(後のWWWF世界タッグ王者ルイス・セルダン)のコーチを受け、1974年にプロレスラーとしてデビュー。カンザスシティのセントラル・ステーツ地区でマイク・ジョージらと対戦してキャリアを積み、1976年にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームでニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。巨漢の若手ヒールとしてバグジー・マグローなどとタッグを組んで頭角をあらわし、1978年の2度目のNYサーキットでは新WWF王者ボブ・バックランドとも対戦してネームバリューを高めた[1]。
1979年はアラバマ地区(テネシー州ノックスビルまでをサーキット・エリアとするサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)に進出。ジ・インベーダー(ボブ・オートン・ジュニア)とディック・スレーターをパートナーに、サウスイースタン・タッグ王座を2度に渡って獲得している[2]。その後、1980年よりAWAに登場。1981年にはイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)と悪役トリオを結成し、当時AWAで人気沸騰中だったハルク・ホーガンと抗争を展開。ホーガンの助っ人としてAWAに参戦したアンドレ・ザ・ジャイアントも巻き込み、スーパーヘビー級の肉弾戦を繰り広げた。
並行してNWA圏にも転戦し、1983年4月15日、ミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムでケリー・フォン・エリックからミズーリ・ヘビー級王座を奪取。1か月後にハーリー・レイスに敗れ短命王者となったが、1984年11月16日にレイスから奪回に成功。翌年8月に再びレイスに奪還されるまで、当時のNWAの実質的なナンバー2タイトルである同王座を死守した[3]。
その間、AWAでは悪徳マネージャーのシーク・アドナン・アル=ケイシーに感化され、アラブ人ギミックへの変身を果たした。シーク・アヤトーラ・ブラックウェル(Sheik Ayatollah Blackwell)を名乗り、ロレンス・オブ・アラビアことケン・パテラと偽アラブ人コンビ「ザ・シークス」を結成。1983年6月26日、ハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)を破りAWA世界タッグ王座を獲得した。同王座は翌1984年5月6日にザ・クラッシャー&バロン・フォン・ラシクに奪われるが、ジェリー・ローラー&ブラックジャック・マリガンなどの強豪チームを相手に1年間近く防衛を続けた[4]。王座転落後にパテラがWWFに移籍してからは、中東ギミックの先達アブドーラ・ザ・ブッチャーとも一時的にタッグを組んでいる。
1984年の下期、マネージャーのアドナンと仲間割れしてベビーフェイスに転向。リングネームも本名のジェリー・ブラックウェルに戻し、子供たちのヒーロー的存在となる。1985年にはWWFから移籍してきたサージェント・スローターとのコンビでロード・ウォリアーズやファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)とも抗争した。
WWF移籍の噂が何度となくあったが、その後も一貫してAWAに定着、体調を崩し1980年代後半からは試合出場を控えるようになったものの、最末期までAWAを支え続けた。1995年1月22日、肝炎のため45歳で死去[5]。
日本での活躍 [編集]
1970年代後半にWWWFに上がっていたが新日本プロレスに来ることはなく、日本には1977年の初来日以来、全日本プロレスの常連外国人として通算7回に渡って来日している。2回目の来日となる1979年の10月22日にはジャンボ鶴田のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に挑戦。1984年9月3日には、ジャイアント馬場の王座返上で空位となっていたインターナショナル・タッグ王座決定戦にブルーザー・ブロディのパートナーとして出場、鶴田&天龍源一郎に敗れるが、この試合は鶴龍コンビが初載冠を飾ったメモリアルマッチとなった。最後の来日はフィル・ヒッカーソンとのコンビで参加した世界最強タッグ決定リーグ戦の1988年大会。このときは川田利明のキック攻撃に激昂し、試合後に控え室へ殴り込む一幕も見られたという。
エース級の存在ではなかったものの、そのボリューム満点の体型から繰り出す肉弾攻撃は観客を大いに沸かせ、身長と体重の公称サイズが同じ(180cm、180kg)[5]というインパクトも手伝ってプロレスファンの認知度は高かった。また、アンコ型の巨漢ながらドロップキックをこなすなど、1980年代後半にバンバン・ビガロが登場するまではキラー・トーア・カマタと並んで「動けるデブ」の代表格だった[6]。
得意技 [編集]
ダイビング・ボディ・プレス
エルボー・ドロップ
ドロップキック
獲得タイトル [編集]
NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / バック・ロブレイ)
NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジ・インベーダー、ディック・スレーター)
NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
AWA世界タッグ王座:1回(w / ケン・パテラ)
CWAスーパーヘビー級王座:1回
投稿者 格闘技の王子様 19:29 | コメント(0)| トラックバック(0)
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