2011年01月10日
ディック・チェイニー
“ディック”リチャード・ブルース・チェイニー[1]( Richard Bruce "Dick" Cheney , 1941年1月30日 - )はアメリカの政治家、実業家。アメリカ合衆国副大統領(2001年 - 2009年)。ウェールズ系の米国人で、宗教はメソジスト。趣味は狩猟と魚釣り。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 首席補佐官
1.2 下院議員
1.3 国防長官
1.4 ハリバートン
1.5 ジョージ・W・ブッシュ政権
1.6 政治姿勢
2 持病
3 その他
4 関連文献
5 脚注
来歴 [編集]
ネブラスカ州・リンカーンに生れる。父母は農務省に勤務しており、熱烈なニューディーラーだった。ワイオミング州のキャスパーで育った。イェール大学に数学期在籍したが中退し、その後ワイオミング大学で政治学の学士及び修士号を取得。その後は同大学・大学院に進み1966年に卒業。更に、ウィスコンシン大学 ・大学院に移り、同大学大学院時代に、当時のウィスコンシン州知事、ウォーレン・ノールスのスタッフをつとめる。これが、チェイニーが政界との接点を持つきっかけとなる。
首席補佐官 [編集]
リチャード・ニクソン政権では、大統領次席法律顧問を務め、ニクソンがウォーターゲート事件により辞任した後は、ジェラルド・フォード政権で史上最年少・34歳の若さでアメリカ合衆国大統領首席補佐官となる。
下院議員 [編集]
フォード政権が野に下った後は、地元・ワイオーミング州から下院選への出馬を決意。1978年の選挙では難しいとされながら当選を果たし、1989年まで6期つとめる。81年には当選2回ながら、首席補佐官時代の調整・政策立案能力を買われ№4の下院・政策委員長に就任。イラン・コントラ事件の事態収拾に尽力した。人種隔離政策を推進していた南アフリカのピーター・ウィレム・ボータ政権には融和的で、86年の同国に対する制裁法案には反対票を投じている。89年には共和党下院院内幹事をつとめていたトレント・ロットの上院鞍替えに伴い院内幹事に就任。将来の院内総務、共和党の過半数奪回後の下院議長は確実と見られていた。
国防長官 [編集]
ロナルド・レーガンの後継となったジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは、国防長官に当初ジョン・タワー元上院議員を指名していた。しかしながら、その後タワーに女性・飲酒問題が浮上し議会で同人事案が否決。当時は民主党が上下両院で過半数を占めていたため、調整能力のあるチェイニーが代わって浮上。89年3月に正式に国防長官に就任する。1990年8月にイラクのクウェート侵攻(クウェートをイラクの19番目の県として併合)が行われると、イラク軍のクウェートからの撃退の為、隣国・サウジアラビアとの関係強化を図り、中央軍・第3軍の駐留に合意。翌年1月の湾岸戦争を、ノーマン・シュワルツコフ、コーリン・パウエルらと主導した。
ハリバートン [編集]
アメリカのハリバートン社の経営にも1995年-2000年までCEOとして参加していた。ハリバートンは世界最大の石油掘削機の販売会社であり、イラク戦争後のイラクの復興支援事業や、アメリカ軍関連の各種サービスも提供していることから、湾岸戦争とイラク戦争で巨額な利益を得た。なおチェイニーは、この会社の最大の個人株主でもある。
ジョージ・W・ブッシュ政権 [編集]
2007年2月21日、皇居にて今上天皇と
2007年2月21日、総理大臣官邸にて安倍晋三首相と
2000年の大統領選挙前にジョージ・W・ブッシュ(当時テキサス州知事)から副大統領候補を推薦してくれるように依頼され、そのまま自分を推薦して副大統領となった[2]。同年の大統領選の討論会では論争に強くないブッシュがアル・ゴアも前に劣勢を強いられたが、チェイニーは反対にケンタッキー州で行われた10月の討論会でジョー・リーバーマン上院議員を論破。また、同選挙戦の際にユーゴスラビアでは革命が勃発し、スロボダン・ミロシェビッチ政権が崩壊に至ったが、ブッシュ・チェイニーは両名とも米国は基本的に静観の構えを採るべきであり、影響力を有するロシアの仲介を重視すべきだとしていた。これは、9・11後、ブッシュ政権の外交政策が大きく介入主義へと転換したことを物語る。
2001年、第43代ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の副大統領となる。小泉純一郎・元首相との会談をこなしたり、フロリダ州立大学の卒業式に参加したりと多忙な日々を送る。フォード、ブッシュ(子)両政権で、国防長官であったドナルド・ラムズフェルドと30年以上もの師弟関係にある。
2005年10月から、副大統領・首席補佐官ルイス・リビーがイラク戦争に批判的だったジョセフ・ウィルソンの妻バレリー・プレイムがCIA工作員であると身元を漏洩したとしてアメリカの連邦大陪審が起訴し、更に副大統領も情報漏洩に関与されている疑いが持たれている。
2007年2月20日より訪日し、安倍首相や麻生外相と会談。外交、国防政策に関して意見を交わすが、イラク政策に関し苦言を呈した久間章生防衛大臣との会談は行わず、在日アメリカ軍横須賀海軍施設で自衛官(制服組)トップの齋藤隆統合幕僚長を始めとする自衛官幹部と会談した。自衛隊は「日程の都合」と説明した。また、横須賀港では空母キティホークにアメリカ軍の兵士を集め、「アメリカ国民は(イラクからの)撤退を支持しない」と演説した。また、ジャーナリストの青木直人や須田慎一郎の取材によると、同会談の際、チェイニーは拉致問題に対する落し所(つまりは、同問題の解明・解決と核開発の放棄を包括的に解決した後、北朝鮮との国交正常化を目指すとした日本政府の政策転換を要求したもの)を安倍に迫ったことが明らかになっている。
時折心臓発作で入院することもあるが、精力的に活動する。そのため在任中は、「史上最強の副大統領」とあだ名された。一方で2008年12月、CNNが行った世論調査によればチェイニーが副大統領としての能力に劣っているとの回答が41%を占めた他、「史上最悪の副大統領」だとする意見が23%にのぼった[3]。
2009年7月、極秘の対テロ作戦実行を、議会には隠すよう中央情報局に指示していた事が発覚[4]。
政治姿勢 [編集]
アメリカ新世紀プロジェクトのメンバーでもあり、ブッシュ政権内では「ネオコン政治家の要石の1人」と指摘されることがあるが、ネオコン第1世代のように左派からの転向ではなく、湾岸戦争時にはフセイン政権転覆に反対していた[5]ことなどから保守からの転向と評される[6]。アメリカ同時多発テロ以降、ブッシュ政権の強硬な武断政策は、チェイニーの意見が大きく働いているとされる。
イラク戦争については、開戦前にアルカーイダとフセイン政権との関連性を示す発言を行い、「証拠もある」としていたが、開戦から5年以上経た現在でも明確な証拠は提示されていない。
持病 [編集]
チェイニーは、37歳の頃から心臓病の持病を抱えており、副大統領在任中までに5回もの心臓発作を起こしており、1988年にはバイパス手術を受けた経緯がある。
2010年6月、ワシントンD.Cの病院で冠動脈疾患の治療を受けた。
2010年7月、バージニア州内の病院で心臓に補助ポンプを埋め込む手術を受けた。経過は良好で8月の第1週に退院予定。
その他 [編集]
若い頃、飲酒運転による逮捕歴がある。ブッシュ大統領も同じ容疑での逮捕歴があることから、正副大統領で飲酒運転による逮捕歴があることになる。
高校時代からの恋人だったリン・アン・ヴィンセントと結婚し、エリザベス、メアリーの2人の娘と6人の孫がいる。
妻のリン・チェイニーが以前から歌手のエミネムを非難していたことから、近年はエミネムがチェイニーの妻と共にディック・チェイニーを非難する曲を発表している。
次女メアリーが同性愛者であることを公表し、イラクの反戦運動にも参加した。なお、共和党は道徳価値として反同性愛を掲げているが、ブッシュは副大統領候補指名に際してこの件を特に問題とはしなかった。メアリーは2007年と2009年に人工授精で二子を出産した。女性のライフパートナー(伴侶)であるヘザー・ポーと育てている。
2006年2月11日には狩猟中に友人の弁護士を誤射し重傷を負わせる事故を起こした。この事故に関して、マスメディアに情報が漏れるまで公表しなかった。なおこの時に酩酊状態であったと報道されている。このニュースは、全米で瞬く間にジョークのネタとなり、ブッシュ大統領も「どんな厳しい前途があったとしても、私はレームダック(死に体)にはならないよ。チェイニー副大統領に足を撃たれない限りね」とジョークを飛ばした。
口癖は『fuck』やそれに類する表現であり、議会で激高して叫んだ姿がテレビ中継にものったことがある。
2009年1月20日に行われたバラク・オバマの第44代大統領就任式へは、車いすに乗り出席した。これは前日の1月19日に、新居への引っ越し作業を行っていた際に背中を痛めてしまったことが原因である。
関連文献 [編集]
『策謀家チェイニー 副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」』
バートン・ゲルマン/加藤祐子訳、朝日新聞出版〈朝日選書〉、2010年10月
著者は、ワシントン・ポスト紙記者で外交、中東、ペンタゴン(国防総省)などを担当。本書の元の連載(ジョー・ベッカー記者と共同担当)でピュリツァー賞受賞。
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1 来歴
1.1 首席補佐官
1.2 下院議員
1.3 国防長官
1.4 ハリバートン
1.5 ジョージ・W・ブッシュ政権
1.6 政治姿勢
2 持病
3 その他
4 関連文献
5 脚注
来歴 [編集]
ネブラスカ州・リンカーンに生れる。父母は農務省に勤務しており、熱烈なニューディーラーだった。ワイオミング州のキャスパーで育った。イェール大学に数学期在籍したが中退し、その後ワイオミング大学で政治学の学士及び修士号を取得。その後は同大学・大学院に進み1966年に卒業。更に、ウィスコンシン大学 ・大学院に移り、同大学大学院時代に、当時のウィスコンシン州知事、ウォーレン・ノールスのスタッフをつとめる。これが、チェイニーが政界との接点を持つきっかけとなる。
首席補佐官 [編集]
リチャード・ニクソン政権では、大統領次席法律顧問を務め、ニクソンがウォーターゲート事件により辞任した後は、ジェラルド・フォード政権で史上最年少・34歳の若さでアメリカ合衆国大統領首席補佐官となる。
下院議員 [編集]
フォード政権が野に下った後は、地元・ワイオーミング州から下院選への出馬を決意。1978年の選挙では難しいとされながら当選を果たし、1989年まで6期つとめる。81年には当選2回ながら、首席補佐官時代の調整・政策立案能力を買われ№4の下院・政策委員長に就任。イラン・コントラ事件の事態収拾に尽力した。人種隔離政策を推進していた南アフリカのピーター・ウィレム・ボータ政権には融和的で、86年の同国に対する制裁法案には反対票を投じている。89年には共和党下院院内幹事をつとめていたトレント・ロットの上院鞍替えに伴い院内幹事に就任。将来の院内総務、共和党の過半数奪回後の下院議長は確実と見られていた。
国防長官 [編集]
ロナルド・レーガンの後継となったジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは、国防長官に当初ジョン・タワー元上院議員を指名していた。しかしながら、その後タワーに女性・飲酒問題が浮上し議会で同人事案が否決。当時は民主党が上下両院で過半数を占めていたため、調整能力のあるチェイニーが代わって浮上。89年3月に正式に国防長官に就任する。1990年8月にイラクのクウェート侵攻(クウェートをイラクの19番目の県として併合)が行われると、イラク軍のクウェートからの撃退の為、隣国・サウジアラビアとの関係強化を図り、中央軍・第3軍の駐留に合意。翌年1月の湾岸戦争を、ノーマン・シュワルツコフ、コーリン・パウエルらと主導した。
ハリバートン [編集]
アメリカのハリバートン社の経営にも1995年-2000年までCEOとして参加していた。ハリバートンは世界最大の石油掘削機の販売会社であり、イラク戦争後のイラクの復興支援事業や、アメリカ軍関連の各種サービスも提供していることから、湾岸戦争とイラク戦争で巨額な利益を得た。なおチェイニーは、この会社の最大の個人株主でもある。
ジョージ・W・ブッシュ政権 [編集]
2007年2月21日、皇居にて今上天皇と
2007年2月21日、総理大臣官邸にて安倍晋三首相と
2000年の大統領選挙前にジョージ・W・ブッシュ(当時テキサス州知事)から副大統領候補を推薦してくれるように依頼され、そのまま自分を推薦して副大統領となった[2]。同年の大統領選の討論会では論争に強くないブッシュがアル・ゴアも前に劣勢を強いられたが、チェイニーは反対にケンタッキー州で行われた10月の討論会でジョー・リーバーマン上院議員を論破。また、同選挙戦の際にユーゴスラビアでは革命が勃発し、スロボダン・ミロシェビッチ政権が崩壊に至ったが、ブッシュ・チェイニーは両名とも米国は基本的に静観の構えを採るべきであり、影響力を有するロシアの仲介を重視すべきだとしていた。これは、9・11後、ブッシュ政権の外交政策が大きく介入主義へと転換したことを物語る。
2001年、第43代ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の副大統領となる。小泉純一郎・元首相との会談をこなしたり、フロリダ州立大学の卒業式に参加したりと多忙な日々を送る。フォード、ブッシュ(子)両政権で、国防長官であったドナルド・ラムズフェルドと30年以上もの師弟関係にある。
2005年10月から、副大統領・首席補佐官ルイス・リビーがイラク戦争に批判的だったジョセフ・ウィルソンの妻バレリー・プレイムがCIA工作員であると身元を漏洩したとしてアメリカの連邦大陪審が起訴し、更に副大統領も情報漏洩に関与されている疑いが持たれている。
2007年2月20日より訪日し、安倍首相や麻生外相と会談。外交、国防政策に関して意見を交わすが、イラク政策に関し苦言を呈した久間章生防衛大臣との会談は行わず、在日アメリカ軍横須賀海軍施設で自衛官(制服組)トップの齋藤隆統合幕僚長を始めとする自衛官幹部と会談した。自衛隊は「日程の都合」と説明した。また、横須賀港では空母キティホークにアメリカ軍の兵士を集め、「アメリカ国民は(イラクからの)撤退を支持しない」と演説した。また、ジャーナリストの青木直人や須田慎一郎の取材によると、同会談の際、チェイニーは拉致問題に対する落し所(つまりは、同問題の解明・解決と核開発の放棄を包括的に解決した後、北朝鮮との国交正常化を目指すとした日本政府の政策転換を要求したもの)を安倍に迫ったことが明らかになっている。
時折心臓発作で入院することもあるが、精力的に活動する。そのため在任中は、「史上最強の副大統領」とあだ名された。一方で2008年12月、CNNが行った世論調査によればチェイニーが副大統領としての能力に劣っているとの回答が41%を占めた他、「史上最悪の副大統領」だとする意見が23%にのぼった[3]。
2009年7月、極秘の対テロ作戦実行を、議会には隠すよう中央情報局に指示していた事が発覚[4]。
政治姿勢 [編集]
アメリカ新世紀プロジェクトのメンバーでもあり、ブッシュ政権内では「ネオコン政治家の要石の1人」と指摘されることがあるが、ネオコン第1世代のように左派からの転向ではなく、湾岸戦争時にはフセイン政権転覆に反対していた[5]ことなどから保守からの転向と評される[6]。アメリカ同時多発テロ以降、ブッシュ政権の強硬な武断政策は、チェイニーの意見が大きく働いているとされる。
イラク戦争については、開戦前にアルカーイダとフセイン政権との関連性を示す発言を行い、「証拠もある」としていたが、開戦から5年以上経た現在でも明確な証拠は提示されていない。
持病 [編集]
チェイニーは、37歳の頃から心臓病の持病を抱えており、副大統領在任中までに5回もの心臓発作を起こしており、1988年にはバイパス手術を受けた経緯がある。
2010年6月、ワシントンD.Cの病院で冠動脈疾患の治療を受けた。
2010年7月、バージニア州内の病院で心臓に補助ポンプを埋め込む手術を受けた。経過は良好で8月の第1週に退院予定。
その他 [編集]
若い頃、飲酒運転による逮捕歴がある。ブッシュ大統領も同じ容疑での逮捕歴があることから、正副大統領で飲酒運転による逮捕歴があることになる。
高校時代からの恋人だったリン・アン・ヴィンセントと結婚し、エリザベス、メアリーの2人の娘と6人の孫がいる。
妻のリン・チェイニーが以前から歌手のエミネムを非難していたことから、近年はエミネムがチェイニーの妻と共にディック・チェイニーを非難する曲を発表している。
次女メアリーが同性愛者であることを公表し、イラクの反戦運動にも参加した。なお、共和党は道徳価値として反同性愛を掲げているが、ブッシュは副大統領候補指名に際してこの件を特に問題とはしなかった。メアリーは2007年と2009年に人工授精で二子を出産した。女性のライフパートナー(伴侶)であるヘザー・ポーと育てている。
2006年2月11日には狩猟中に友人の弁護士を誤射し重傷を負わせる事故を起こした。この事故に関して、マスメディアに情報が漏れるまで公表しなかった。なおこの時に酩酊状態であったと報道されている。このニュースは、全米で瞬く間にジョークのネタとなり、ブッシュ大統領も「どんな厳しい前途があったとしても、私はレームダック(死に体)にはならないよ。チェイニー副大統領に足を撃たれない限りね」とジョークを飛ばした。
口癖は『fuck』やそれに類する表現であり、議会で激高して叫んだ姿がテレビ中継にものったことがある。
2009年1月20日に行われたバラク・オバマの第44代大統領就任式へは、車いすに乗り出席した。これは前日の1月19日に、新居への引っ越し作業を行っていた際に背中を痛めてしまったことが原因である。
関連文献 [編集]
『策謀家チェイニー 副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」』
バートン・ゲルマン/加藤祐子訳、朝日新聞出版〈朝日選書〉、2010年10月
著者は、ワシントン・ポスト紙記者で外交、中東、ペンタゴン(国防総省)などを担当。本書の元の連載(ジョー・ベッカー記者と共同担当)でピュリツァー賞受賞。
投稿者 格闘技の王子様 16:40 | コメント(0)| トラックバック(0)
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